人の旅路
新しい人生
「で、その逃げた大学府の女性研究員が、ゲルガンド将軍の恋人だった、ということ?」
老人の昔話を聞き終えたミツルがこう尋ねた。
老人と若者の二人連れは、光一とミツルに約束したとおり、二人を大衆酒場に連れて行き、気前よくいろんなものをご馳走してくれた。その間に老人が十七年前の昔に起こった話を聞かせてくれたのである。
「さあね」
ミツルの問いに答えたのは若い男の方だった。
「何もなければ逃げはしないだろうし、逃げたのだからゲルガンド将軍と親しかったのは事実だろう。ただ、それがどの程度の仲だったのかはわからないな」
「わしらが知っているのは、皇女が呪を使って五人の女を襲い、一人は逃げた、ということだけだからのう。真相なんてわからんよ」
老人もそう付け加えた。
「ええっと。話を整理していいですか?」
光一が口を挟んだ。十七年前の話と、今の自分たちの置かれている状況がどう結びつくのかが、まだよくわからなかったからだ。
「この世界は大部分を一人の皇帝が支配している。で、その皇帝の娘はちょっとわがままなんですね? それで、ゲルガンドという立派な将軍に片思いしていて、なかなか振り向いてもらえないから、やきもちを焼いて、ゲルガンド将軍と親しそうな女性たちを襲った。これが前々からあった、皇帝派と親ゲルガンド派の対立を刺激してしまった。そこで一触即発の危機に陥ったんだけど、ゲルガンド将軍は戦争を望まず、皇都を離れて旅に出た。こういうことですね」
「その通りだ。年寄りの長話をうまくまとめたな、坊主」
若い男がからから笑いながら言った。
「それで、貴方がた二人は、『彷徨える皇軍』の関係者なんですね?」
「そうだ。我々はティード将軍の部下の者だ」
光一の問いに、若者が誇らしげに答える。今度はミツルが怪訝そうな声を上げた。
「ティード将軍?」
「ティードリーア姫様じゃよ。姫様が出世なされて将軍職に就かれたんじゃ」
老人が、これもまた誇らしげに答えた。そしてさらに胸をはって付け加える。
「ああ、それからワシは、この男と違ってただの部下ではないぞ。姫様がお小さい頃より、『じいや』としてお世話申し上げてきたんじゃ」
「えーっと、ティードリーア姫は帝国では平民とみなされているから、この場合下級将軍になったということですね?」
と光一が確認すると、また若い男が答えた。
「そう。部下千人を率いる将軍だ。我々皇軍は旅の途中で、蛮族に襲われた国を助けたり、盗賊団を殲滅したりしてきたが、ティード将軍はその都度勇敢に戦ってこられたんだ。将軍職は実力だよ」
「あの、さっき僕たちを雇い入れると言ってましたけど。僕たち、ティード将軍の部下になって何をするんですか?」
「わしの手伝いじゃよ」
光一の問いに、ティード将軍の「じいや」が答えた。
「わしはもう手一杯なんじゃ。それでこんな奴の手まで借りねばならん」
じいやはいまいましげに若い男を指差した。
「確かに、じいさんは忙しいんだ」
若い男が説明を始めた。
「軍隊が行動するってことは、多くの人間が移動しながら暮らすってことなんだ。当然衣食住の用事ができる。基本的には、生活に必要な物資は輜重隊が運搬して各部隊に配布する。各部隊では――えっと、我らがティード部隊を例に説明しようかな。我々は、百名で構成される各隊から二名を選んで生活係に任命している。ティード部隊は十隊あるから二十人の生活係がいるわけだ。この二十人でティード部隊の毎回の食事の支度、衣類の洗濯、天幕の撤収と設営、その他諸々の用事をこなすんだ」
「華々しく戦ってばかりってわけじゃないのね」
「日常というのは地味なものだよ、ミツルお嬢さん」
若者はにこやかにミツルを諭す。どうもこの若者はミツルに特段愛想が良い。光一はムッとしながら話を戻した。
「そうやって生活係が決まっているなら、どうして『じいや』さんが忙しいことになるんですか?」
「輜重隊がケチじゃからよ」
「……?」
「じいさん。もっと相手にわかるように説明しないと」
若い男が再び説明を始めた。
「我らが『彷徨える皇軍』の物資の管理は軍吏たちの仕事だ。で、この軍吏の長が、さっき話した皇帝の間諜ホイガだ。要するに軍の物資はホイガが握っている。で、輜重隊は確かに日々の食糧なんかはちゃんと配分してくれる。手元に持っていても、腐らせたりなんかしたら自分たちが厄介な目にあうだけだからな。だが、例えば、鍋だの衣類だのになるとなかなか支給しようとしない」
「ティード将軍に対する嫌がらせですか?」
「そんなところだ。まあ、この皇軍にいるのは皆親ゲルガンド派の将軍ばかりで、どの将軍も多かれ少なかれ似たような目にあっているけどね。物資を出し渋ることで、権力を振りかざしている気になってるんだろうよ、ホイガの奴は」
「それで、心優しい姫様が、そういう不足した品々を、私費で購うことにされたんじゃよ」
「そう。我らが美しき女将軍はとても優しくていらっしゃるから」
「じいや」も若い男も「我らがティード将軍」について語るときは誇らしげだ。特に、若い男の表情には、光一もミツルも意外な印象を受ける。
若い男は、話す口調は軽いし、ミツルには愛想が特に良いのだけれども、さすがに軍人としての職業柄か、どこか何かに身構えているような雰囲気がある。ところが、かの将軍に関して語るときだけは、見えない鎧を解き、うっとりとした表情を隠さないのだった。
「姫様が私費で購うというわけで、これは姫様個人の用事ということになる。それでワシが買い出し係を務めることになったんじゃよ。もちろん品物を運ぶような力仕事はいくらでも部隊の生活係に手伝ってもらえるんじゃがな」
「じいや」はため息をついた。
「注文する作業が大変で……。何しろ買う品物は細々と多岐にわたっておって、普通の頭ではとうてい覚えられんのじゃ」
「紙に書いておけばいいじゃない」
ミツルが口を挟んだ。
「それじゃよ。ウチの部隊じゃ、いや他の部隊でも字を書ける者はほとんどおらんのじゃよ」
今度は光一が口を開いた。
「ああ、そうか。この世界じゃ字を学ぶことは禁じられているんでしたよね。あの、僕、前から不思議に思っていたんですけれど、どうしてこちらの世界では字を学ぶことが禁じられているんですか? さっきの昔話の中ではむしろ学問は奨励されてたような印象を受けるんですけど」
ミツルも、この件については黙ってられない、といった感じで話に加わった。
「そうよ。どうして私たちは文字を学んではいけないの? コーイチの話では、あちらの世界では強制的に字を習わせるそうよ。なのにどうして私たちはダメなの?」
先に「じいや」がこたえた。
「若い者には生まれる前からずっと決まっていたかのように思えるかもしれんがね。字を学んではならぬと決まったのも十七年前なのじゃよ。ワシのような年寄りからすれば最近の話じゃ」
「また十七年前の事件ですか。で、それがどうして字を禁じることになったんですか?」
「そうよ。何の関係があるっていうのよ」
若い男が答えた。
「恋人だったかどうかはともかく、大学府の平民が、皇帝の従兄という貴人中の貴人と親しくなることができた。身分の秩序を守る側からしたらゆゆしき事態さ。それに平民に学問を許してしまえば、どこの馬の骨ともわからぬ者が、知識という自分たちは持たない力を手に入れることになるからね。皇帝たちはそれを脅威に感じ始めたんじゃないかな」
「そんなの、ひどいわ。私がいろんなことを学びたいっていうのは、ただそれが楽しいからよ。別に皇帝に喧嘩を売ろうなんて思っていないわ」
ミツルがむくれるのを若い男は面白そうに眺めやりながら、話の本題に入った。
「だが、わが軍に入れば文字は使い放題だ。それに仕事の合間にいろいろな本を読んでも構わない。そんなに多くはないかもしれないけれど給料は出すからそれで本を買えばいい。とにかくわが軍は自由だ。本を読むことを禁じたりはしない」
「お給料が貰えるのね」
「そうだ。それも衣食住についてはこちらから支給するから、ほとんど全額自分の好きなことに使えるぞ」
「……それはいいわね。いいんだけど、ここで軍に入ります、って言っちゃったらもう二度と軍から離れることはできないの?」
「いいや。旅をしていて気に入った場所があれば、軍を離れてそこに定住してもいい」
ミツルと光一は顔を見合わせた。理想的な条件だった。お金を稼ぎながら、この世界を旅し、好きなところで新しい人生を送る。浜辺の村から旅をしてきた目的が、そっくりそのまま叶おうとしている。
――この話、乗ってもいいんじゃないかな
と、光一が言う前に、ミツルがはっと何かに気がついた。そして若い男に向かって尋ねた。
「ねえ、この話。もちろんコーイチも一緒よね?」
光一はびっくりした。皇軍入りを誘われているのは自分も含めてだと、当然にそう思っていたからだった。
しかし、確かに、彼らが欲しいのは「この世界の文字を読める者」だけだ。それに、自分は「海から来た者」だから当然皇都を目指すものと思われているに違いない。自分のことは雇ってくれず、ミツルと離れ離れになってしまうかもしれない。
後になって振り返ると、自分よりもミツルの方が先に気づいてくれたことに、心温まる思いをすることになるけれども、この時の光一はここで自分だけが置いていかれるかもしれないと思うと気が気ではなかった。
「コーイチ、というのは坊主のことかい。彼は『海から来た者』だろう? 皇都に向かわないといけないのに、我々と同行したって決して皇都には行けないよ」
「光一には向こうの世界に帰りたくない理由があるの。向こうの世界に帰れば、私たち浜辺の者のように蔑まれてしまうのよ」
「ちょっと待ってくれないか?」
若い男は少し混乱したようだった。
「『私たち浜辺の者』と君は言ったが、君が『浜辺の者』なのかい? 外見はそうは見えない……「石の国」かどこかの出身に見えるけど?」
「代々浜辺の村にいたわけじゃないわ。私の母さんが砂浜の村に住み着いたの。それで『浜辺の者』になっちゃったのよ」
「ふうん……」
浜辺の者は、「河の信仰」の中では最下辺の賤民とされる。それを承知で砂浜の村に住み着いたというなら、この少女の母親はなにか後ろ暗いことでもしでかしたのかもしれない。若い男はそう思ったが、口には出さなかった。
ミツルは続ける。
「『浜辺の者』として蔑まれるのは、私自身の責任でも意思でもないわ。だから、私はずっと『海からきた者』が現れるのを待って、旅の自由を手にいれて、そして誰も自分を知らない世界で自分自身の新しい人生を手にいれようと思っていたの。貴方にもこの気持ちはわかってもらえるはずだわ」
「どうしてそう思うんだい?」
若い男の目に興味深そうな色が宿る。
「だって、貴方は将官なのでしょう? だから字の読み書きもできる。『浜辺の者』で軍に入るものは多いわ。でもそれは雑兵として入るし、そして雑兵として終わる。将官になんてなれっこない。雑兵出身でも優秀なら下級将軍になれる道は確かにあるでしょうけど、他の国の民でもそれは難しい上に、『浜辺の者』なら更に物凄い反発があったはずよ。それでも貴方は将官になって見せたわ。きっとよほど強い『蔑まれたくない』っていう気持ちがあったはずよ。だから、貴方には『蔑まれたくない』っていう私やコーイチの気持ちがわかるはずだわ」
若い男は、すぐには答えず、遠い目をしていた。自分が今まで辿って来た道を思い起こしているのだろうと光一もミツルも考えた。そしてそれは当たっていたらしい。若い男は言った。
「コーイチ、って言うんだね、君は」
「え……は、はい」
若い男が初めて光一に関心を向けた。
「我々皇軍は、蔑まれて生きる状況から、君を救いだせるかな?」
「……はい、多分。僕も新しい人生があるならそっちがいいです。それを探すのに、ミツルと一緒に皇軍に入りたいです」
「結構。確か君の世界では強制的に文字を教えられるそうだね。じゃあ、こちらでも文字の読み書きが出来るようになるかな?」
「頑張ります」
その答えに、隣に座っていたミツルも満足した。以前、「自分たちは働かなくてはならない」事実に突き当たった時、コーイチは自分が働くことにびっくりしていた。その時は、自分たちのことをどこか他人事のように考えていた様子に苛々したけど、それに比べたら今は随分積極的になってきたわ。ミツルはそう考えていた。
「よし。じゃあ二人とも雇おう」
「有り難う!」
「僕一生懸命やります」
ミツルと光一が勢いこんで言うのに、若い男は口元に軽い笑みを浮かべたが、すぐに苦笑に転じた。
「さあ、そろそろデザートに甘いものを頼むとするか。そして次は私の昔話を聞いてもらうことにしよう。なに、じいさんの長話に比べれば短いお話なんだがね」
彼は微量の苦々しさを表情に浮かべて、ミツルを見た。
「さっき君は僕と自分を指して『私たち『浜辺の者』』と言ったね。これから話すのは、『浜辺の者』を裏切った『浜辺の者』一家のお話だよ」
彼はそう言い置いて、ウェイターを呼んだ。
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