彷徨える皇軍

 ティードリーアは、ゲルガンドの館への帰途、何度も真実を、つまり自分が手紙を破り捨ててしまったことも含めて事実を彼に告げようかどうか迷っていた。


 悩みながらゲルガンド邸に近づくと、館の周りに多くの人々が集結しているのが見えた。その多くは武装している。ゲルガンドと親しい貴族や、皇都滞在中の諸国の王族、皇軍の将官達がゲルガンドの許に、それぞれ私兵や部下を引き連れて集ってきており、邸内に入りきれない者たちが庭にまで溢れているのだった。


 貴族や王族、将官たちは口々にゲルガンドに詰め寄っていた。


「今回、四人の親ゲルガンド派の貴族が襲撃された。その令嬢の中にゲルガンド将軍の恋人がいる、というのが皇女の言い分だが、どの令嬢とて将軍の恋人ではない。これは単なる口実に過ぎませぬ」

「その通り。今回の襲撃は我々親ゲルガンド派の勢いを削ごうとする弾圧だ!」

「皇女が悋気を起こしたため、とされているが、本当は皇帝自らの陰謀ではないのですか、これはっ」


 ゲルガンドは興奮する客人たちを宥めるのに懸命だった。


「皆、待ってもらいたい。皇女には少々幼いところがおありなのだ。今回のことも深い思慮があったわけではあるまい。少女の癇癪をいちいち大ごとにすべきではない」

「はんっ」


 一人の王族が声を上げる。


「我が国は、そんな愚かで驕慢な少女に膝を屈して、その統治を受けなければならぬのか。情けないことだ」


 将官の一人も声を上げた。


「ゲルガンド将軍。皇女は先般も、ご養女ティードリーア姫に対する嫉妬から、我々皇軍を危険に晒しました。皇女のかような我儘ぶりでは、もはや皇帝位につく資格なしと思われます」

「あれは皇女自らが思いつかれたことではない」


 ゲルガンドは諭したが、その将官は態度を曲げなかった。


「皇女が黙認したというだけで同じことです。皇帝を守るのが我々皇軍の務め。その皇軍の命を敵に売るなど、そんな皇女にどうして我々が忠誠を捧げられましょうか」


 賛同の声が軍人たちから湧き起る。貴族の一人も負けじと声を張り上げた。


「まったくだ。そもそもあの皇女の母親は我々同様廷臣の一人に過ぎなかったのだ。その娘を女帝として認めることからして、我々は納得がいかなかったのだ。それでも、ゲルガンド将軍を夫君にするなら、我々もあの娘が女帝になるのを容認もできようが。なれど、皇女がゲルガンド将軍に従わぬようなら我々も再度態度を改めねばならぬ」

「その通りだ」


 先ほどとは別の王族が応じた。


「帝位は皇女が継いでも、その実権はゲルガンド将軍、貴方が握るのだと我々は思っていた。それならば我が国もこれまでどおりこの帝国に従ってもいい。しかし、あの少女が実権を手放さないのなら話は異なる。我々は貴方に率いられるのに異存はないが、あんな少女に統治されたくないのだ」

「そうだ、そうだ」


 客人達はそれぞれ大声で賛意を表した。自分たちゲルガンドには従うが、リザ皇女の支配は被りたくないのだ、と。


「待って欲しい、ともかく待ってもらいたい」


 ゲルガンドも大声を張り上げざるを得ない。


「まず皇帝陛下に会って真相を確かめる。真相が明らかとなれば、皇帝陛下も今回のことについて、きっと皇女を厳しく叱責なさることだろう」

「真相など最早意味を持ちません、ゲルガンド将軍」


 この声の主は、ゲルガンドの副将を務めるティルバだ。


「ゲルガンド将軍、ここにいる客人方をご覧ください。これほど多数の人間がここに集結している。そして今ここにいなくても、貴方が一声掛ければもっと大勢の人間が貴方の許に集まるでしょう。我々親ゲルガンド派は、皇帝と拮抗できる大勢力なのです」

「ティルバ……」

「皇帝がこんな危険な勢力を野放しにしておくとは思えない。これからも何かと口実を見つけては我々の勢いを削ぎにかかるでしょう」


 将軍! とティルバは高らかな声で叫んだ。


「将軍、今こそ皇位を簒奪するのです! このままでは我々はいつ何どき、どんな難癖をつけて攻撃されるかわからない。今やらなければ、やられてしまう。やられる前にやるのです!」


 人々は大きくどよめいた。やらなければやられる、その一言が人々の興奮に火をつけた。挙兵を! 今すぐの出陣を! あちこちからそんな怒号が湧き起る。


 ゲルガンドはしばらく渋い顔をしていたが、振り返って後ろに控えている使用人頭を呼んだ。使用人頭は緊張したが、その用件は意外極まりないものだった。


「ティードリーアはもう帰っているか?」

「え……あ、はい。ゲルガンド様の私室でお待ちです」


 ゲルガンドは頷くと、人々に向かって叫んだ。


「申し訳ないが、私用で失礼する」


 人々はあっけにとられ、白けた雰囲気がその場に舞い降りた。しかしそれは、ゲルガンドの思惑どおりのものだった。彼はこのままここにいる集団が暴走するのは避けたかったのである。彼は立ち上がると、そのまま客間から出て行ってしまった。



 客間の興奮したやりとりは館中に響き渡っており、ティードリーアにも客間の熱狂は伝わってきていた。そして軍人の一人として、これから新たな戦いが始まるのだろうかと緊迫した思いで聞いていた。それだけに、客間の人々同様、こんな時に私用で席を外すゲルガンドに出鼻をくじかれたような思いをしていた。


 そんなティードリーアの前にゲルガンドは現れ、そして顔を見るなり尋ねたのだった。


「どうだった? ネルヴァは無事逃げただろうか?」


 ティードリーアの胸に怒りが燃え上がる。彼女は思わず「貴方はこんな時にあの女の消息の方を気にかけるのですか!」と怒鳴りそうになった。しかしそれを飲み込んで、ただ簡単に答えた。


「ネルヴァ殿は、すぐに皇都から逃げると言っておられました」


 ティードリーアの胸の中に嫉妬が渦巻く。皇位の簒奪という重大事がかかっているときに、ゲルガンド将軍はあの女のことを気にかけている。それほどまであの女を愛しておられるのか。嵐のような怒りの中で、ネルヴァからの手紙の件も、本名の件も、そしてそれらをゲルガンドに告げようという気持ちも、一切が吹き飛んでしまった。


 ゲルガンドは皇位の簒奪という大事に全く頭を向けていないというわけではなかった。彼は頭の半分を今後の大事へ、そしてもう半分をネルヴァに対する気遣いへ向けていた。そしてこの二つで頭がいっぱいで、ティードリーアが、ネルヴァが女性であると知ってどのような衝撃を受けたのか、まで気を回すことを失念してしまっていた。


「そうか。間にあったか、良かった……」


 彼はティードリーアの前であからさまに安堵の表情を浮かべてしまった。それがティードリーアの嫉妬を掻き立てていることに気付くことなく。


「行き先について彼女は何か言っていなかったか」

「いいえ」


 ティードリーアは迷うことなく答えた。彼女はもう、自分の中で荒れ狂う感情に抗おうとも思えなかった。


「それより、ゲルガンド将軍、いよいよ兵をお挙げになるのでしょうか?」


 ティードリーアは、話題をネルヴァに関するものから変えてしまいたかった。そしてゲルガンドに、せめて自分の上官としての立場を取り戻して欲しかった。戦があれば自分はまた一つ武勲を立ててみせる。そうやって一歩ずつゲルガンド将軍に近づいていける。彼女はそう考えた。


「いや。私は挙兵などしないよ」


 静かな口調でゲルガンドは答えた。


「なぜです?」

「君からそんな質問をされるとは思っていなかったよ、ティードリーア」

「……?」

「民が二つに分かれて殺しあう光景など見たくない、君もワレギアでそう言っていなかったか?」


 ティードリーアは赤面して俯いた。確かに以前の自分は、民の幸福を願う心清らかな少女だったのに。何故こうも変わってしまったのだろう。ティードリーアの胸にふいに哀しみが湧き起った。ネルヴァという女を憎み、戦乱を望む。今の自分がひどく情けない生き物になり下がってしまったような気がした。


ゲルガンドは、ティードリーアの哀しみなど気づくことなく、自分の考えていることを続ける。


「私は自分を恃むところがさほど厚い方ではないが、今叛旗を翻せば、確かに帝国を二分するほどの勢いになるだろうとは思う。皇帝との戦は史上に例を見ない大規模なものになるだろう。そんな大きな戦は避けたい」

「ですが、戦乱の後には、民の幸福がもたらされると信じて、皆はゲルガンド様に皇位の簒奪を勧めているのではないのですか?」


 ティードリーアは戦乱を望む自分を恥じたが、一方で客間にいる人々の言い分もわかるのだった。


「いや。それでも、今、私は兵を起こすべきではない。私は旅が好きだからあちこちの国を見てきた。多くに国が、ワレギアのように新教と旧教の間の諍いを抱えている。長年の紛争で民は疲弊しているのが現状だ。そこに新たな戦乱を起こしては、民の犠牲が大きなものになるだろう。私が、少なくとも今は戦を避ける理由の一つはそれだ」

「理由の一つと仰いますと、ほかにも理由があってのことでしょうか」

「聡いな、ティードリーア」


 ゲルガンドは少しの間笑んでみせたが、すぐ真剣な顔に戻った。


「戦争が、終結後民に幸福をもたらすものなら、その戦は肯定される――そう客間の者は思っていると、君はさっき言った」


 だが。ゲルガンドは遠くを見つめながら呟いた。


「戦の後、幸福な治世をもたらすことができるか。私はそれに自信がない」

「ゲルガンド将軍……」

「民の幸福に対して果たす皇帝の役割というものが、私には未だわからないのだ」


 今の帝国は百科の殿堂などの装置を用いて、帝国全土に単一の秩序を押しつけ支配しようとしている。しかし、各国にはそれぞれ豊かな個性を持った独自の文化が存在している。ネルヴァは、友人たちを例に、各々の文化で育った者たちは、帝国の押しつける「真理」にそう簡単に染まりはしないのだと指摘した。


 その一方で、ネルヴァは帝国の未来も指し示していた。一度帝国の中に組み入れられた各王国の文化はそれぞれ交流する機会が圧倒的に増加する。そしてその中で、変容せざるをえないのだ、と。


 今の帝国は文化を支配しようとしているが、それは間違っているし不可能だ。そうネルヴァは看破していた。そして、だからといってこれからますます変化していく帝国を、無秩序に放っていくわけにはいかない。けれどそのためには何をすればいいのか――。


 ――ネルヴァがいれば。


 ゲルガンドは息を吐いた。


 ネルヴァは帝国の現状と未来を正しく端的に指摘してみせた。そしてそこから、結局単一の真理や正義はないのだ、という虚無的な結論に陥ることがなかった。代わりに、彼女は頬を上気させながら、異質の文化を包含するような真理を学問は見いだせていけると断言してみせた。


 あの力強さ。自分がもし皇帝になるなら、あのような人間が側にいてくれることが必要なのだ。


 しばらく無言となった自分に、ティードリーアが怪訝そうな顔を向けているのにゲルガンドは気づいた。


「私一人では答えは見つからない。だが、いつか答えの見つかる日もくるだろう」

「では今はどうなさるのですか、ゲルガンド将軍。客人方の興奮を冷ますのは容易ではないでしょう。それにゲルガンド将軍の邸宅に来て、皇位の簒奪を叫んだからには、このままでは皆、皇帝に何らかの処罰を受けることは必定です」


 ゲルガンドは一気に現実に引き戻された。暫しの間、ゲルガンドは瞑目して考え込んでいた。そして出てきた答えは簡潔なものだった。


「旅に出よう」





 ゲルガンド邸に親ゲルガンド派が集結し、ゲルガンドに蜂起を迫っている――この知らせはホイガによって皇帝側にもたらされていた。皇帝側も残った皇軍に召集をかけ、皇宮内では緊張が高まっていた。


 そこにゲルガンドから親書が届き、スヘイドはおそるおそるその封を切った。その親書には「帝国の安寧のため、諸国王を歴訪して友好を深める旅に出たい。ついては皇帝陛下のお許しを請う」としたためられていた。


 スヘイドはほっと胸をなでおろした。もっとも、側近の貴族の中には、ゲルガンドをこのまま野放しにする方が危険だという意見もあった。しかし、スヘイドはそれを採らなかった。彼は暗愚ではないが平凡な皇帝であり、帝国を二分するような、前例のない戦いに臨む器量はなかった。たとえ先送りでも、当面のあいだ、そんな大きな問題に今すぐ直面せずに済むのは有難かった。


 ただ彼は一つだけ条件をつけた。それは今後ともホイガを軍吏として連れていくように、ということだった。





 このような経緯を経て、ゲルガンドは、自分に従う勢力とともに旅に出ることになった。彼らは十七年に長きにわたって皇都に帰還することがなく各国を渡り歩き、「彷徨える皇軍」と呼ばれることになった。


 そしてティードリーアはその間人知れぬ悩みを抱えることになる。ネルヴァとその腹の子について、である。単純な嫉妬以外に、彼女には、ネルヴァ親子の行方をゲルガンドに告げてはならない理由が増えてしまった。


 もしゲルガンドが、この親子の行方を知れば勿論すぐにこの二人を迎えに行くことだろう。そして嫉妬深いのは自分だけではない。ティードリーアは一面識もない一人の少女のことを考えていた。もしゲルガンドとあの親子が幸福な再会を果たせば、あのリザ皇女の憤怒はいかばかりのものになるだろうか……。


 自分の嫉妬の獰猛さを知るティードリーアは、リザ皇女の心情もわかるような気がした。父帝がいくら止めても、あの皇女ならきっと何らかの手を使ってゲルガンドとネルヴァ親子に襲い掛かってくるだろう。


 ゲルガンド派の者たちが旅にでることで、皇帝派とは物理的な距離はおくことになるが、緊張関係は当分持続するのは明白だった。その中で再びリザ皇女の襲撃がなされれば、今度こそ帝国を二分する戦いの幕開けとなるだろう。


 ――だから、彼女の行方をゲルガンド将軍に知らせてはならない。


 けれどそれは互いに想いあう恋人同士を引き裂くことであり、血の繋がった家族に離れ離れになることを強いることでもある。何より、ゲルガンドは自分に子がいることさえ知らないままになる。


 ゲルガンド個人の幸せを思うならあの親子の行方を知らせるべきだ。けれどそれは戦の火種となる。そして、自分は自分の嫉妬する心を抑えることができない。でもそれではゲルガンドは自分の人生の幸福を知らずに過ごすことになる……。


 ティードリーアの中で、思考は空転するばかりだった。


 その中で彼女が感じ続けていたのは罪の意識だった。あの手紙を引き裂いたのは、自分の中の嫉妬によるものだ。帝国の平和のために秘密にするという大義名分は自分の中では後付けの理由に過ぎない。ティードリーアは自分の心に振り回されると同時に、冷静に分析もできるほどに聡明な少女だった。それが彼女にとって幸か不幸かは誰にもわからない。


 ともかくその後十七年の間、ネルヴァ親子の存在は彼女一人の秘密であった。そしてその長い時間は彼女が罪の意識に煩悶し続ける年月でもあった。



 リザ皇女と父帝の確執。皇帝とゲルガンドとの緊張関係。そしてティードリーアの煩悶。これらの事態は膠着状態に入った。十七年後、当事者たちが、このまま一生何も変わらぬままかと思い始めた頃、帝国の運命が大きく変わることになる。その劇的な変化は、砂浜の村に漂着した、ある「海から来た者」がもたらすことになるのである。

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