誕生式典
--最近のゲルガンド様はどうされたのだろう。ティードリーアは訝しく思っていた。家族としていつも朝食を共にするが、ここのところゲルガンドはその席につくのが遅れがちだ。しかも前の晩よく眠れなかったのか、目が赤い。
そして外出することは滅多になくなり、ほぼ一日中書斎に篭っている。アチェとの約束のないときなど、ティードリーアはゲルガンドの書斎を訪れてみるが、机の上に形だけ本を広げたまま、ゲルガンド自身は放心した様子で窓の外を見ていることが多かった。
その間も、皇女からお茶会への招待状が送られてくる。以前から喜んで応じていたわけではなく、三回招かれて一回応じれば良いほうだった。けれども、今ほど、招待状を受け取って露骨に迷惑そうな顔をすることはなかった。それに、ティードリーアの記憶では、もうかれこれ十回以上誘いを断っているのではないだろうか。
「よろしいのですか。婚約者であられる皇女を放っておいておかれて……」
見かねてティードリーアが尋ねたが、ゲルガンドは
「気乗りしない」
と短く答えただけだった。もっともこのときは再びティードリーアに視線を戻して苦笑した。
「いけないな。親たるものが娘の前で、『嫌だから』などという理由で義務を放棄する姿を見せるのは」
というわけでティードリーアへの教育的配慮から一度は皇宮へ出掛けて行ったが、やはり、その後も招待状をろくに見もせずそのまま屑篭に放り込む日々が続いたのだった。
ティードリーアは複雑な心境だった。ゲルガンドがリザの誘いを疎ましく思い、「義務」とさえ表現したことに、自分は心の奥底で喜んでいる。そんな自分にティードリーアは自己嫌悪を覚える。自分はゲルガンドに未練たっぷりなのだ。成人の儀式を行い、自分は立派な大人になったというのに、恋心と言うのは何と度し難いものなのだろう。ゲルガンドの篭る書斎の前で、ティードリーアは溜息をつくことがしばしばだった。
皇宮ではティードリーアの一つ年下、もうすぐ十四歳の誕生日を迎える少女が金属的な声を上げていた。
「これは一体どういうことなのでしょう、お父様!」
「リザ……」
「私の誕生日はもうすぐそこまで来ているのに、ゲルガンド様からはお約束のプレゼントが届かないのですわ。黒い髪と黒い瞳の人形が!」
「……当日か、当日に近い日に渡そうと思っているのではないのかね」
「でも、プレゼントどころか、最近は滅多に私のところにもお見えにならないのです。ここ最近では僅かに一度だけ。それもずっと上の空で、ちっとも私に関心を向けて下さらないのよ」
「…………」
「ねえ、お父様。お願い。今度の私の誕生日を機に、ゲルガンド将軍を私の婚約者とすると正式に勅令をお出しになって。ね、そうすればゲルガンド様もちゃんと自覚なさるに違いないわ」
「リザ……」
皇帝スヘイドはこれまでリザ皇女の願いは何でも聞き入れてきた。母を持たないリザが不憫であったし、リザ自身もゲルガンドに関すること以外には決して父帝を困らせるような願いをしてこなかったからだ。
しかし、父親は今回初めて愛娘の願いに首を振った。皇女は両目を見開き、暫く絶句してから、搾り出すように声を出した。
「……どうして……お父様?」
皇帝スヘイドは即答を避け、娘に背を向けて窓の外を見た。すぐにでもゲルガンドと結婚まで済ませたそうな娘とは反対に、彼にとって、娘とゲルガンドとの婚約は微妙な問題となりつつあった。
スヘイドの懸念は、ホイガによるゲルガンド将軍の養女襲撃事件に由来する。一報を受けたスヘイドはすぐにリザを呼び出した。そしてこの重大な事件にわが娘が関与していなかったか問い質した。確かに皇女は事前には知らなかったようで彼は胸を撫で下ろしたものだ。しかし、娘の態度にスヘイドは衝撃を受けずにはいられなかった。
繰り返し確認しようとする父帝に、心底不思議そうに皇女は言ったのだ。「ねえ、お父様。ホイガはあの不愉快な女を始末してくれようとしたのでしょう? それの何が問題なの?」
リザは、皇帝皇女の寵臣が私的な理由で、皇帝皇女自体を命懸けで守るためにある皇軍に危害を加えたという問題の重大さをちっとも認識していないのである。しかも、スヘイドがそれを縷々説明しても、一向に身に入らないようだった。
――リザは皇帝位の重みを理解していない
父帝は衝撃を受けた。この愛娘には必要と思われることを事細かに心を砕いて教えてきたつもりだったのに――。
いや。父帝は考え直した。決して教えずに済ますつもりではなかったが、リザの年齢を考えて先送りにしていた問題があったのだ。
皇帝位は二つの矛盾した要素に支えられている。皇帝位の正当性の重要な一つは、古来『海の源流』を守ってきた神官達の主張するように、穢れなき神聖な存在であることである。故に王朝初期の皇帝を例外として、皇帝位を継ぐのは皇宮より一歩も外にでず何の穢れも受けない直系の皇族であった。
しかしながら、実態として帝国は強大な帝国軍の武力で以って覇権を保っているのである。傍系男子は戦闘に身を投じ、血に穢れ、神聖さを要求される皇帝位に就くことはできない。けれども、そもそも神聖な皇帝が存立していられるのも、帝国軍の流す血に拠るのである。
リザにはこの矛盾が理解できていない。さもあろう。教えるのを避けてきたのだから。
シャルメル帝以来、皇帝位の「神聖さ」「穢れなさ」が皇宮内外で強調されてきた。これは一定の功を奏してきた。何より母親の出自に問題のあるリザが、それをものともせず、強い誇りを身につけた。これは母親にはなかったものである。スヘイドは何よりリザがペイリンのような人生を歩むのだけは避けたかった。だから第一に、自分の命を粗末にするようなことを拒む誇り高さを身に付けさせたかったのである。
そして帝国軍の功績を教えるということは、人が人を殺す場面を語り聞かせるということでもある。あともう少し年長であれば、たとえ少女といえどもしっかりと言い聞かせなければならないことではある。しかしスヘイドは特に健康問題を抱えておらず、娘が帝位につくのはまだ先のことと考えていた。よって、まだ幼い姫君に戦場の残虐さなどを見聞きさせようと思っていなかったのである。
それにもう少し時間が経てば、皇帝位をめぐる矛盾はかなり解消できる。帝国の版図はもう十分に拡大した。もはや大規模な戦闘を繰り広げてまで征服せねばならないほどの蛮族はもういない。帝国軍の重要性は次第に低くなっていくだろう。そしてシャルメル帝が予想したように、帝国に「河の信仰」が行き渡れば、武力によらずとも、神聖にして穢れなき皇帝に対する忠誠心は自ずと育まれるはずである。そう、今は歴史の転換期にあるのだ。武力による支配から文化による支配へと。
以上のような理由で、スヘイドは皇帝位を現時点で支えている大きな柱、すなわち帝国軍についてリザに教えることが少なかったのである。しかし、その結果が今のリザの帝国軍に対する冷淡さであった。
しかしながら。今後「文化による支配」が進むにしても、皇帝が何の軍を持たないで丸裸でいることなどできはしない。自らの命を賭して皇帝を支える帝国軍の忠誠に応え、御していくのが皇帝の大きな務めであるのは変わらない。いや、軍隊に限らず、臣民全体に愛情を注いでいかねば人望など望めない。「河の信仰」による支配をめざすなら、なおのこと「全ての『命の滴』の保護者である」姿勢を前面に打ち出していかなければならない。
――リザはこの点がまだわかっていない。
むしろ現時点では、ゲルガンドの方こそ皇帝に相応しい。スヘイドは考えるのも忌々しいがそう認めざるを得ない。
このままリザとゲルガンドを婚約させ、早い時期に結婚してしまったらどうなるか。ゲルガンドは長年帝国の将軍として前線に立ち、将兵からの人望を一身に集めている。諸王国の王とも直接面識があり知己も多い。養女への襲撃事件では、いちいち「浜辺の者」の命まで気に掛けていた。未だ皇宮の中でのみ昂然と胸を張ることしか知らぬリザとは、圧倒的に器が違う。
このままゲルガンドを皇女の夫とすれば、帝国臣民の支持を得、「皇帝」として扱われるのはゲルガンドの方ではないか。形式はともかく、皇帝の位の実権を握るのはあの男になるのではないだろうか。
さらに――スヘイドの想像の翼は暗い方向に羽ばたく。夢見ているリザには辛いことだが、ゲルガンドはリザに恋しているわけではない。皇帝の命で婚約したのだ。もし年数が経ち、自分がいなくなったら。ゲルガンドが愛妾を持つくらいならまだいい。最悪リザを亡き者とすることだってありうるのだ。
やはりゲルガンドとリザを婚約させたのは早計ではなかったろうか。ホイガのような拙劣なものではなく、もっと緻密な策略を用いて、いっそのことゲルガンドの命を絶ってしまった方が良いのではないだろうか。
スヘイドはゲルガンドとリザを、あたかも盤上の駒のように、その配置を考えていた。その彼の耳に、すすり泣く声が聞こえてきた。
「ひどい、ひどいわ。お父様」
リザがぽろぽろと涙を零している。スヘイドは驚いて愛娘の顔を見つめた。この娘がこうはっきりと涙を流すのは、母親の葬儀以来記憶にない。リザには「立派な皇帝となって、母を死に追いやった者たちを見返してやるのだ」という強い気持ちがあった。だからどんなに辛い儀式や勉強でも音を上げたことなどない。涙など、目に僅かに滲むのを何度か見たことがあるだけだ。
「嫌だ、子供みたい」
事実少女でしかない皇女は拳で涙を拭く。それでも涙は止まろうとしない。それは、「立派な皇帝となりたい」という願いの裏にもう一つの願いが、リザ皇女の内面にあるからなのだが、スヘイドはもちろんリザ自身も気付こうとしない。
幼い頃からリザにとって、父帝と叔父ホイガと、そしてタペストリーのトゥオグルだけが自分の味方だった。このうち生身の人間は父と叔父だけであり、そして一人の少女の成長にとって、この二人だけが人間関係の全てというのはあまりにも狭すぎた。
二人とも、決しておしつけがましくはなかったが、リザには力強い皇帝になることを望んでいた。幼いリザがペイリンのような人生を歩まずに済むよう願ってのことだった。リザは彼らの期待に精一杯応えた。皇帝になるための試練として課せられたものを遣り遂げ、それを糧に皇女としての気位の高さを身につけていったのである。
けれどもこの二人は、リザの味方ではあったがリザを真の意味で甘えさせてくれなかった。リザは現実にはいない、けれども幼子が育つには必要な役割を果たすべき人物像を、タペストリーのトゥオグルに重ねてきた。
皇帝や廷臣の仕事でリザを独りにしがちな父や叔父に代わって、ずっと傍に居て、優しく見守ってくれる人。宮中祭祀の間畏まっていることの辛さ、大人たちが教える学問のつまらなさ、そんな本音を漏らすことの出来る人。年齢からいくと自分よりも先に逝ってしまう父や叔父と違って、永遠に自分を敵から守ってくれる人。
さらには――。自分を立派な皇帝にしたいと考える父や叔父が知れば失望する、そして自分自身も認めたくない願い。すなわち皇帝位の重責を肩代わりしてくれる人間をも、リザはトゥオグルに夢見ていたのだった。
母のようになってはならない。立派な皇帝にならねばならない。そういった父や叔父の期待の中で、孤独な少女が現実から逃れてこっそりはぐくんだ夢であった。
その夢が現実となって現れたのがゲルガンドだった。彼は高貴な生まれであり、頼もしい。だから父帝は今、娘との婚約を悔やみ始めている。けれども、リザにとっては、決して自覚していない「いっそ皇帝位を肩代わりしてもらってもいい」という密かな夢をも叶えてくれそうな、奇跡の出会いのように思えるのだった。
リザ皇女の涙は止まらない。ゲルガンドを失えば、夢は潰える。彼女は、命を狙う奸臣どもに取り囲まれ、たった一人で皇帝位に君臨しなければならない。リザはその孤独と重圧が怖かった。幼児が闇を恐れるがごとく。幼くはあったが、それだけ真剣に怖ろしかったのだった。
スヘイドは決して暗愚な皇帝ではなかった。しかし冷徹とは程遠い、娘思いの父親であった。愛娘の涙に動揺し、自分自身がかつて激しい恋に落ちたことを思い起こせば、婚約者との仲を裂こうとはとても思えなかった。
彼は凡庸な皇帝らしい決断をした。婚約を公にはしないが、ゲルガンドが皇女にとって特別な異性であることを儀礼の中で明らかにすることにした。要するに問題を先送りにしたのである。
皇女の誕生式典が大会堂で賑々しく開かれている。皇女の好きなあのタペストリーも天井から吊り下げられている。それ以外にも式典ということで様々な装飾がふんだんになされている。
他の典礼、例えば儀式でも装飾はなされるが、大抵の場合その儀式の厳しさを損なわぬ程度に節度が守られるものである。しかし、今回は万事派手好みの皇女に合わせ、ほとんど野放図といった調子で隅から隅まで飾り立てられている。至るところに花が活けられ、赤白ピンクの布があちこちにあしらわれる。帝国の威厳を示す大会堂が、今日ばかりは少女趣味の色彩に満たされていた。
主役の皇女はすでに大会堂の一番奥、十数段の階段の上の壇上に、父帝と並んで座っている。身に纏う服は貴色である白一色ではあるが、凝った意匠といい、あしらう宝石といい、レース使いといい、華麗極まりない装いであった。
式典が始まり、まずは神官達が階の下に進み出て、次期皇帝の成長を言祝ぐ。使われている言葉は古代のもので、内容を理解できるものは会場にはいなかったし、参列者の関心は次に起こる予定に向けられていた。
神官らが退出した後、高位高官にある者が次々に皇女に祝辞を述べに進み出る。勿論、誰も聖なる階段の手前までしか皇女の傍に近付くことは許されない。しかし今日は――。参列者達は固唾を呑んでゲルガンドの様子を伺っていた。
帝国軍元帥であるゲルガンドが祝辞を述べる順番は早々に回ってきた。彼はゆっくりと階段のもとまで進む。大会堂中の人々の視線を一身に浴びていることに彼は気付いていた。ただ、それをどうだとも思わないでいるが。
階段の直前まで歩み出たゲルガンドは、その足の運びのままに、さりげなく一段目に足を掛けた。おお、と会堂中にどよめきが満ちる。一人一人は声を潜めたつもりでも、詰め掛けた出席者全員のものが集まると、それは大会堂全体を振るわせるものになったのだ。
ゲルガンドは、その後も続く大会堂のざわめきなど全く気にとめることなく一段また一段と聖なる階段を上っていく。今日の式典に先立って、皇帝から「今回の誕生式典では、元帥殿に登壇を許す」との勅書が送られていた。彼は単にその勅命に従っているだけだ。その勅書はこうも命じていた。「壇上にあって皇女に祝辞を述べる際には、その御手を取り甲に口付けするを許すものなり」と。
――なんとも少女趣味な演出だ。
ゲルガンドはその筋書きに呆れ、不快になった。それは今この瞬間にも変わらない。聖なる階段に足を掛けることが帝国に生まれた身にどれほど光栄であるかもちろん彼は知っている。
けれども、彼の心にはもっと大切なものがあり、それと別離を強いられたばかりであった。その別離を強いた相手が尊大に差し出す「光栄」など、彼を白々しい気分にさせるだけであった。
自分の腰掛ける豪奢な椅子に向かって、一段また一段とゲルガンドが聖なる階段を上ってくる。リザは熱を込めて彼の動きを見つめていた。しかし、彼が近付き、その表情が見てとれるようになって、リザの心中に驚きが広がっていく。
いささか奇妙なことに、彼女はここに来てようやく、自分がゲルガンドに愛されていないことに気がついたのだった。「愛されていない」という表現は正確でないかもしれない。彼女は男女間の恋愛とはやや異なる感情でゲルガンドに執着していたのだから。大きく括れば「思慕」という意味では同じかもしれないが、リザがゲルガンドに抱いていた感情は、自分を尊び甘やかしてくれる大人の男が欲しい、という願望だった。
自分は尊ばれるべき存在だ。この場にあっても皇女とその信念はゆるぎない。自分はこの帝国の次期皇帝なのだ。先程だって、神官達が自分の足元に額づいて敬意を捧げていたではないか。
聖なる階段より先は、この世界で至尊の存在及びそれに準ずる者しか足を踏み入れることは許されない。それなのにゲルガンドは、こともなげにその聖域を踏みつけながら歩いてくる。リザは、彼が一歩足を置く度に、自分の何かが踏みにじられるような気がしてたまらない。
――一体何故この男は、何の感激も感動もなく、まるでその辺の地面を歩くのと同じ調子で歩いてくるというのか!
階段を上り終わり、壇上をゲルガンドが近付いて来る。彼の一挙手一投足をリザは強張った顔で凝視していた。そこに自分が期待するものがないか探るために。しかしながらそこにあるのは、恋を失って気落ちした男が、それでも仕事を放棄するわけにもいかず、渋々与えられた命令をこなしている姿だった。
無論、皇女はこの時点でネルヴァの存在もゲルガンドの心情もわかっていない。それでもゲルガンドは、この帝国の尊厳やそれを体現する自分と言う存在に対して、何の関心を持っていないことは確認できた。
彼女の表情は凍りついた。内心の嵐を外に漏らさぬために、である。皇帝の神威に打たれない臣民がいるるということに彼女は混乱し、それがよりによって自分が結婚を望んだゲルガンドであることに怒りが噴出し、一体どうしてこんな事態が生じているのかという疑問が湧き起こった。
ゲルガンドのほうもまた無表情で、皇女の前までくると足を止めてひざまずいた。何か誕生日を祝う言葉を口にしているようだったが、リザの耳には内容が入らない。彼が、さすがに少女の身体という遠慮もあってそれなりに丁寧にリザの手を取り、その甲に口付けた時も、彼女はそれがどこか遠い場所で生じている絵空事のように感じていた。
おおーーっ。
n壇上の二人の心情とは全く関係なく、大会堂が先程とは桁違いなどよめきに震える。
「やはり、ゲルガンド元帥は皇女の婚約者だよ。あの噂もこれで確定だ」
「でも、正式な勅令はまだでございますよ」
「それは単に皇女の年齢を慮ってだろう。今日一つ大人におなりになったといっても未だ十四歳でいらっしゃるから」
人々は囁きを交わす。
「これで皇位をめぐる不穏な気配も治まるでしょうな」
と穏健派の大貴族が言い、
「どうもリザ皇女が帝位につくというのは心配でしたからな。ゲルガンド様が御夫君なら実質的な采配はゲルガンド様が振って下さるでしょう。これで一安心というもの」
と親ゲルガンド派の貴族たちがお互いに頷く。
ともかくゲルガンドが登壇を許され、皇女の手の甲に口付けたことで、ゲルガンドとリザ皇女との婚約は周知のものとなったのである。大会堂の中に、歓声と手放しの拍手が響き渡った。
当の二人が壇上で憮然とした表情を浮かべているにも関わらず。
枯れ草の目立つ農園に、ネルヴァは一人たたずんでいた。ふと彼女の耳に歓声が聞こえたような気がした。彼女は大会堂の方向を見た。夜の景色の中、かなり距離があるのに、大会堂は黒い巨大な影として聳え立っている。
空耳のはずだ。いくら大会堂で大きな歓声が上がったところで自分の耳に届くはずはないのだ。
けれども――。彼女は、今夜すでに幾度となくついたため息を再びついた。あの大会堂の中では皇女の誕生式典が行われているはず。この式典でゲルガンドと皇女との婚約に何か進展があるかもしれないという噂があちこちで飛び交っている。今頃はもう正式な勅令がおりたかもしれない。
「……!」
声にならない程小さい悲鳴を上げてネルヴァは顔を覆った。今日は朝から宿舎にいても研究室に居ても落ち着くことはできなかった。寒風のすさぶ植物学研究室の農場なら誰も来るまい。そう思って足を運んでみた。思ったとおり彼女の他に人影は見えない。ときおり枯葉が吹き上げられる以外、何も動くものもなくしんと静まりかえっている。
ここなら好きなだけ泣くことが出来るだろう。ネルヴァの双眸から次々涙が溢れ、頬を濡らしていく。
ゲルガンドに会う前から、リザ皇女との婚約の話は知っていた。初めて彼に会ったときも、その美男子ぶりに、これなら皇女が熱を上げるのも仕方ないとむしろ微笑ましく思った。そう。わかっていた。彼が既に他の女性のものだとは。
私はただ――。
自分はただお会いしているだけで楽しかったのだ、とネルヴァは思う。
皇帝の従兄弟であり、帝国軍の最高司令官であるゲルガンド将軍のお相手をするように、とロガイ師に言われた際、ネルヴァは随分緊張したものだ。自分は「尖塔の街」で染色業を営む家に生まれた一介の平民に過ぎない。親の反対を押し切って大学に入り、その頭脳を認められて地位が上がるにつれて、帝国の貴族達と接する機会が増えるだろうとは予測していた。しかし、いきなり「かの」ゲルガンド元帥とは――。
ネルヴァは初対面の挨拶にも頭を悩ませていたものだが、ちょっとした事件のために、彼との始めての会話はそんなに堅苦しいものとはならなかった。今となってはそれが良かったのか悪かったのかはわからないけれども。
初めて出会ったかのゲルガンド将軍は、雲の上の存在というよりも、亡き親友とその娘への情に篤い、血の通った人間だった。尊大に構えるところなど全くない、開放的な人柄で、ネルヴァの張り詰めていた心は緩み親しみを覚えたのだった。
あんな出会い方をしたせいか、あるいは誰にでもそのような面をお見せになるのか、ともかく自分にと
ってゲルガンドという人間は、ユーモアを解し、好奇心に溢れた非常に闊達な人間だった。
――この方とお会いしているのは本当に楽しかった。
ネルヴァの頬からまた一筋、新たな涙が滴り落ちる。いつのまにか足元に吹き寄せられていた枯葉が、突風に再び吹き散らされていったが、その風の凍えるほどの冷たさも、今の彼女には気にはならなかった。
いつからだろう。ネルヴァは自問する。彼が会話の中で見せるふとした仕草に胸がときめくようになり、武人の割りにしなやかな指の動きに目を奪われることが増え、その低く落ち着いた声に心が快くくすぐられるようになった。そう、その頃には自分はゲルガンドに恋をし始めていたのかもしれない。
けれども。自分には恋の自覚などなかった。ゲルガンドがいずれ皇女と結婚するのだと思うと心に侘しい風が吹く気もしたが、それだけのことだった。自分はこれからだって、官人としてゲルガンドと仕事をしていることができるし、それで十分だと思っていた。だから、自分一人では自分の恋に気付かなかったはずなのだ。
ここでネルヴァは顔を上げ、まるでゲルガンドが目の前に居るかのように恨みがましい顔をする。
――貴方様があのようなことなさるから。
恋しい相手の口付けが、あんなに甘いものと知らずに済んでいたら。自分の中の恋に火がつくこともなかったのに。皇女との婚約にこうまで心が掻き乱されることもなかったのに。今や自分の中に、はっきりと燃え上がるものが形を持って存在するというのに、あれが最初で最後とは。
ネルヴァは嗚咽を漏らしながら、とうとうしゃがみこんでしまった。視界の隅に、白い物が映った。周囲が茶枯れ、しなびた草の中で、野生種のシードウの花がなんとか生きながらえていた。ネルヴァはゲルガンドが「これは貴方に」と渡してくれた大きなシードウの花を思い出した。あの花は、花瓶に活けて彼女も大切に世話をしたが、もうとっくに枯れてしまっていた。
この野生種のシードウの花も、葉の端々が黄色く変色しかかっている。シードウは越冬しない花だとネルヴァは知っていた。このまま冬に入ればこの花も枯れ果ててしまうだろう。どんな美しい花も枯れてしまうのだ。自分の胸に咲き初めた甘い芳香を放つ花も、儚いものに過ぎなかったのだ――。
ネルヴァが暗然としながらシードウの花を見つめていると、遠くから何か規則的な音が近づいてくるのに気がついた。馬の蹄が土を蹴る音? ネルヴァは立ち上がって遠くを見透かす。
確かに馬が一頭、こちらに向かって駆けてくる。その乗り手を見てネルヴァは息を呑んだ。乗り手の方も、ネルヴァの姿を認めたのか、馬の速度を落とした。躊躇っているのかと思うほど、ゆっくりとネルヴァに近付いて来る。
「ゲルガンド将軍……」
「ネルヴァ殿……」
二人はそう言ったきり、しばし言葉を失って開いたの顔を見つめていた。雲が切れ、月の光がささなければ、二人は朝までそのままずっとそこにそうして佇んでいたかもしれない。
「ネルヴァ殿?」
ゲルガンドはせわしなく馬から降り、ネルヴァに駆け寄った。月の光が、彼女の頬に残る涙の筋を、白く光らせていたからだった。
「どうなされた? それに一体どうしてこんな寒いところにおられるのだ?」
ネルヴァも同じような質問を返す。
「ゲルガンド将軍、貴方様こそなぜこんなところに……。だって、今頃はあの大会堂で皇女様と……」
ゲルガンドは吐き棄てるように行った。
「皇女の誕生式典ならもう終わった。祝宴に残っている者もいるようだが私は退出してきた。気持ちがム
シャクシャするから、馬を駆けさせて気を静めようとしていたところだ。――来るならばここに来ようと思って」
彼はふっと、気遣わしそうな表情でネルヴァに尋ねた。
「で、貴女は? ……泣いておられたのか?」
ネルヴァは何も言えなかった。言い繕わなくては、と思って口を動かそうとするけれども、意味のある言葉が出てこない。ただ、わなわなと口元を震わせながら、目を見開いてゲルガンドを見つめていた。彼女の今にも涙が一滴零れ落ちそうな瞳に、月の光がゆらゆらと煌いている。彼女はただゲルガンドを見つめる。その瞳が、彼女の恋をどんな言葉よりも雄弁にゲルガンドに対して語りかけているか、彼女は全く気がつかないままに。
ゲルガンドはそっと彼女の目元に指を伸ばした。彼女は彼を見上げたまま、視線だけを伏せた。彼は彼女の顔についた涙の筋を丁寧にふき取ってやる。そして、彼が涙を拭い終わり、その指を離した時、その指を追うようにネルヴァは再び視線を上げた。
二人の目が合う。ゲルガンドはまず彼女の肩を抱き、それから身体全体を強く激しく抱きしめた。ネルヴァの腕も、彼の背にしがみ付くように回される。
そしてその夜。誰も存在すら知らないネルヴァの研究室の仮眠用ベッドは、部屋の主以外の者を迎え入れたのだった。
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