黒い鳥の羽ばたき
ティードリーアは、ゲルガンド邸の使用人頭に思い切って尋ねてみた。ある朝のこと、朝食の支度と後片付けのせわしなさから解放された頃合をはかってのことである。
「あの……。最近ゲルガンド様は朝食の席に姿をお見せにならないが……。どこかお体の調子がすぐれなくていらっしゃるのだろうか?」
ゲルガンドは毎晩どこかへ出掛け、そして朝、夜が明ける頃に館に帰ってくる。実は毎夜ネルヴァと過ごしていたのだが、もちろん使用人頭がそれを知る由もない。とはいえ、使用人頭は年配の男性であった。だから、若い男が、結婚に向けて外堀を埋められているこの状況で、何をしているかわかっているつもりであった。
ゲルガンドは、しょっちゅう遠征に出されるため長続きはしなかったものの、過去に恋人が何人かはいたし、友人たちと夜の街で羽目を外すこともあった。皇女の婚約者などという窮屈な立場が固まるまでに、過去の恋人や友人たちとの時間を楽しんでおきたいとお思いなのだろう。使用人頭はそのように解していた。
さて。ここで使用人頭はティードリーアの大真面目な顔を見ながら、それと気づかれぬように考え込んだ。この年若い少女になんと説明したら良いのやら。
おほん、と咳払いひとつして使用人頭は話し始めた。
「ゲルガンド様は将軍という重職についておられる上、社交的なお人柄故、ご友人がたくさんいらっしゃいます。しかしながら、皇女様との婚約が整ってしまうと、そのご友人方とも親しく交わることも難しくなりましょう。ゲルガンド様は頻繁に夜遅くお帰りになりますが、それはきっとご友人方と遠慮なく飲み交わせる機会を今のうちに持っておこうとなさっておいでなのでしょう」
その中には過去の恋人との逢瀬もあるかもしれないが。使用人頭はいまだ少女のティードリーアに聞かせるにふさわしからぬことは、おくびにも出さなかった。
「そうか……。父上、いや先のワレギア王も夜遅くまで宴を催すことがあった。それは楽しみでもあったし、共に酒を酌み交わす者との絆を深めるものでもあった。ゲルガンド様が皇女の婚約者となられても、御友人は大切な財産だ。自由な今の内に、友情を深めておいでなのだな。とにかくお具合が悪いのでなければ一安心だ」
ティードリーアは納得して自室へ戻っていった。
ゲルガンドと顔を合わすことが少ないことに焦れている少女がもう一人居た。その少女、皇女リザは侍女たちに退出するよう命じて、一人きりで部屋の中で窓から外を眺めていた。
その窓は、彼女の母親ペイリンの魂が、海へ還ってしまう直前に、愛娘リザに別れを告げに現れた場所であった。
――お母様。
リザは、雲が重く垂れ込めた空に母の幻を映し、その儚げな姿に話しかけた。
――お母様。私結婚します、私の初恋の君と。……でもお母様。私なんだか不安な気がするの。私はお母様と違って、何があっても強く生き抜くつもりでいます。そう、自分の意思を貫いて。でも……私は何か大切なことを間違えていないかしら……。
その時、不意にはっきりとした声がリザの耳に届いた。
「何も案ずることなどございませんよ、リザ皇女。私の姿を見、私の声を聞き分けられるのでしたら」
皇女ははっと驚き、辺りを見回した。彼女が命令しておいた通り、そばには誰一人侍女はいない。それに、声の主は男のようであったがもちろん男の姿もない。ただ、冬枯れた裸の木の枝に黒い鳥が一羽とまっているだけだった。
空耳だわ。そうリザが首を振ったとき、再び声がした。
「私でございますよ、リザ皇女」
黒い鳥が翼を広げ、木の枝から飛び立ち、そしてリザのいる窓辺へと舞い降りた。リザの頭一つ分の大きさの鳥に近寄られて、リザは思わず後ずさった。それでもおそるおそる黒い鳥に声を掛ける。
「黒い鳥よ、今しゃべっているのはお前なの?」
「いかにもその通り」
黒い鳥が嘴をカタカタと鳴らすと、それと共にその口から人語が発せられる。それを見て、リザの頭に閃くものがあった。
「ひょっとしてお前はあの黒い鳥? お母様が亡くなる直前にしょっちゅう話をしていたという」
「よくぞ思い出して下さいました。リザ皇女、いかにも私めが貴女様の母君のお話し相手を務めさせていただいた者でございます」
そう言うと黒い鳥は人間のように、片翼を胸にあてて恭しく皇女に頭を垂れて見せた。その様子に、リザ皇女の驚きと警戒感はかなり薄らいだ。
「人語を解する鳥って本当にいたのね。お母様の妄想ではなかったのね」
「さようでございますとも。私は皇宮の奥深くに住まい、滅多なことでは人と口をききませぬゆえ、その存在が知られていないだけでございます」
「なのに、どうして母と私には話しかけようとしたの?」
「それは母娘ともどもあまりにお気の毒でいらっしゃるからです」
「私が気の毒? 母だけでなくこの私も?」
この頃にはリザはすっかり黒い鳥が人語を操る不思議を受け入れてしまっていた。
「そう、誠にお気の毒。まず、貴女が想いを寄せている男は他の女に夢中で貴女のことなど顧みない」
「他の女ですって!」
リザは叫んだ。
「ゲルガンド将軍に想い人がいるというの? 一体どういうことなの? 皇女の私が夫に、と望んでいるというのに! まさか私を廷臣の娘と侮って他の女と同列に扱っているとでもいうの?」
拳を握り締めて大声を出すリザに、黒い鳥は言った。
「お静まりませ、リザ様。ゲルガンド殿はその女にたぶらかされているのでございます。その女と二度と会えぬようにすれば、ゲルガンド殿も皇女に夫と望まれた有難みを自覚なさることでしょう」
「その女は一体どこの誰だというの?」
黒い鳥は複数の名を上げた。
「ゲルガンド殿と親しいのは、コズクワ伯のご令嬢、キミア伯のご令嬢、ダオ侯のご令嬢、スダイ侯のご令嬢、それから大学府の研究官ネルヴァと申す女です。おそらくこの中に、ゲルガンド殿をたぶらかした女がいるはずでございます」
「最後の研究官とやらは何? ただの平民じゃないの。ゲルガンド将軍がそんな身分の低い者を本気で相手にするとは思えないわ。ただの仕事上のつきあいよ。それに貴族の娘たちにしたって、その内の誰か一人なのでしょう? それが誰かはわからないの?」
「あいにく私も皇宮の奥深くで過ごす者ゆえ、詳しい実情まではわかりませぬ。今名を挙げたのは、過去にゲルガンド殿と恋仲にあった者たちと、現在しょっちゅう会っている女です。今、頻繁に会っているのがその研究官の女です」
「……わかったわ。とにかくその女たちがゲルガンド将軍に邪まな心を持たぬよう、お父様に頼んで厳しく言いつけておくわ」
黒い鳥は、ここで大きく翼を広げ、大げさに首を振って嘆いてみせた。
「本当にお可哀想な皇女様」
「その女たちさえいなくなれば、ゲルガンド将軍の心は私に向くはずよ。何しろ私は皇女なのですから。もう大丈夫。私は可哀想なんかではないわ」
「いえいえそうではございません。この期に及んで、まだ父上を信頼していらっしゃるのが、私には痛ましくてならないのでございます」
「……どういうこと?」
父への信頼が痛ましいですって? 皇女は、鳥が人語を解することよりもっと不思議なことを聞いたような気がした。怪訝そうに眉根を寄せて鳥を見つめる。鳥は皇女の視線を受けて、窓辺の縁の上で居住まいを正し、低い声で重々しく囁いた。
「皇女様、貴女の母君を殺したのはあの男でございます」
皇女は鳥の声音につられて顔を強張らせていたが、ここで一気に力を抜いた。
「何を言い出すのかと思ったら。馬鹿馬鹿しい。そんなことあるはずがないでしょう。お母様は『永き眠りの実』を食べて亡くなられたのよ。お父様は何も関係ないわ」
黒い鳥は変わらず低い声で囁く。
「では、なぜお母君は『永き眠りの実』をお食べになったのです?」
「それは皇宮の者たちがお母様に冷たく当たったからだわ。身分が低いからと言って蔑んで」
「それは急に始まったことではございません。結婚する前からお母君への反発は強いものでございました。それでもずっと長い間お母君は耐えてこられた。それが突然……。あのようになられるには何かきっかけがあったと考えるのが自然でございましょう」
鳥の言い分はもっともだった。皇女は平静を装いつつも、蒼白な顔でうなずいた。
「貴女の父、そして祖父は皇帝位の威信を高めることに随分と腐心していました。ところが万事控えめな性質の后妃様はそれについていくことがお出来になれなかった。貴女の父は、そんな母君を見限ってしまったのですよ」
「嘘よ!」
皇女は鋭い声で否定した。
「今に至るまでずっとお父様はお母様を愛していらっしゃるわ! お父様がお母様に辛く当たったなんて、考えられないわ!」
「残念ながら、ごく一時期とはいえあなたの父は、自分の苛立ちをお母君にぶつけることだってあったのです。一時だけでしたけれど……」
ここで黒い鳥は一呼吸おいた。
「皇女様、直接言葉に出さなくても、人の心を傷つけることは出来るのですよ。貴女のお母君はとても鋭敏で聡明な方だった。貴女の父上が口に出すのをやめても、もう夫は自分のことを見限っていると気づいておられた。平凡で弱い女、新しい皇帝像の妻を務めるには何かが欠けた女だ――とね」
「ひどい……。お母様は繊細な方だったのよ。それまでだって傷ついておられたのに、お父様にまで見放されてしまったら……」
リザは両手で顔を覆った。それが事実なら母はどれほど深く絶望したことだろうか。黒い鳥はリザにさらに近寄る。
「お母様も、これには我慢できず大層お嘆きでいらっしゃいました。ただ、この広い皇宮の中で、自分の辛さを吐き出せる人間は誰もいなかった。それがあまりにお気の毒で、私めが声を掛けさせていただいたのです。そうして、あなたの母君は私一人を相手に、悲しみ泣いておられました」
黒い鳥は続けた。
「そして、こうもおっしゃっておられました。『愛情の反対は憎しみではなく、無関心なのよ』」と。
リザはつぶやいた。
「愛情の反対は無関心」
この言葉に晩年の母の孤独と悲しみが凝縮されているようにリザは思った。そして自分の胸の中に、重くて冷たい氷の塊が落ちていくような気がした。
「……みんな嘘だったのね……」
リザ皇女は頭を垂れ、弱々しく呟いた。
「お母様の素敵な恋物語なんて嘘っぱちだったのよ」
この自分自身の言葉に弾かれたように、リザ皇女は頭を上げた。その頬は怒りと屈辱で真っ赤に燃えていた。
「お父様は私をだましていたんだわ! 私を何も分からない子供だと思って!」
ひどい、ひどいわ、と皇女は憤怒の表情で足元を全身の力を込めて踏みにじった。
「お父様も、お父様だって私の敵よ」
黒い鳥が皇女の目の前に羽ばたき、自分に皇女の注意をひきつけてからこう告げた。
「お可哀想なリザ皇女、あの優しく賢明でいらっしゃった后妃の娘御よ。でも、そうお嘆きになりますな。お味方はここにおりますよ」
「お前が?」
「はい、母君の時には、私の力が至りませんで、あのような最悪の結果を招くこととなりました。その罪滅ぼしを貴女様にさせていただきたいのです。私は誠心誠意、貴女の幸福のために手をお貸し申し上げましょう」
「私の幸福のため?」
「まずは皇女様に強い力を差し上げましょう。これで皇女様はいちいち父親の手を借りずとも、ゲルガンド殿にまとわりつく邪魔な女たちを排することがお出来になります」
「その強い力、それさえあれば、もうお父様を頼らなくてもいいのね。で、その力とは一体何?」
皇女は勢いこんで黒い鳥に問いかけた。
「『呪』でございます」
「『呪』?」
皇女の顔に当惑の表情が浮かぶ。
「『呪』って、あの伝説の『辻の巫女』とやらが用いるというもの? それと神官でも高位のものが使えるらしいという……」
「呪」。リザに家庭教師として仕える大学府の教授たちは、もちろんそんなものは教えなかった。リザが少し聞いたことがあるのは、「辻に立って予言を下す黒衣の巫女がいる」とか「神官の中には不思議な術を使うものがいる」という侍女たちの噂話だけである。
「辻の巫女の呪など皇女様には役立ちません。それから神官のごく一部の高官が多少使えはしますが、これもたいしたものではありません。彼らはわきまえておりますから」
「何をわきまえていると言うのです?」
「真の呪術――その神髄は神官たちに大切に護られ、そして皇帝と皇位の継承者にのみ伝えられるものだ、ということを彼らはわかっているのです」
リザは不審げに反駁した。
「お父様が呪を使うなんて、見たことも聞いたこともないわ」
「そうでしょうとも。確かに現在のスヘイド帝は呪を用いません。いや彼に限らず、ここ何代かの皇帝には、神官は呪を授けていないようなのです」
「どうして?」
「それはわかりません。しかしこれだけははっきり申せます。神官がトゥオグル帝に皇位を授けて以来、神官は皇帝の命に逆らえません」
「皇帝が強く命じれば教えるの?」
「おそらく。たぶん現在神官たちが皇帝に呪を教えないのは、皇帝が呪の力を用いなくてもその地位が安定するようになったので、単に神官達に呪を要請しなくなったからでしょう。そしてそのうち呪の存在を忘れてしまったと思われます。でも、次代の皇帝である貴女様が強くお命じになれば、神官たちも拒むことはできますまい」
「――わかったわ。神官に命じて呪を手に入れるわ、私」
「そうなさいませ。正確に申し上げると、神官も呪の全体をそのまま知っているわけではありません。神官たちの住まう川の左岸のどこかに、呪術書が保管されているのです。その書物をお手に入れればよいのです」
リザは頷いた。そして直ちに神官たちの住まいへ向かうことを決意したのだった。
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