最善にして最悪の……
皇都を襲った異変はゲルガンドにも知らされた。皇都の治安の維持も帝国軍の重要な任務だからである。
「四件だけ? 被害が出たのが、互いに離れた場所にある四件の館だけで、隣や近くの館は全く何ともなかったのか?」
ゲルガンドは報告に来た部下に、すぐさま問いかけた。自然現象としての竜巻なら、現れて立ち去るまで大きな爪あとを残していく。場合によっては何十件もの家や館が犠牲となる。大体一度に五つも空中に現れたというのも不思議な話だし、それらが特定の貴族の館だけを狙ったように攻撃するというのも不可解だった。
――自然に発生したものでなければ、それは――。
「被害にあったのは、コズクワ伯、キミア伯、ダオ侯、スダイ侯、この4人だな?」
ゲルガンドが念を押すと、さようでございます、と部下が答えた。ゲルガンドはとりあえずこの部下を通じて、皇都の重要な建物の警護を帝国軍に命じた。
そしてゲルガンドは再び考えに浸る。
――被害者四名に通じるものは――。
彼らは四人ともゲルガンドとごく親しい関係にある。そして揃ってゲルガンドと年齢の近い未婚の娘がいる。そのうちコズクワ伯の令嬢ライラとは以前恋仲だったこともあるし、キミア伯の娘とは、本人同士は単なる友人であったが、母親のキミア伯夫人が娘をゲルガンドとが結婚させようと熱心だった時期がある。他のダオ侯の娘とスダイ侯の娘もさっぱりした気性の持ち主で、異性でありながらゲルガンドにとって良き友人たちである。
もし、この竜巻が自然現象ではなく、人為的に起こったものならば、そしてそれを起こすことが出来る者は――。
ゲルガンドは現在、皇位継承権第二位の皇族である。そして、兄二人が死に、彼が皇位継承権五位から三位になったとき、それをきっかけにゲルガンドの父親が明かしてくれたことがある。それが、皇帝家の嫡流には不可思議な術が代々伝えられているらしい、というものだった。もっともこの術を用いた例はゲルガンドの父も見聞した記憶もない。スヘイド帝もその存在を忘れているか、もう不要だと割り切っているのかもしれないと父は言っていた。
もし皇帝家嫡流の者がその術を操ったのだとしたら、現皇帝スヘイドか皇女リザが使ったことになる。ただし皇帝スヘイドの気性からしてこんな手口をとるとは思えない。リザが行ったと考えたほうが、今起こっていることに説明がつく。
おそらく彼女は、ゲルガンドに近い女性たちに嫉妬し、その父親たちともども危害を加えたのだろう。考えがここに至って、ゲルガンドは背中に冷や汗が流れるような思いがした。皇女リザが嫉妬するべきは、大学府の研究官ネルヴァだ。ゲルガンドはそれまで座っていた椅子からガバッと立ち上がった。そして傍に控えていた部下に再度被害は貴族の邸宅だけだったのか改めて確認し、そして命じた。
「ホイガ殿はどこにいる? すぐここへ呼んでくれ」
ホイガは、コズクワ伯、キミア伯 ダオ侯の三人の邸宅が荒らされているのを自分の目で確かめ終え、今はスダイ侯の館も同様であることをその敷地の前で確認したところだった。ここで四件。ということは残る大学府のネルヴァなる女だけが、あの水蛇の被害にあわなかったということか。
ここでホイガは悩まざるを得なくなった。おそらくネルヴァという女だけが「呪」を免れたのだろう。それならそれで事実をリザ様にお知らせすればよい。けれどもその後きっとリザ様は尋ねてこられるだろう、一体何故そのネルヴァとやらには「呪」の力が及ばぬのか、と。しかしながらホイガにはその理由がさっぱりわからないのだった。
首を捻りながら彼は大学府に足を向けた。ネルヴァという女の辺りで何か異変が起こっていないか、念のため見ておこうと思ったからである。けれど大学府の建物が見えるあたりまでやってきた時、彼はゲルガンドの部下に呼び止められ、ゲルガンドのもとに出向くことになったのだった。
「ホイガ殿、急に呼び出して済まぬ。しかしながら皇都に大きな怪異が生じた今、君に聞きたいことがある」
ゲルガンドの問いに
「何故私のような者を選んで、そのようなことをお聞きになるのでしょう。私は一介の軍吏に過ぎません」
ホイガはいかにも意外だ、という風にこう言ってのけた。もっともゲルガンドはそんな小芝居など気に留めない。
「私も皇帝の血縁者だ。亡父より、皇家嫡流の者は不思議な術を使うと聞いている」
「……さようでございますか」
ホイガの反応は少し遅れた。全ての事情についてここでシラをきりとおすか、少しずつ打ち明けながらゲルガンドの反応を窺うべきか計算していたからだ。結論として、ホイガは皇女が術を用いたことを明かすことにした。皇女なら、ゲルガンドに限らず自らの敵対者たちに、自分が人智を超えた力を持っていることを誇示したがっていると思ったからだ。
「ゲルガンド将軍がご存知なら、私も何も隠すことはございません」
「そうか。やはりあの竜巻には何かの術が使われていたのか。しかし、なぜあの四人を襲った?」
「それはゲルガンド将軍、貴方様に責のあることでございます。貴方様は皇女がお招きあそばしても、なかなか腰が重くていらっしゃる。皇女様もそれを気にしておられたところに、誰か他の女がゲルガンド将軍を誑かしている、と告げる者がいたのです」
「……そんな女など私にはいない。それにそれなら狙うのは一人ではないのか。何故四人を狙ったのだ?」
「疑わしい女が五名いることは把握できたのですが、それが誰なのか一人には絞りきれなかったのです。ただ、どの女もゲルガンド将軍と近しい様子。その女たちに身の程を弁えさせるために、その五名に術を掛けたのでございます」
「ちょっと待ってもらおう」
ゲルガンドは嫌な予感とともに、眉根を寄せてホイガに尋ねた。
「疑わしいのは五名と皇女は思し召している、と貴殿は言う。しかし、この皇都で現に竜巻に襲われたのは四件だと報告を受けている。一名はどうした。それにそもそも、その五人というのは何だ? 何を根拠に名が挙がったのだ?」
黒い鳥がそう告げた、という真相は伏せておくべきだとホイガは判断した。リザ皇女が黒い鳥と会話している、などと言えば、リザ皇女も母親同様正気を失いつつあると、ゲルガンドに思われるのではないかと恐れたからである。
「さあて。根拠は私めにも分かりません。しかし皇女は人智を超えた術をお使いあそばすのですから、これもその力で分かったことではございますまいか」
そういわれてしまうとゲルガンドも何も言えない。ホイガは軽く安堵しながら質問の答えを続けた。
「五名に術を掛けたのになぜ被害を蒙ったのが四名なのかは我々にもわかりません。皇女は五人の女の許に水蛇をお放ちになりましたが、その内の一匹が戻ってきてしまったのです。一体どの女が皇女の術を跳ね返したのか、それを確かめるべく私は皇都の街を調べまわっていたところです。四名の者が被害を受けたのはこの目で確かめました。残り一名については、どうなっているか念のため調べておこうと私は大学府に向かっておりました。そこをゲルガンド将軍の部下に呼び止められたのです」
ゲルガンドは頭から血が引く思いでホイガの言を聞いた。
「大学府だと?」
「ええ、ゲルガンド将軍もお心当たりがおありでしょう。ゲルガンド将軍は、ネルヴァと申す女と頻繁に会っておられる。平民ではございますが、お会いになる機会があまりに多いゆえ、皇女もその仲をお疑いになったのでしょう。遠目に見ただけですが、大学府にさしたる騒ぎはない様子。この女は術を受けなかったのでございましょうな」
ネルヴァの名を出したことでゲルガンドに何か動揺がみられないか、ホイガはじっとゲルガンドの表情を観察していた。
確かにゲルガンドは、皇女にネルヴァとの仲を嗅ぎ付けられていた驚きと、ともあれ彼女が無事であった安堵との間で、内心は著しく動揺していた。しかし、ここで動揺を露わにしてはホイガに疑われてしまうことも理性でわかっていた。彼はあくまで冷静な態度を崩さなかった。もともと彼は将軍として、戦場ではどんな修羅場であっても沈着であることを求められる立場だったから、ここで平静を保つことは決して難しいことではなかった。
「わかった。皇女は、私との仲を疑って五人の女を怪しい術でもって襲い、その内四件被害が生じた。このことは皇都の治安維持担当である私から皇帝にそのままご報告申し上げる。そのことで父帝より皇女にお叱りがあるだろうが、私の職責上、事実をそのまま報告せざるを得ないことはご理解願いたい」
「仕方ござません」
皇都の異変は、ゲルガンド将軍からでなくても誰かから皇帝に報告されるだろう。
「それでは、私はこれで帰らせていただきます」
とホイガは帰ろうとした。
「少し待たれよ、ホイガ殿。聞きたいことがある」
ゲルガンドがホイガを呼び止めた。
「リザ皇女が用いられた呪術とは具体的にはどのようなものだったのだ?」
ホイガは、「何故ゲルガンドがそれを知りたがるのか」「それを教えてよいだろうか」と一瞬逡巡(したけれども、結局明かすことにした。これをきっかけにゲルガンドの表情に何かが現れはしないかと期待したからである。
「リザ皇女様は呪文を唱えられ、それから五名の女の名を一名ずつ挙げながら、銀の水盤の水面を指で突き刺されました。そこから、五匹の水蛇が立ち昇って行ったのです。もっとも一匹だけすぐに戻って来ましたが」
それだ! ゲルガンドの中で閃くものがあった。ホイガがゲルガンドの表情を注意深く見つめている。しかしながら、今回もホイガはゲルガンドの表情からは、何も引き出すことができなかった。落胆しながらホイガは再度辞去の言葉を述べると帰っていった。
ホイガの気配が十分遠ざかるのを待ってから、ゲルガンドはほうっと息をはいだ。何故術がネルヴァに及ばなかったかわかった。それは、ネルヴァという女はいないからだ。つまり、ネルヴァというのは、あくまで学問の師ロガイが与えてやった名であって、本当の名ではないからだ。だから襲撃を命じられた水蛇は、ネルヴァなる名を持つ女性を見つけることが出来なかったのだ。
しかし……とゲルガンドは考え込む。今回は名前のおかげで助かることが出来た。けれども今回一人だけ襲撃を免れたことで、リザ皇女は彼女にかえって強い印象を抱くことだろう。それに大学府は皇帝家直属の部門なのだから、皇女がネルヴァと名乗る女の本当の名前を知りたいと思えば、すぐ知ることができるのだ。それによりリザ皇女はネルヴァの生殺与奪の権を握る。
リザ皇女が、ネルヴァの真の名前を知ろうと思いつく前に、一刻でも早くネルヴァに身の危険をしらせ、どこかに身を隠させなければならない。
それが可能かどうか。ゲルガンドは頭を抱えたくなる。今までホイガは間諜とはいえ、ゲルガンドの私生活の隅々までは詮索してこなかった。たまに、友人と酒場で飲み交わしているとき、気がつくと酒場の隅でホイガの部下がこちらを見ていた、ということがあった程度だ。
けれども、皇女が自分に想い人がいると思って神経を尖らせているとなると、ホイガの方も、部下をそろえてゲルガンドの一挙手一投足を見張り始めることだろう。
するとゲルガンド自身がネルヴァの許を訪れるどころか、ゲルガンド邸から使者を出すこともできない。きっと使者は大学府に到着する前に、ホイガの部下に捕まり、何の用件なのか問いただされることだろう。ここを上手く切り抜けられる者がいればいいのだが……。
任務に忠実で、機転がきき、何よりも信頼できる人物であり、自分の個人的な用件を任せられるような者――彼の脳裏に何人かの部下の顔が浮かんだ。そしてその内の一人に焦点を当てそうになり、彼は慌てて首を振った。その者に使者を任せるのは、最善の人選であり最悪の人選でもあった。それでも、除外して他の者を考えようとするほど、その者――すなわちティードリーアが最適なのだという考えが強くなる。
なぜなら、まずティードリーアが女性であることが挙げられる。彼女に侍女を格好をさせてみてはどうか。
ティードリーアは、邸内ではゲルガンドの母の好みで、ドレス姿で過ごしているが、外に出るときは男っぽい服を好む。すでに実戦を経験したこともあって、周囲は彼女を立派な軍人だと思っている。そんな彼女が侍女の扮装をしても、かつて一国の王女であり、今は初陣で武勲を立てた立派な軍人だとは誰も思うまい。侍女が何かの用事で出掛けたのだろう、程度にしか気をとめないだろう。
もしも大学府に着く前に、ホイガの部下につかまり、何の用件か尋問されても、ティードリーアならば当たり障りなくごまかすくらいの機転がきくだろう。
そして……。ここでゲルガンドはため息をついた。ティードリーアがティードリーアとばれたなら、それならそれで、ネルヴァあての密使であるという疑いは晴れる可能性が高いのだ。
なぜならティードリーアが未だにゲルガンドを思い続けていることは広く知られていることだからだ。ジガリが嘆いたように、ティードリーアはゲルガンドに対して、決して他の男には向けることのない、輝くような笑顔を見せる。自分も新しい恋をしようと、他の男から誘われれば一度はつきあうのだが、それが発展することはない。どうやらティードリーアの「初恋の君」を超える男性は現れてはいないらしい――それが衆目の一致するところだった。
ゲルガンド自身も、ティードリーアが未だに自分に想いを寄せ続けていることを知っている。ティードリーアは、軍での厳しい訓練に耐え抜き、武勲まで立てて見せた。それは、封じ込めた恋心が、たとえ恋人として結ばれることがなくても、ゲルガンドにとって特別な存在になりたいという願いに変化したものだと、彼は気づいていた。そしてそんなティードリーアをいじらしく思っていたのだった。
それなのに自分は残酷な要求を彼女にしようとしている。未だ彼に未練を残す少女に、本当の恋人の命を救わせようとしているのだから。ホイガの部下であれ皇女の手のものであれ、ネルヴァのもとにティードリーアが赴いたとしても、まさかそんな残酷な用件を言いつけられているなどとは思うまい。
そういう意味でティードリーアこそ、ネルヴァに危険を知らせるのに最善の人選であり、そしてティードリーアがもし真相を知ったらどれほど深く傷つくかを考えると最悪の人選なのだった。
ゲルガンドは自己嫌悪に陥りながら、代わりに誰かいないか考えなおしてみる。しかし事の重さを考えれば、聡明で責任感の強い、そして皇女側の疑いを受け難いこの少女に託すよりなかった。結局、生きる者の傷は癒してやることができるが、命は一度失われてしまうと取り戻すことはできないのだ、と彼は自分に言い聞かせた。自分勝手な言い訳であると、自分でも思いながら。
言いつけておいたとおり、侍女の格好をしたティードリーアがゲルガンドの自室に現れた。ゲルガンド机の上の封書を見せながらゲルガンドはティードリーアにこの封書をネルヴァに渡して欲しい旨、頼んだ。
「この手紙を、百科の殿堂のネルヴァ様にお届けすればよいのですね」
ゲルガンドに用を頼まれたときにいつも見せる、明るく弾けそうな笑顔でティードリーアが言った。
「ネルヴァ様は以前シードウの花を贈って下さった方。私も一度お会いして御礼申し上げたかったのです」
何も知らないティードリーアは楽しげに微笑む。礼を尽くした言い方から察するに、花の儀式でアチェが言ったとおり、ティードリーアはネルヴァを年配の男性だと思っているのだろう。ティードリーアの笑顔が眩しすぎて、ゲルガンドは目を逸らしながら付け加えた。
「その手紙の内容は重要なものだ。そして皇女には決して知られてはならないことが書いてある」
「だから私が侍女の扮装をして届けるのですね」
「そうだ。もし誰かに誰何されたら……」
「大丈夫です。何とかごまかして見せます。侍女の格好をしているのを不審がられたら『私だって女性だ、女性が女の格好をしていて何が悪い』とでも言っておきます。貴族らしいドレスでないのを怪しまれたら、『私は武人だ。あんな動き難い服は好まぬ』と言っておきましょう。もし用件を尋ねられたら、『ゲルガンド将軍に頼まれた薬草を受け取りに来た』ということでよろしいですね」
軽口まじりにすらすらと自分の役割を確認すると、ティードリーアは手を差し出した。ゲルガンドはやや不自然な間を空けてから、机の上から封書を取り上げ、ティードリーアの顔を見ないまま、彼女の手にそれを載せた。
「大事な御用を仰せつかって光栄です。それでは行って参ります」
ティードリーアはにこやかに言い残して、快活な足取りで部屋を出て行った。後に残されたゲルガンドはただ深いため息をつくしかなかった。
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