呪術書
皇女は一人で皇宮を出て、神官たちの住まいへ向かっていた。黒い鳥にも一緒に来て欲しかったが、鳥はそれを拒んだ。
「私のようなモノを神官たちは嫌がりますので。私は彼らの呪とは関係なく人語を操る術を心得ております。まあ、人智を超えた術を用いるという意味では商売敵のようなものです。あちらでは結界を張っているので、私は入れないのでございますよ」
仕方ないので、リザはこうやって一人で向かうことにしたのである。
白い玉砂利の中を細い水の流れが走っている。これが「命の道」ラクロウ河の始まりである。ここではほんのささやかな小川であり、対岸に渡るための小橋がかけられているが、この内宮においては皇帝と皇帝の血を濃く受け継いだ者、そして高位の神官しかこの小川の上を越えてはならない。
リザは何のためらいもなく、その橋を跨いで渡った。川を越えるとそこが神官たちの居住区で、彼らは古の「森の国」のしきたりどおり、木でできた建物の中で暮らしている。
リザの姿を認めた白衣の神官が、ぎょっとした様子を一瞬見せた。そして慌てて礼を取るとどこかへ走り出した。リザの方はそのまま神官たちの居住区の中心に向かう。すると先ほどの男に連れられて神官長が現れ、リザの眼前に跪く。
「これは皇女様」
神官長とは、宮中の祭祀や儀式で会うから顔は覚えていた。
「お一人でこのようなところまでお越しとは……。どうなされました?」
リザは単刀直入に用件を切り出した。
「私に呪術書を見せて頂戴」
「皇女様お一人に、今、ですか?」
「ええ。父ではなく私に。そして今すぐ。でも、いいでしょう? 私は次の皇帝なのだから」
「さようでございますねえ……」
神官長はしばし考えてからこう言った。
「よろしゅうございましょう。皇女様はゲルガンド将軍を夫にご即位なさるのですから」
この神官長がつけた後半の条件が、リザ皇女の自尊心を深く傷つけたことに彼は気づいていない。この言葉にリザの方は怒りで胸が一杯だった。「ゲルガンドが夫ならば良い」というなら、もしリザ単独であったならば許さないということになる。
皇宮内には、自分よりもゲルガンドの方が皇帝位にふさわしいと考える者たちが少なからずいる、とはリザも知っている。神官長もどうもそのような考え方に近いらしい。
リザ皇女は、黒い鳥が挙げた貴族の令嬢たちを思い出した。確か彼女らの父親は皆親ゲルガンド派だ。その縁で娘たちもゲルガンドと親しくなったのだろう。このようにリザが恋敵と親ゲルガンド派の貴族たちを結びつけて考えたことが、後々大きな禍を引き起こすこととなる。
皇女の脳裏に何が浮かんでいるのか知らない神官長は、手の中のものをリザに示して見せた。それは書物ではなく、古めかしい鍵であった。
「こちらをお渡し致しましょう。ここより北に向けて私どもの住居のための区画を抜けると、森に出ます。その中を通る一本道を行けば、小さな祠に突き当たります。その祠の中にお望みの呪術書は納められておりまして、これがその祠の扉を開ける鍵でございます」
「わかったわ。有難う」
リザは心中の怒りをここでは外には出さず、あっさりと鍵を受け取った。リザは神官長が自分を侮ったと怒っていたが、これから呪の力を身につければいくらでも報復できると考えていた。そしてプイッと踵を返すと北に向かって歩き出した。
一本道はなかなか終わらない。森はどんどん深くなる。皇宮の外の森は太古の頃から冬でも葉の落ちない常緑樹が殆どで、進むにつれてだんだんと薄暗くなっていく。
突然、皇女のまん前で、そこだけ薄暗さが濃くなりはじめた。暗い影が急にひとつに纏まり、やがて人のような形となり、そしていつの間にか見慣れぬ老婆が皇女の前に立ちはだかった。
白髪を垂らし、黒衣をかぶり、腰を曲げて杖に身を預けている老婆。侍女たちの噂通りのその姿。皇女は今日自分の身に起こった二つ目の怪異に遭ってもたじろがなかった。
「初めて会うわね、辻の巫女」
老婆がもぐもぐと口を動かす。しかしその声ははっきりと皇女に聞こえた。
「いかにも私は辻の巫女。初めてお目にかかる、皇女殿」
自分を皇女と知っても別に礼をとろうとしない巫女に不快を感じながら、皇女は素っ気無く言った。
「ここは一本道で、人の行き交う辻ではないわ。何の用で現れたの?」
「私は目に見える辻だけでなく、目に見えない人の運命の辻にも現れる。リザ皇女よ。貴女がこれから取る行動は多くの者たちの運命と交差する。そして、そこから不幸な結果が生まれてしまう。皇女殿、どうか人智を超えた力を持とうなどと考えないで下され」
「勘違いしないで。どんな不幸が起きるのか知らないけど、私が悪いわけじゃないわ。皇女として誇り高く生きている私に対して、周囲の他人が侮るのをやめないからよ。だから、私は自分の誇りを守るために力を身につけなくてはならないの」
「皇女殿。真に強い者は、いくら軽んぜられようと侮られようと、堂々とそれらを受け流すことができるものです」
「私はそうは思わないわ」
皇女は即座に反発した。
「お母様はどんなひどい目に合わされても、耐えて受け流そうとなさったわ。でも結局は無駄に終わってしまった。耐えて耐えて、そして最後に最愛の夫に裏切られて……。お母様はとうとう力尽きてしまわれた。屈辱に耐えても幸せにはなれないわ。戦わなくては」
ここでリザは巫女から視線を外し、遠くを見る目をした。
「私の敵たちは、お前が思っているよりずっと執拗なのよ。母が生きていれば、死ぬまで追い詰める。私だって、未来の皇帝にふさわしいよう懸命に努力をこれまでずっと重ねてきたのに、未だに私一人では帝位にふさわしくないと考える者がいる。私が屈辱に耐えても、彼らは侮辱することを止めたりなんかしない。立ち上がって戦わなきゃ。逃げてばかりではお母様のようになってしまう」
「お母君のことはお悔やみ申し上げる。けれど、この婆は、貴女は呪などなくとも、己の力で耐え抜き、時間がかかっても最後には相手を打ち負かす力をお持ちだと信じております。どうかご自分の強さを恃む道をお選び下さいと申し上げたい」
リザ皇女は巫女に視線を戻した。
「私には時間がないの。ゲルガンド将軍が他の女のものになる前に、今、手を打たなければならないわ」
「貴女は本当にゲルガンド殿をお好きでいらっしゃるか? リザ皇女」
不意を突かれて一瞬の間が空いたが、それでもリザは言い切った。
「好きよ。だから結婚したいと思っている」
それから、しっかりとした口調で続けた。
「ゲルガンド将軍は優しいわ。そしてちゃんと礼節を弁えている。皇女である私を尊重して下さるわ」
先日の大会堂で覚えた違和感――リザにとってとても大切なものを、ゲルガンドは大切にする気はないのではないかという疑念――は、ひとまず置いておいた。黒い鳥の言うとおり、あれはゲルガンドがどこかの女にたぶらかされているからに過ぎまい。
本来のゲルガンドは身の程を弁えている。親ゲルガンド派がいくら皇帝位の簒奪を勧めても、ゲルガンド本人はそれを拒んでいる。むしろリザが帝位につくことを積極的に認めているようでさえある。そのため、少々説教くさいときもあるけれども、自分には丁重な態度を崩さない。
未だ恋というものがわからないリザには、見た目が自分好みの美しい男性が、自分を正しく尊重してくれるなら、それだけで十分執着するのに値するのだった。
「皇女よ。貴女は皇帝位とゲルガンド将軍との両方を欲しておられる。しかしながら、その背後に甘えはございませんか? 皇帝位という至尊の位は戴きたい、けれどもそれにともなう面倒は夫となるゲルガンドに押し付けたい。そんなことも思っているのではありませんか?」
リザ皇女の顔は瞬く間に朱に染まった。それは、リザ皇女自身認めたくない、心の奥底を言い当てられたからである。
「…………」
リザ皇女は顔を紅潮させたまま、しばらく黙った。確かにそうかもしれない。リザは決して愚昧な少女ではなく、自分を省みる力も備えていた。ただし、このときは、他人に指摘されて自分の心の奥底を覗き込むよりも、相手を言い負かしたい勝ち気さの方が勝っていた。
「ゲルガンド将軍が夫となれば、私が政務のことで相談したっておかしくないでしょう? それに私がそんな甘えん坊なら、余計私自身は強くならなければならないわね」
先ほどの神官長の言も、皇帝の実権はゲルガンドが担うものと考えたが故のものだろう。リザも、心の奥底でそうしてしまいたい気持ちがあるのかもしれないと渋々認めたものの、巫女の思惑とは別の方向に結論を持っていった。
「そう、私自身がこの帝国の誰をも屈服させる力を持てば良いのよ。そうすればゲルガンド将軍に頼らなくても、帝国中を支配できるわ。とにかく自分自身が特別な力を持つことが必要なのよ」
リザ皇女は背筋を反らしながら、一層力を込めて巫女に命じた。
「そこをどきなさい、辻の巫女よ。次の皇帝として命じます。道をあけなさい」
「リザ皇女。このまま貴女が進む運命の道は決して正しいものではない。この婆の忠告をどうか記憶の片隅にでも置いておいて下され。そして真の強さとは何かということも」
「考えておくわ」
リザのそっけない返事に悲しそうな顔をしながら、老婆は緑深く薄暗い森の中へ溶けていくかのように消え去っていった。
それに入れ替わるように、小さな祠がリザの前に現れた。リザは祠の扉の鍵穴に、神官長に渡された鍵をそっと差し込んだ。少々手間取ったが、何回か鍵を回している内、鍵は開いた。古びた木製の扉をきぃと軋ませながら開くと、中に古めかしい装丁を施された書物が一冊置かれていた。
皇女は私室に戻ってからその呪術書をひもといた。
中身は全く知らないものばかりではなかった。皇帝は宮中でさまざまな祭祀や儀礼に駆り出される。そこでは神官たちの指示どおりに振舞うだけで、その意味など忘れられて久しい。けれどこの呪術書によれば、その祭祀や儀礼こそ『呪』なのである。つまり、決められた仕草や台詞は、それらで以って、新しい
一年の安寧や、田畑の豊作、夏の暑気や冬の寒気が和らぐこと、などなどを「呪」の力で実現させているわけなのだ。
この呪術書では祭祀や儀礼の間の仕草や台詞の意味まで詳細に解説されており、宮中の祭祀や儀礼に熱心に取り組んでいたリザにとっては興味深いものだった。
けれども、彼女が取り急ぎ知りたいのはそのような知識ではない。この呪術書の大部は帝国の祭祀や儀礼の解説に当てられていたが、中には個人で用いる不思議な術も取り上げられていた。皇女はそういった箇所が出てくるたびに付箋を貼りながらどんどんと読み進めていく。
そうやって一通り読み通すと、今度は付箋のついた箇所を何度も見比べ始めた。そのうちページを繰る手が一箇所でとまり、皇女はつぶやいた。
「これだわ。これがいいわ」
呪術書を手にとり、意気揚々といった体で自室から出ようとしたリザは、出会いがしらに誰かとぶつかりそうになった。
「ホイガおじ様?」
「リザ様! ああ申し訳ありません。お怪我はなかったですか?」
「ぶつかりかけただけだもの。何ともないわ」
「それはようございました。それにしても、お一人でどこへお出でなさるのです?」
「それは……」
「それにリザ様におかれては、供もつけずにお一人で神官たちの居住地へ立ち入られたとか。一体どうなさいました? お一人で気ままに行動するとはリザ様らしくもない……」
リザは質問に答えず、急いで頭をめぐらし、ホイガに命ずることを思いついた。
「ちょうど良かったわ、私、ホイガおじ様にお願いしたいことがあるの」
「は? 何でございましょう?」
その前にちょっと聞いておきたいのだけれど、とリザ前置きをした。
「ゲルガンド将軍に想い人がいると聞いたわ。その女のせいで私との婚約をないがしろにしているのだ、とも。ホイガおじ様。おじ様は間諜だというのに、ゲルガンド将軍の周辺に女の影があるのを気がつかなかったの?」
ホイガが間諜を務めているのは、あくまでゲルガンドに叛意がないか、皇位簒奪をめざすような行動がないか、などの政治的な理由による。
プライバシーには必要以上に立ち入らない。ゲルガンドの赴くところのいちいちにホイガが顔をだせば、いくらホイガが間諜であるのを黙認しているゲルガンドでも、鬱陶しく感じることだろう。監視の目の息苦しさに、ホイガを軍吏から解任するよう皇帝に直訴でもされたら、元も子もなくなってしまう。
だからゲルガンドの私的な行動には、必要に応じて部下にあたらせており、部下たちからは、今のところ特に問題なしとホイガは報告を受けているのであった。
「ゲルガンド将軍は友人の多いですから友人宅を訪れたり訪れられたりが多かったですね。ここのところは大学府にほぼ毎日通っているそうですが」
大学府の女。確か黒い鳥もこの女も怪しいと言っていた。それを思い出しながらリザ皇女は尋ねる。
「いったい将軍がどうして大学府などに行くのです? その理由は?」
「それは、武器や薬草などについての知識を深めるためでございます。特にゲルガンド将軍は傷病兵のための薬草に強く関心をお持ちで……」
「大学府で会っている女は何者?」
「は? 植物学研究室の教授はロガイという男の老人で、ゲルガンド将軍とは長年の親交がありますが……いや、その者は未だ研究室を『百科の殿堂』にはを移しておりませんでしたな。ゲルガンド将軍は頻繁に『百科の殿堂』に足を運んでおられますから、ロガイの弟子か誰かが応対しているのでしょう。その者が男か女かわかりませんが」
「もういいわ」
皇女は苛立った表情を隠しもせず、彼の脇をすり抜けてスタスタと歩き始めた。が、何歩か歩いたところでハタと立ち止まり、ホイガに向き直った。
「ホイガおじ様。私、今から行きたいところがあるの。ホイガおじ様にもついてきてもらうわ。そして私の呪が成功したかどうか確認して欲しいの」
「『呪』? それは一体なんでございます?」
「歩きながら話すわ。さあ、ついてきて」
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