裏切りの代償

 スヘイドは娘の私室へ向かっていた。都に起こった怪異と、貴族達の被った被害について、彼は既に報告を受けていた。怪異の詳細を聞くにつれ、これは神官たちが保存している呪であることに彼は気づいた。この呪を用いることができるのは、皇位を継ぐものだけである。


 スヘイドは呪の存在は知ってはいたが、父シャルメル同様、それを用いようとは思わなかった。古来の儀式の方は重んじるが、個人的に用いる術の方は帝国の統治には特別必要なかったからである。自分が用いていないのだから、今回の呪はリザが用いたもの、ということになる。


 スヘイドは自室にリザを呼びつけようとしたが、娘は頑として聞き入れなかった。侍女によるとリザは大層立腹しているという。今回の事件が、リザが呪を手に入れてのものなら、その勝手さに怒らなければならないのは自分のほうだ、とスヘイドは思ったが、ともかくリザに会わないことには事の真相がわからない。


 今まで父が呼べば喜んで父の部屋までやってきた娘の変化に、少々戸惑いつつ彼は娘の部屋まで来た。


 スヘイドがリザの部屋に姿を現すやいなや、甲高い怒号が叩きつけられた。


「お父様の裏切り者!」


リザは椅子を蹴って立ち上がり、怒りをあらわにしている。スヘイドは唖然と娘を見ることしかできなかった。


「お母様が死んだのは結局お父様のせいじゃないの!」


 スヘイドは心臓を鷲掴みにされたような気がした。確かに妻の死の直接のきっかけは自分であったと彼は思っている。しかし、娘には決して知らせたくなかったし、娘が知るはずのないことであった。娘は一体なぜ、何をどこまで知っているというのだろう。


「な、何を言っているのだね、リザ」

「お母様は、お父様から妻にと望まれて以来、周囲から冷たい仕打ちを受けていたわ。でもお父様の愛情があったから、お母様は耐えてこられたのに。それなのにお父様はお母様を見捨ててしまったのよ!」


 スヘイドの胸がきりきり痛む。確かに自分は、妻に苛立ち、「つまらない女」と心の中で見下したことがある。


 ただ、それを口に出したことは一度たりともなかった。残念なことに、あの繊細な妻はきっと気がついてしまったのだろうけれども。しかし、妻以外にこのことを知る者はいないはずだ。


 スヘイドは娘に慎重に尋ねた。


「私が、お前の母を見捨てたなどと、一体何を根拠にそういうのだね?」


 リザは父親を睨み据えながら言った。


「黒い鳥よ。黒い鳥はお母様の心の内をみんな聞いて知っているわ」

「黒い鳥?」


 スヘイドは一瞬の間の後に思い出した。黒い鳥とは、ペイリンが言っていたあの黒い鳥のことだろうか。


 彼女はその鳥は人語を解するのだと主張し、あれこれ話しかけていたが、スヘイドは鳥が人と会話できるなどと信じたことなど一度もなかった。


「初めまして、皇帝陛下」


 リザの椅子の背に止まっていた黒い鳥が声を発した。スヘイドは呼吸を止めて鳥を見た。


「私が貴方にお声をかけたのは初めてですな、皇帝陛下。貴方は私の姿を何度もご覧でしたでしょうが」

「……お前か。お前がしゃべっているのか」


 スヘイドの呼吸が荒くなった。


「ええ、確かに私が喋っておりますよ」

「お前は本当に人語を解するのか。ペイリンは本当のことを言っていたのか」


 スヘイドは絞り出すように呻いた。リザは愕然とする父に、冷たい口調で言った。


「お父様はお母様を信じていらっしゃらなかったのですものね。お母様は一人で苦しんでおられた。それを打ち明けることができたのがこの黒い鳥だけだったなんて、かわいそうなお母様」

「リザ……」


 項垂れるリザの肩を抱こうとして、スヘイドはその手を振り払われた。掌中の珠として可愛がってきた娘に、である。


「もうお父様なんて愛せない。母を殺した父親なんて要らないわ」


 スヘイドはもはや父親である権利を主張するつもりはなかったが、義務を放擲するつもりもなかった。


「お前はまだ子供なんだよ、リザ。まだまだ父親というものが必要な時期だ」

「私はもうそんなか弱い存在ではないわ。見て」


 彼女は机の上の呪術書を指差した。


「私はもう人智を超えた術を手に入れたわ」


 スヘイドは深々とため息をついて諭した。


「やはりお前が術を使ったのか……。だが、お前はなぜ、先帝や私が術に興味を示さなかったかわかっているのか。その術は確かに不可思議なものではあるが、それが効くのはラクロウ川の水に関してのみなのだよ。皇帝が治めるべきは河より遠く離れた国々を含む広大な帝国だ。そんな術は子供だましにすぎぬ」


 リザは一瞬ひるんだが、すぐに反撃に出た。


「でも、今回のように、身の程知らずにもゲルガンド将軍に近づいた女を追い払うことができたわ。そしてそれを口実に、私を皇帝と認めない親ゲルガンド派の人間だってその勢いを削ぐことができたじゃない」

「リザ。確かにお前は自分が敵だと思う者を攻撃することができた。だが、自分が敵だと思ったからと言って、感情のままに攻撃してよいというものではない。仮にゲルガンドに恋人がいたとしても、それは一人にすぎないだろう。それが誰か十分吟味して、もっと穏当なやり方で決着をつけるべきだったのだ。それから、ほかの貴族たちまで巻き込んだのは、明らかに行きすぎだ。誰にも賛同されることはないだろう」

「私は皇女よ。私のすることに誰の賛同が要るというの?」

「リザ、お前は私が以前言ったことを理解していない」

「以前に? 何のことかしら?」

「ゲルガンドの養女への襲撃を、お前が黙認したときのことだ。私は言っただろう? 皇帝はこの帝国の全ての『命の滴』の守護者なのだ。守護する者だからこそ、皇帝という地位にあるのだと言っていい。その守ってやるべき臣民に正当な理由なく危害を加えるなら、皇帝の地位の重みが揺らいでしまう」


 帝位の重みとは、すなわち支配の正当性なのだと、スヘイドは思う。皇帝だからといって我儘勝手は許されない。皇帝の言動は、なぜ皇帝が臣民を支配する資格を有しているのか、そのことの正当性に制約されている。


 歴代皇帝が苦心してきたのがこの点なのだ。そして支配の正当性は長らく武力によってのみ担われていた。そこへ画期的な試みを案出したのがシャルメルの「文化による支配」だ。そして、それは今この自分の手によって着々と進められている。


 それなのにわが娘は、今まで父たる自分が腐心してきたもの以前の問題、つまりは個人的資質という問題で、支配者としての立場を自ら危うくしようとしている。


 このままではいけない。スヘイドは躊躇うことなく決意した。少なくともゲルガンドとの結婚はさせてはならない。


 今のままでは、皇帝にふさわしいのは絶対的にゲルガンドだ。いくら彼自身が女帝の夫という立場に甘んじようとしても、人々はリザよりも彼に統治されることを望むだろう。


 スヘイドは父ではなく皇帝としての顔でリザにきっぱり言い渡した。


「リザ。お前とゲルガンドとの結婚は白紙に戻す」

「なんですって!」


 リザの表情に衝撃が走った。この親娘の間に、今の今まで決して存在したことのない緊迫した空気が張り詰める。


「ゲルガンドと結婚などしたら、皇帝の位は実質あの男のものになってしまう」

「そんなことで……」


 リザは軽く眉根を寄せて言った。彼女にとってそんなことはどうでもよいことだった。むしろ心の奥底では歓迎さえしていた。


「そんなことだと?!」


 スヘイドはその一言に激昂した。彼にとっては、愛娘の幸福のための、亡き妻の最後の願いのための、それを娘に手渡すことで自分の生きる理由となるための皇帝位であった。


 彼は混乱した怒りを押しとどめることができなかった。手を振り上げ、その手は持ち主の反省より早く、娘の頬を張った。


 ――パンっ。


 娘は痛む頬を片手で押え、信じられないといった表情で父親を見ていた。その間、数瞬。その後リザは、ぱっと身をひるがえすと机に向かって駆け出した。そしてその上に置かれていた分厚い呪術書を両手でつかみ、胴をねじってその反動とともに、父親の顔面向かって投げつけた。


 スヘイドはとっさに両腕で顔をかばった。ただ、呪術書は空中で水の塊に変じた。水の塊はスヘイドの腕をすり抜け、その頭部に命中して弾け、彼は頭から水でずぶ濡れとなった。


「水に変える術を使ったのは、私の親孝行よ、お父様。でも、これが最後の親孝行。私はもうこれから貴方のことなど一切父親だなんて思わないわ」


 低い声でリザはそう宣言した。そして、それから十七年。父娘の確執は、帝国の皇都、皇宮の奥深くで続いていくことになる。


 それがスヘイドの娘に対する裏切りの代償であった。





 ティードリーアはその間、誰にも誰何されることなく百科の殿堂に到着していた。どこかの貴族宅の侍女、といった扮装の彼女に注意を向ける者はいなかったのだ。その代わり、ティードリーアが百科の殿堂の入り口で、植物学研究室の所在を尋ねても、誰も案内などしてくれもしなかったが。


 それでも彼女は、警備員がぞんざいに教えてくれた道順通り、研究室まで順調に辿り着くことができた。そしてその扉をノックする。出てきたのは栗色の髪の妙齢の女性だった。


「突然失礼申し上げます。こちらにおられるネルヴァ氏に手紙を預かって参ったのですが」


 ティードリーアの口上にその女性は答えた。


「私がネルヴァです」

「…………」


 ティードリーアは何を言っていいのかわからず――いや、何か言わなければならないことも忘れて、ネルヴァの顔を見た。


 ネルヴァ氏は壮年の男性ではなかったのか。ティードリーアはまず驚き、そして不審に思った。ゲルガンド将軍はなぜネルヴァが若い女性だと教えてくれなかったのか。いや、確かにネルヴァ氏について詳しく教える必要などなかっただろうけれど……。でも、ならば私のこの驚きはなんだ。誰だって帝国の研究室を預かる者と聞けば壮年の男性を想像するだろうし、その予想が裏切られれば驚くはずだ。それならゲルガンド将軍から前もって私に一言くらいあってもよかったはずではないか。


 ティードリーアの中をこのような思考が走り抜け、考えたくもない結論に行き当たった。すなわち、ゲルガンドとネルヴァの間には、ティードリーアに知られては疾しい関係があるのではないだろうか、と。


 ネルヴァは、ティードリーアの容姿を見て相手が誰だかすぐに分かった。


「まあ、ティードリーア姫ではいらっしゃいませんか。一体なぜそのような格好をなさっておいでなのです?」

「手紙を……言付かって……」

「私に、でございますね?」


 自然な仕草でネルヴァは手を差し出したが、ティードリーアがその上にゲルガンドからの封書を載せるのには、不自然な間が空いた。


 ネルヴァは、ティードリーアはゲルガンドの養女であるという単純な事実しか知らなかった。彼女の周りで、ティードリーアとゲルガンドとの間にかつて婚約の話が出ていたことまで知っているものはいなかったし、ましてや今でもティードリーアの心の中に単なる思慕以上の感情があるなど、大学で学ぶ人間たちには全く預かり知らぬことだった。


「ゲルガンド将軍と親しい女性を次々と竜巻が襲っている? 本当ですか、ティードリーア姫」

「……ええ」

「ゲルガンド様は、私にどこか遠くへ逃げるように手紙でおっしゃっています。そうですね。それがいいでしょう。さあ、準備をしなくては」

「逃げるのですか?」

「ええ、そうです」

「それは、貴女がゲルガンド将軍と親しい……特別に親しいことをかえって証明してしまうのではないですか?」


 ティードリーアの声音が強張っていることに、ネルヴァは気づかなかった。ネルヴァはネルヴァで急いで考えなければならないことがあったのだ。


「ええ。ここで逃げずに、ゲルガンド将軍とは単なる仕事上のつきあいだということで押し通すことができるなら、そうした方がいいかもしれません。でも……」


 ネルヴァは頬を染めて自分の腹部をさすった。愛情をこめた手つきで。


「私は今、身ごもっております……まだゲルガンド様にはご報告していませんけれど。この子の父親を隠し通すことは難しいでしょう。皇女様に注意を向けられてしまった以上、私は一刻も早く、決して見つかってはならない場所に逃げなければなりません」

「身ごもっている? ではその子の父親は?」


 ティードリーアは混乱のあまり言わずもがなのことを口走ってしまった。


「もちろんゲルガンド将軍です」


 ティードリーアの頭の中は一瞬空白となり、次に嫌悪感が押し寄せてきた。


 軍人らしくきびきびと振舞うので大人びて見えるが、ティードリーアはまだ大人と子供の間にあった。恋という感情を知っていたが、子を成す行為と結びつけて考えることは、何かしら汚らわしいもののように思えてならなかった。結びつけて考える年齢に近いが故に、彼女の子供の部分が最後の駄々をこねているのかもしれない。いずれにせよ、ゲルガンドが目の前のこの女と獣じみた真似をしたのだ、という事実に、ティードリーアは激しく動揺したのだった。


「まずは実家に逃げようと思います」


 ティードリーアの衝撃をよそに、ネルヴァは机に向かった。そして何か書きつけると封をしてティードリーアに渡した。


「もちろんすぐに実家に追手がやってくることでしょう。けれど今晩一晩くらいなら何とかなります。その間に逃げる先を考えて家族に言い置いて出発します。その手紙には私の実家の場所が書いてあります。どうかほとぼりが冷めましたら私の家族に、私の逃げのびた場所を問い合わせてください」


 ネルヴァは、それまでこの子と共にお待ちしております、と腹部に手を置いて付け加えた。このような緊迫した状態にあっても、その言葉を口にする時には、幸福そうな笑みを浮かべていた。


 ティードリーアはほぼ放心状態でネルヴァからの封書を受取り、部屋を出ようとした。その背後で声がした。


「まあ! 私はなんてうっかり者なんでしょう!」


 ティードリーアは振り向いた。


「私の本当の名前をその手紙に書いておくのを忘れておりました。ネルヴァというのはこの百科の殿堂でしか使われていない名前です。私を探す際には、本名でお探しください。私の本名は――」


 ティードリーアに聞く気はなかったが、ネルヴァはそれがゲルガンドに伝わるものと信じて続けた。


「私の本名はマイアといいます。マイア・トゥーべレン、というのが私の名です。そして私の一族では子供の名は親に似せる慣習があります。男の子であればゲルガンド様に似た、女の子であれば私に似た名前をつけることになりましょう。どうかそれも手掛かりに私たち親子を探して下さいまし」


 ティードリーアは無言で踵を返した。ゲルガンドと、この女と、この女の腹の子供。この三人は家族なのだ、ということを念押しされた気分だった。もちろんその家族の中に自分の居場所などありはしない。


 ティードリーアはふらふらと百科の殿堂からゲルガンド邸へ歩いていた。


 想像力が醜い方向にしか膨らまない。男女の営みと言っても、彼女が目にしたことがあるのは森の獣や、飼われている羊たちのものしかみたことがない。それを中途半端に人間に置き換えているうち、彼女は吐き気をもよおしてきた。


 それも男の方はあのゲルガンドである。彼は確かに雄々しくはあったが、同時に、いやそれ以上に高潔な人間だと彼女は思っていた。それはゲルガンドの方が、彼女に対して、父親となった以上それなりに娘に尊敬されなければならないと心がけていた結果であったが。ともあれ、彼女はゲルガンドを生身の人間以上に清潔な人間であると考えていたのだった。


 そして相手はあの女である。美しいと言えば美しいが、どこにでもいそうな女だ、と彼女は思った。ティードリーアという名のこの自分が相当珍しい存在だというのに、あの女は平凡極まりない。


 自分はゲルガンドの傍らでその役に立とうと武人になり、それなりの軍功も立てており、自分のことは多くの人間が高く評価している。なのに、あの女はなんだ。研究室を預かるくらいだから優秀なのだろうが、だからなんだというのだ。自分はこの手で人殺しまでしてゲルガンドに仕えているのに、ただ本の頁を繰ることしかできなさそうなあの女の方が何の苦労もせずにゲルガンドに選ばれている。自分のあの命がけの苦労はなんだったというのか。


 激しい怒りにかられてティードリーアは、手にしていた封書を地面に叩きつけた。その怒りを嫉妬と呼ぶのだ、と振り返るようになるのは、後年になってからのことである。


 ただ、ティードリーアは封書が泥まみれになる前に、急いてそれを拾おうと屈みこんだ。ティードリーアはこの時点では、公正な精神を失っていなかった。これは人から人へ宛てた信書だ。自分を信頼して預けられたものを損なってはならない。彼女の良心はそのように告げており、彼女はまだそれに従うことができた。


 ――バサバサバサッ


 何か大きな鳥の羽音がした。屈みこんだティードリーアが目をあげると、目の前に黒い大きな鳥がとまっていた。


「この手紙をどうするおつもりかい? ティードリーア姫」


 ティードリーアは驚いてあたりを見回した。人の気配などなかったはずだし、現に今もない。カタカタという音とともに再び人の声がした。


「馬鹿正直にゲルガンド将軍のところまで届けに持って帰るのかい?」


 ティードリーアは黒い鳥を見た。嘴の動きと共に人語がそこから発せられる。


「捨ててお行き、そんな手紙」

「お前が、お前が喋っているのか?」


 ティードリーアは驚いて立ち上がった。それに合わせて黒い鳥も、彼女の目の高さまで飛び上がる。ばさばさと羽ばたきしながら、なおも黒い鳥は言葉を続けた。


「お前の未来はお前のものだよ。お前さえ、その手紙を捨てて口をつぐんでいれば見たくないものを見ないで済む」

「見たくないもの……」


 鳥が人語を操る不思議より、ティードリーアはその言葉の内容に魅入られていく。


「その手紙を捨てておしまい、ティードリーア姫。そしてゲルガンド将軍にはただあの女は逃げたとだけ言ってしまえばいい」

「そんな、そういうわけには……」

「では、正直に話すかい? でもそうすればゲルガンド将軍は本当の家族を持ってしまうよ。愛妻と可愛い本当に血の繋がった我が子とね。お前さんなど邪魔なだけだよ。だってそうなれば、どうせお前はあの家族三人を祝福などできはすまいからね」


 黒い鳥はカラカラと笑い声を立てた。


「ゲルガンド将軍だって、最初は気を使ってくれるかもしれないがね。けれども鬱陶しいだろうねえ、自分たちの近くで、関係ない女にねっとりと悋気を起こされては。姫はそれなりに武芸の腕も立つからね。下級将軍にでもして、遠くの任地へ飛ばしてしまおうとか考えるようになるかもしれないねえ」


 ティードリーアはごくりと生唾を飲んだ。頭の中にひんやりとしたものが下りてくる。


「帝国は広いよ、ティードリーア姫。僻地で一人きりで暮らすかい」


 ――嫌だ。そんなことは絶対に嫌だ。


 ティードリーアはそう叫ぶ代わりに、地面に落ちたままの封書を踏みつけた。


「そうそう。踏みにじっておしまい、そんなもの」


 何かに取りつかれてしまったとしか言いようがない。後年彼女がそう振り返るような状態で、ティードリーアはその手紙をドロドロになるまで踏みにじった。さらに、湧き起る後ろめたさを打ち消すように、再び地面に蹲るとその泥まみれの手紙を細かく千切っていった。手紙はちぎれたそばから、鳥の羽の起こす風に乗って舞い散っていった。


 自分はどうかしていたのだ、と後年彼女は何度も後悔することになる。


 けれどもこの時、ティードリーアはゲルガンド宅に戻ると、黒い鳥にそそのかされた通り、ただネルヴァは逃げた、とだけ告げ、後のことは一切言わなかった。


 ゲルガンドは深く追求しなかった。事態が急に展開したため、ネルヴァも準備が行き届かず、逃げるだけで精一杯で自分に何か云い残す余裕がなかったのだろうと考えた。そしていずれネルヴァの方から何か連絡がくるだろうと、思ったのだった。


 そしてゲルガンドの館の外では、事態がより大きく進展し始めていた。 


 ネルヴァからの連絡。ティードリーアはそれを恐れた。そんなものが届けば自分のしたことが白日のもとにさらされてしまう。けれど用心深いネルヴァは、ティードリーアに託した手紙以上に連絡を取ろうと動けば、皇女に見つかってしまうことを恐れたようだった。


 結局ネルヴァからは何の連絡もこなかった。ゲルガンドはその後十七年にわたって待ち続けることになる。その十七年は、ティードリーアが自らの罪に煩悶し続ける年月でもあった。


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