解き放たれた「呪」
リザはホイガを従えて、「海の源流」を包むドームに入っていった。ドームの縁の方では、相変わらず白の衣装を身につけた神官たちが、音もたてずに静かに仕事をしている。リザ皇女の来訪に気がついた何人かの者が、これもまた音ひとつ立てずに礼をとる。
まもなく、奥のほうから、神官長が静かで滑るような足さばきで近づいてきた。そして皇女の前に跪いて礼をとる。ただ、ここは神官の領域という性格の強い場所のためか、神官長はリザ皇女の許す前に立ち上がった。
「皇女様、ひょっとして『海の源流』を用いた呪をお掛けになるために、ここへいらしたのですか?」
「ええ、そうよ。いけない?」
皇女は挑むような口調で返した。神官長は首を振って答える。
「我々神官が、次の皇帝たる貴女様に反対などできましょうか。ただお願いはございます」
「何?」
「星の運行や暦を調べる神官の申すには、明日の朝までなら『命の滴』はしたたり落ちてこないそうです。『海の源流』に掛ける呪は、けして『命の滴』のが滴る妨げとならぬようして欲しいのです。ですから、なさるのでしたら今のうちに急いでお願い申し上げます」
「わかったわ。私も今すぐ取り掛かるつもりできました。明日の朝までかかることはないと思うから安心して」
神官長は頭を垂れて謝意を示すと、ふたたび滑るように立ち去っていった。
この間ホイガは、二人の会話を耳に入れてはいたものの、本人はすっかり感激し、舞い上がっていた。彼はリザの従者としてこのドームに生まれて初めて入ったのだ。
俗人では皇帝とそれを継ぐ者しか立ち入ることを許されない聖域。そこに足を踏み入れただけでもホイガの胸は激しく鼓動する。静謐な薄暗い神秘的な空間。その中央には、真上に設けられた天窓からの光を受けて、銀の水盤がやわらかく輝いている。思わずため息を漏らすホイガだった。
銀の水盤には溢れんばかりに水で満たされている。天からの滴を受けないときのその水面は、鏡のように静まり返っており、丸窓で切り取られた空の姿を綺麗に映し出している。
ホイガの感銘をよそに、皇女はつかつかと銀の水盤に近づき、その鏡面を一瞥してから呪術書を広げた。
「ウマル、サダク、カーサマウラ」
呪術書に載っている呪文を唱えながら、彼女は銀の水盤の縁をそっと指で一撫でする。すると、銀の水盤全体が、何かに共鳴するように震え始めた。そして静かだった水面に同心円状に波が沸き起こっていく。
皇女は水盤から指を離し、水盤を凝視しながら次の呪文を唱える。
「シュタル、ナル、ヴェーダ」
皇女の紡ぎだす意味不明の言葉によって、水盤の中が激しく波打ち、その縁をバチャバチャと波が叩き、跳ね回る。
ホイガは呆気にとられていた。そんなホイガには目もくれず、リザは次にホイガにも理解できる言葉を発し始めた。
「コズクワ伯の娘ライラ。 キミア伯の娘アルベラ。ダオ侯の娘ヘレナ、スダイ侯の娘フラン、それから大学府のネルヴァ」
五名の女の名前を呼びながら、その度にリザは人差し指を水面に突き刺していく。すると指差された水面向かって水盤の底らぶくぶくと泡が立ち上ってきた。皇女は水盤に向かって命じる。
「おゆき。そしてその力を見せ付けてやるがいい」
水面から五本の水柱が立ち上った。そしてその五本の水の柱が次々に天井目指して飛び上がり、ドームの中を蛇のように上昇していく。何の不思議か、それらは空中を昇るにつれて太く長くなっていく。まるで大蛇のようになったそれらは、一本ずつ天窓からドームの外へと飛び立っていった。
全部が外に出て行ってしばらくホイガは放心していたが、やっと正気にもどると皇女に尋ねた。
「リザ様、一体何をなされたのです?」
「それは自分で確かめてきて頂戴、ホイガおじ様」
リザは五本の水蛇が飛び出て行った天窓を見つめたまま、ホイガには目もくれずに説明しはじめた。
「私は今、『呪』の一つを使ったわ。さっき五人の女の名を挙げたでしょう? この中にゲルガンド将軍を誑かしている女がいるの。今、私は『呪』を以って水蛇を呼び出しました。水蛇は天高く昇り、その身に雲を引きずり込んで、今度は竜巻となってこれらの者の館に襲いかかることでしょう」
ホイガは泡を食った様子で問いただした。
「リザ様、リザ様は、その水蛇でその五人の女を襲うおつもりなのですね。しかし、そのことをお父上はご承知なのですか?」
「あの人はもう関係ないわ」
リザは素っ気なく父親を「あの人」と呼んだ。
「そんな……。しかも、リザ様、その五人の女の中にゲルガンド将軍を誑かす者がいたとしても、それはたった一人でございましょう? そのお一人だけに何らかの処分を下すというならお父上もお許し下さるかもしれませんが……。それを、よくよく確かめもせず、五人の女全てを襲わせるとなるとは、お父上も黙ってはおられますまい。そもそもその五人を挙げたのは何の根拠があってのことです?」
ホイガは狼狽しつつも当然の疑問を口にした。リザ皇女はふっと、今までホイガの見たことのない冷たい笑みを見せた。
「黒い鳥よ。黒い鳥が私に口をきいてくれて、そして不届きな女がいると教えてくれたの」
「黒い鳥、ですと? ひょっとしてそれはまさかあの黒い鳥ですか。姉上、いや先の后妃が晩年に話し相手にしていたという」
姉ペイリンを慕っていたホイガは、「黒い鳥」と聞いて、彼女の晩年を容易に思い出すことができた。鳥をあたかも人間のように見立てて、悲嘆にくれていた狂女の哀しい姿を。
「その通り。鳥があの女達のうちの誰かだと教えてくれたの」
ホイガは、あの鳥はただの鳴き声しか発しない、普通の鳥に過ぎないと皇女に説きたかった。が、その前に問いただしておかねばならないことがある。
「皇女様、その黒い鳥がそのようなことを申したとして、そしてそれが正しいとしても、残りの四人はどうなるのです? 無実の罪で被害をこうむることになりますぞ」
「わからないの? ホイガおじ様。さっき挙げた娘の父親は皆親ゲルガンド派の者たちよ。私よりもゲルガンド将軍の方が皇帝にふさわしいと考えている者たち」
リザは、辻の巫女が指摘したとおり、皇帝位の実権についてはさほど興味はなかった。しかし、自分が皇帝位にふさわしくないと評価されるのは我慢ならないのだった。
「たとえ娘とゲルガンド将軍と何もなかったとしても、そのような親ゲルガンド派の者達に、私の力を思い知らせ、勢いを削いでやるのです」
リザは呪術書を胸に抱きしめた。
「私は人智を超えた力を手に入れたの。黒い鳥がその存在を知らせてくれた、この『呪』の力がある限り、もう貴族や王族たち、それに父親だって怖くないわ」
「リザ様……」
「さあホイガおじ様、今『呪』をかけた相手のいるところに行って、その成果を確かめて来て頂戴」
その時。奇妙なことが起きた。ドームの天窓から一匹と水蛇が戻ってきたのだ。水蛇は下降するにつれだんだん小さくなって、ピチャンという軽い水音をたてて水盤に戻った。水面はしばらく波立っていたが、やがて再び静かな鏡面に戻った。
「これは……。どういうことでしょう、リザ様」
「わからないわ」
リザは当惑した様子で首を振った。
「一匹戻ってきたということは、誰か一人は襲われなかったということよね」
リザは自分に納得させるようにゆっくりひとりごちると、ホイガに目を向けて命じた。
「ホイガおじ様、とにかく先に述べた五人のところへ行って。四人の女はちゃんと襲われているか。そして一人だけ襲撃を免れた者がいるなら、それは一体誰なのか、それを教えて欲しいの」
「分かりました、リザ様」
ホイガはリザに言いたいことがたくさんあった。が、今はそれをとやかく言っている場合ではない。もう賽は投げられたのだ。ホイガは踵を返すと、走り始めた。静寂なドームにその足音が反響し、それがホイガに不吉な思いを抱かせるのだった。
皇都の街は騒然としていた。天空に五つの竜巻が同時に現れたからである。その竜巻は何かを探す風に空中をうろつき、やがてその内一つは皇宮に向かって行った。と、ほぼ同時に他の四つの竜巻が、四人の貴族の邸宅を目指してきりもみ(るように降下してきた。
バサバサバサッ。バリバリバリッ。パリンパリンパリン。
貴族の居館は石造りの立派なものであったから、建物そのものは壊れはしなかった。けれども、庭の木が何本も薙ぎ倒され、ほぼ全ての屋根板が剥がされ、窓という窓が割れていく。
突風は自由に館の中を蹂躙していく。花瓶や絵、さらには机や椅子までもが宙に浮いて、中にいる人間たちに襲い掛かってくる。
竜巻は館の中を破壊し終えると、隣の館には一切見向きもせずに、そのまま止んでしまった。後には、水浸しとなった廃墟が残された。元が何であったか分からぬ無数の破片たち。破壊された家具や廃材と化した材木。そして、血を流しうめき声を上げて地に転がる館の住人たち。それらすべてがぐっしょりと水に濡れていた。
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