ネルヴァの友人

 ネルヴァの研究室。ゲルガンドが去って行った後も、彼女は長い間呆然と座ったままだった。


 やがて、よろよろと立ち上がり自分の机に向かう。仕事をしようと思ったのだ。そうすれば平常心を取り戻せると考えて。しかしながら、手の方は必要な資料を揃え、紙とペンを用意できるのに、頭がついていかない。


 ――どうして。


 悲しみと苦しみ、寂しさと孤独感。これらの感情が一体となり彼女の胸を塞ぐ。何かを書き付けようと卓上に広げた紙の上に、彼女の大粒の涙がポタポタと滴り落ち、次々に染みを作る。


 彼女は仕事に取り掛かるのを諦めた。そして、聳え立つ本棚の谷間を縫って、部屋の奥に進む。研究官には宿舎が与えられていたけれども、彼女はこの研究室の奥に寝台を持ち込んで、ここで仮眠をとることがしょっちゅうだった。


 彼女はその寝台にそっと身を伏せ、目を閉じた。彼女の頭脳は混乱していたが、帝国研究員まで上り詰めた犀利なそれは、彼女にいくつかの記憶を示して見せた。この百科の殿堂で共に研究していた学友達の記憶である。


 研究員は帝国のあちこちの国から集まってくる。目、肌、髪、体格。皆様々に違っているけれども、向学心だけは揃って高い。そう、少なくとも最初の二、三年の間は。


 しかし、それなのに、ある時期を過ぎると友人達は一人また一人と百科の殿堂を辞めてしまい、故郷へ帰って行くのだった。


「何故? この『百科の殿堂』まで来ておいて……。ここほど私たちの向学心を満たしてくれる場所は帝国のどこにもないはずよ」


 ここを辞める――。そう友人から明かされる度、ネルヴァはその理由を相手に尋ねた。


 法学を学びに来ていた男はこう答えた。


「ある時、僕の国の『掟』が教科書に載っていたんだ。法律としての体裁の整っていない、未開の慣習の一例としてね。確かに、帝国の洗練された法律に比べたら、僕の国の『掟』なんて大雑把なものだ。帝国の法律は本当に高度なものだよ。知れば知るほど僕は感心する」

「なら、どうしてもっと帝国の法を学びたいと考えないの?」


 ネルヴァの率直な疑問に、彼は複雑そうな表情で答えた。


「法律だけじゃない。帝国は何でも進んでいる。建築術も、医術も、君のやってる植物学も。あらゆる学問が進んでいる。そして僕は、帝国の優秀さを知れば知るほど――僕の国がいやに粗末でみすぼらしい国に見えてくる」

「それがここを去る理由なの?」

「そう。僕が帝国の学問を身につけ、帝国の言葉で考えたり話したりするようになるにつれて、僕も帝国風に故国を馬鹿にするような人間になっていく。かといって、僕は生まれも育ちも帝国風の人間とは同じになれない。見た目も違うし、あの自然豊かな美しい故郷で育ったという思い出は決して僕の中から消えないからね」


 男は故郷のことを語るとき、一瞬だが実に誇らしげな顔をした。


「ここにいる間、僕は帝国の人間にも故国の人間でもない。どっちつかずでどちらにも居場所がない。なんだか根無し草になった気がするよ。」


 もっとも『石の国』生まれで帝国風に育った君にはわからないだろうけど。と彼は話をそう締めくくった。


「…………」


 彼はネルヴァが無言でいるのを不快に思ったからだと考えたらしく、苦笑しつつ、今度は明るい声で付け加えた。


「僕だって、ここの勉強を真面目にやってみて楽しかったよ。そして僕の国の『掟』を、帝国側にバカにされない程度に洗練させるくらいの知識は身につけた。故国で僕はここでの経験を生かしてそんな仕事をしようと思う」


 ただ、彼は最後にまた一つ付け加えた。


「だけど――。僕の国は、原始的な『掟』があるだけでも、随分平和だったんだけどね。皇妃が自殺したり、皇帝の間諜が暗躍したりするような帝国よりずうっとね」


 彼だけではない。ネルヴァと同じ女性で、もっと親しかった友人もネルヴァを残してこの百科の殿堂を去って行った。


「私ね、薬草学の知識を修めたら、もうここを辞めて国に帰ろうと思うの」

「どうして?」


 真っ黒な肌を持つ彼女は、明るい茶色の瞳に憂いを浮かべて、持っていた図鑑の頁を開いた。


「この植物の葉なんだけど……」


 彼女はある植物を指で指した。図鑑にはその植物には幻覚作用があると説明していた。


「私の国では、年に一度、この葉を使ってお祭りをするの」


 定められた真冬の朔の日。村人が輪になって集まる。輪の中央に火が焚かれ、明々と燃える炎の中にその葉がくべられ燻される。立ち込める煙を皆が吸い込んだとき、あやかしや神仙のような常ならぬ存在が姿を現し、そしてその年の作物の実りを予言するのだ。


 彼女の説明する祭りについては、以前百科の殿堂の教授が講義中に触れたことがある。そしてこう言ったのだ。


「かようにこの草の使用法は、未開部族にみられる集団酩酊の一種ですな。まあ今後の研究次第では何か薬効成分も見つかるかもしれませんが。ま、単なる雑草です」


 大勢の研究官たちがその講義を聴いていた。ネルヴァを含め、大多数は何も思わず聞き流していた。だが、その「未開部族」と呼ばれた彼女は、教授の口調に故国への侮蔑が含まれていることを感じ取り、とても傷ついていたのだった。


「悲しかったし、悔しかったの。年に一度のお祭りは私達にとって神聖なものだった。それを区切りに、これから始まる一年に向かって心構えを促す大切な儀式でもあったの」


 ネルヴァの友人は心底悲しそうな顔をした。


「ただの幻覚剤のせいって言われて、私、何だかとても大切なものを失ってしまった気がするの」

「大切なものって、何?」

「そうね。何といったら良いかしら……。私の中にある故国の文化ってことになるかしら」

「何だか大仰な話ね」


 親しい友人からの率直な感想に、彼女も苦笑した。けれど柔らかに反論する。


「でもね、ネルヴァ。私が『百科の殿堂』で教わったとおりのことを故国の皆に聞かせたら、皆もがっかりすると思うわ。文字通り、幻滅すると思う。そして知ってしまう以前ほど、祭りに熱心に取り組めなくなるか、ひょっとしたらもうお祭りを止めてしまうかもしれない。それって、一つの文化が廃れたってことになるでしょう?」

「……それは……そうね……」

「私、何やってるのかしら」


 深い溜息をネルヴァの友人は漏らした。


「私、故郷のみんなの期待を背負ってここまで来たのに。皆を幸せにするための知識を得ようと思ってここに来たのに」

「でも……。ここで学ぶ知識の中にも、役に立つものはあるんじゃないかしら?」


 ネルヴァは現実的な忠告をしてみた。友人も浅く笑って頷いた。


「もちろん。薬草の知識は役に立つわ。今までの故国で知られている薬草では治らなかった病人だって治せるようになるかもしれないし。そういうのはちゃんと勉強しようと思うの。でも、それでお終い。役立つ知識を十分得られたと思ったら、私、国に帰るわ」


 そしてしばらくして彼女は帰国した。皇都を去る前に約束したとおり、彼女はネルヴァに何回か手紙を送ってくれた。ネルヴァも返事をしていたが、いつの間にかどちらからともなく途絶えがちになり、文通は長くは続かなかった。


 ネルヴァは、彼らのように「百科の殿堂」を去っていった友人について今まで単純に考えていた。帝国と違う文化で生まれ育ってしまった者の中には、自国の文化を愛するあまりに、皇都での暮らしや「百科の殿堂」での学問に馴染めなかった者も出てきてしまうのだろう、と。気の毒に――と思いながらも、ネルヴァはどこか他人事のように感じていた。


 しかし――。一体何が気の毒だというのだろう。ネルヴァは寝台から半身を起こして頭を抱えた。自分だってあの友人達と変わりないのだ。


 もし客観的な真理を探究するというのなら、自分はあの「銀の水盤」だって研究資料として「百科の殿堂」の資料室に転がしておかなくてはならない。他の資料と同列に扱うべきなのだ。


 そうすべきだ、と頭ではわかっている。けれども、心の中から叫び声がする。決してそんなことはできない、と。


 「河の信仰」はネルヴァにとって幼少時から慣れ親しんできたものだ。自分の命はあの「海の源流」に一滴のしずくとしてこの世界に生れ落ちたのだと思うし、この人生が終われば河を下り魚になって海で暮らし、そして再び「海の源流」に、滴り落ちるのだと信じている。そう、あの「銀の水盤」に。永遠に廻り続ける生命の道の、その要である神聖な「銀の水盤」。目の前にすれば、恐れ多くて手を触れるのも憚られるような尊いものを、資料として床に転がすなんて、そんなこととても出来ない。


 ネルヴァは依然両手で頭を抱えたまま肩を落とした。ゲルガンドの言うとおりなのだ。「百科の殿堂」の示す「真理」とは、帝国の側から見えるものを「真理」と呼んでいるに過ぎない。あの「銀の水盤」をも資料として、帝国の文化も諸王国の文化と同列に置いて考察しない限りは。


 友人たちの方が真っ当だったのだ。今なら、彼らの抱えていた葛藤がわかる。自分の生まれ育った「石の国」は、早くから帝国の支配下に入り、それ以前から「河の信仰」を共にしている。強大な帝国の内部に生まれたために気付かなかっただけで、自分も彼らと同じ立場なのだ。


 彼らの苦衷を察することができなかった自分をネルヴァは恥じた。もっと彼らのいうことに真摯に耳を傾けていれば――。彼らの言葉の意味するものを、もっと深く考えていれば――。


 いや。それは過去の問題ではなかった。今や彼らと同様の立場となったネルヴァは、しかしながら彼らのように帰るべき自国の文化というものがない。自分が生涯追い求めていくものを思っていた「真理」は虚偽に過ぎなかった。では、今まで自分は何をしてきて、それからこれから何を為し得るのだろう。


 ネルヴァは胸の前で指を組んだ。彼女が真剣に思案するときの癖だった。夜の寒さが、昼間の服装のまま何も羽織らずにいるネルヴァの身体に染み込んできていたが、彼女は考えるのに没頭して身動きすらしなかった。それは、彼女が他ならぬ自分自身を取り戻す作業だった。



 しばらく経って、ゲルガンドのもとに植物学研究室から使いが来た。「傷の治りを早める新種の薬草が見つかったので、是非将軍にご足労願いたい」。それを聞いたゲルガンドの心に、まず、ネルヴァに会えるという素直な喜びが生まれた。しかし、すぐその上に「もう、彼女に会ってはならぬのだ」という考えが覆いかぶさった。もう会わない。自分は彼女にそう宣言したはずなのに……。


 彼は使者を待たせたまま、窓の外をみやった。「森の国」をとりまく嶺々の山頂付近がうっすら白くなっている。秋も終わりに近付きつつあることを感じながら、ゲルガンドはネルヴァの使いの真意について考えた。


 こんなタイミングよく新種の薬草が見つかるとは思えない。ネルヴァは自分に何か話をしたいと思っているのだ。前回、あまりに俗っぽい理由で別離を宣言した。彼女は自分を軽蔑しているかもしれない。普通ならもう見切りをつけるだろう。それなのに自分を呼び出すとは、その理由はなんなのだろう。この自分を、何かを伝えるべき相手と未だ考えていてくれるなら、それは嬉しい。そう、嬉しいのだが……。


 ゲルガンドは使者の怪訝そうな視線に気付いた。ともあれ植物学研究室から薬草のことで話があると言われて断るのは不自然だ。彼は使者に言った。


「待たせて済まない。ちょっと考え事を――そう、こちらもその日は予定があったので。だが都合はつく。ネルヴァ殿には、約束の日時にうかがうとお伝えしてくれ」


 立ち去る使者をゲルガンドは複雑な顔で見送った。



 ゲルガンドはネルヴァの研究室の扉の前でやや躊躇った後、ドアを開けた。中に居たネルヴァが立ち上がり、少しぎこちなく、しかしやはり柔らかい笑顔を浮かべる。


 挨拶を交わし、ネルヴァが香草茶を振る舞い、ゲルガンドがそれを一口飲んで卓に茶器を戻した。そのカタンという音を最後に、二人の間に沈黙が降りた。


 しばらく経ってから、ネルヴァが顔を上げてゲルガンドを見つめた。言うべきことを言わなくては、という決意に満ちた表情だった。


 ゲルガンドは思った。これから自分は彼女からきっぱり別離を言い渡されるのだろうか。仕方がないこととはいえ、それはひどく寂しいことだった。


 ネルヴァが口を開いた。


「先日のゲルガンド様のお話で、友人達のことを思い出しましたの」

「友人を?」


 意外な話題でゲルガンドは少しばかり戸惑った。


「ええ」


 ネルヴァはどこか痛みをこらえる風に頷いた。


「ここを去って行った者たちです。彼らが何故『百科の殿堂』を去るのか私にはわかりませんでした。でも、ゲルガンド様のお話で今ならわかるようになりました。彼らは自分たちの故国の文化が、帝国から一方的に資料として扱われていることに傷ついたのです。ゲルガンド様に、もし私が『河の信仰』の象徴である『銀の水盤』を単なる資料として扱われたらどう思うか、と問われて、私もやっと彼らの苦しみが理解できました」


 ――私は友達甲斐のない人間ですね。とネルヴァは自嘲した。ゲルガンドは慌てて言った。


「私は別に貴女を責めようとか、傷つけようとか思ってあんなことを言った訳じゃない」

「有難うございます。でも、私は友人たちに対して誠実ではなかった……。だから、せめてゲルガンド様には私の考えたことをお伝えしようと思ったのです」

「……伺おう」


 ゲルガンドは椅子に深く腰掛けなおして答えた。彼女のこういう知的で真摯なところに自分は惹かれることを、改めて哀しく思いながら。


「まず。今までのように帝国の支配下にある『百科の殿堂』が主張する『真理』がずっとこのまま通用するとは思えません。次第にその欺瞞に気付いていく者も多いと思うのです。まず、私の友人たちが去っていきました。そしてゲルガンド様、貴方様が的確に指摘なさいました。そしてそれを伺った私ももう帝国の言う『真理』に疑問を抱いています。そしていずれ更に多くの人々が気付いていくことでしょう。そしていつかあの『銀の水盤』も資料として『百科の殿堂』に収められる日が来るかもしれません」


 ここでネルヴァは苦笑した。


「もっとも、そうなるには長い時間が掛かるかもしれません。心の整理をつけなければなりませんもの。どの国の文化であっても、その中で信じたものから距離を置くのは、痛みを伴うものです。私が今、『銀の水盤』を資料として扱うことをとても辛く思うように。私一代では時間が足りないかもしれません。次世代、或いは更に次の世代に引き継がれるものなのかもしれません」


 ゲルガンドが顎に手をやりながら口を開いた。


「そんな痛みを伴ってまで、信仰から距離を置かねばならないものだろうか、ネルヴァ殿。我々が『銀の水盤』を動かさず、今までどおり『河の信仰』を続けると同時に、諸王国の信仰も同様に対等に扱う。そのような選択肢もあると私は思うが」


 ゲルガンドの反論に、ネルヴァはゆっくりと首を振った。

「いいえ。今ある文化の中に各々の国が閉じこもるということはもはや不可能です。なぜなら、時代がも

う動いてしまっているからです」


 この言葉に、ゲルガンドの記憶の片隅で何か閃くものがあった。ただそれを具体的に思い出せない。ネルヴァは更に続ける。


「昔は、諸王国はポツンポツンと離れて点在し、行き来もありませんでした。隣国でもなければ相互に存在も知らなかったのです。それが帝国の領土に組み入れられ、同じ帝国の中の同胞となりました。帝国語が共通の言語となり、帝国の金貨銀貨が共通の通貨となり……。多くの国が自国では手に入れられないものを買い、その金を得るために自国で取れるものを売り、そしてそれを仲立ちする商人が現れる。帝国内で交流が生じたおかげで、民の暮らしは豊かで便利になりました。この時代の流れに逆らうことはできません」


 ――誰かだ、誰かが同じようなことを言っていた。ゲルガンドは記憶をまさぐりながら、頷いてネルヴァに話の続きを促す。


「その中で人々は異文化に出会います。もう接触せずに済ますことはできません。昔なら人々は伝統的な自国の文化の中で安らいでいたことでしょう。けれども今は、自分たちと異なる文化――時として自分たちの文化を脅かすような異文化と触れずに済ますことが出来ないのです」


 ここでネルヴァは口を閉じて自分の考えの中に入り込んだ。友人たちは、国に帰れば自分たちが安らげる文化が待っていると思っていた。それが帰国する理由だった。けれど……。


「一度、違う文化の人間と出会ってしまったら、その影響を蒙らずにはいられません。自分が信じるものを、信じないものがいる。それでも彼らは別段不幸にも見舞われず、平穏に暮らしていたりする。それを知った後で、今まで自分たちが信じていたものを、それを知る以前と同じ情熱を傾けて信じることができるでしょうか。異なる文化が出会ったとき、各々の文化は程度の差こそあれ、揺らがずにいることはできないでしょう」


 帰国した友人たちはどうしているだろう。故国に帰っても、そこに彼らが「自国の文化」と記憶していたものは変質してしまっているかもしれない。何より彼ら自身が帝国の中心で様々な異文化と接してしまった。本人達は自覚していなくても、もう以前と同じようには自国の文化に接することはできなくなってしまっているかもしれない。果たして彼らは、彼らが願ったほど安らかに過ごしているだろうか。


 ネルヴァが沈黙に入り込んでいるので、ゲルガンドは暫く待ったが、頃合を見計らって尋ねた。


「ネルヴァ殿。異文化の中でも我が帝国のそれは特別なものだ。なにしろ支配者のものなのだから。帝国は自分たちの文化を力で押し付けようとしている。それに先程貴女が言ったように、民の生活が便利になり豊かになったのは、万国共通のものとして帝国の言葉や通貨があるからだ。この中で諸国の文化が変化を強いられるとするなら、それはどの国も帝国風に染まっていくということではないだろうか」

「とても長い目で見ればそうなる可能性もあります。でも――」


 ネルヴァはここでも苦く笑った。


「でも、そうなるにしても、それには長い長い時間が掛かります。先程も申し上げましたでしょう? もし私が『銀の水盤』を抵抗なく資料として扱うようになるには相当な時間を要するだろうと。ひょっとしたら次世代、次々世代になるかもしれない、と。一つの文化が根底からひっくり返るには時間がかかります」


 それに、とネルヴァはゲルガンドを見返した。


「交易などで自然に交流するのならともかく、帝国は武力や圧倒的な地位で、その文化を押し付けようとする。自然な交流でさえ、伝統文化の変質には摩擦や抵抗が生じるもの。それが一方的な支配―被支配の関係であれば、その混乱の激しさは、自然発生的な変化で生じるそれとは比べ物になりますまい」

「その通りだ、ネルヴァ殿。現に、その国の旧い信仰と帝国の『河の信仰』がせめぎあって、流血の惨事を生んでしまった国もある」


 ゲルガンドの頭の中にあったのは勿論ワレギアの悲劇だった。


「ええ。放っておけばあちこちでワレギアのような悲劇が起きてしまいます。私たちはそれを止めるようにしなければ」

「私たち?」

「そうです。帝国の中枢にいる貴方様。その傍で研究するこの私。それぞれに負うべき義務と責任があります」


 ネルヴァは息を継いだ。


「帝国のもたらした変化は悪いことばかりではありません。前に申しましたように民の暮らしは便利に豊かになりました。私の研究している植物学も貢献しております。ある地方の薬草の効用が明らかとなり、他地域の諸王国に伝え、そこでは以前では治らなかった病が治るようになった。そんな例は多数あります」


 ネルヴァはここで少し微笑んだ。自分が民の役に立てたことは誇りだった。


「民に幸福をもたらす限りでは、『百科の殿堂』のような施設は必要なのだと思います。ここには考えることが大好きで、それぞれ故国の期待を背負った者たちが集まってきています。最初に申し上げたように、貴方様や私以外にも、帝国の『真理』の欺瞞に気付く者も出てくるでしょう。彼らはきっと、安易な『真理』に早上がりしてはならないのだと学ぶはずです。そして、どの国の文化も否定することはできないということも。それから、数多くの文化が同じ帝国の同胞となった今、狭い一国の中で、その国の示す『真理』だけを信じてはいられないことも」


 ここからは私見ですが、とネルヴァはことわりをいれた。その頬は微かに上気している。


「簡単に見つかる『真理』などありません。多くの『真理』の中で本当に『真理』と呼びうるのは、異質の『真理』を包み込むことのできるものでありましょう。それはきっと、自分たちと相容れぬものたちとの対話を経て、取り出されるもの。広い大河で一粒の砂金を探すごとく、時間と手間のかかる作業が今後必要となりましょう。それでも、帝国が諸国を支配し、異質な『真理』が同じ屋根の下に集う今、これからは異質なものを如何に包むか、その『真理』を見出していかねばなりません。そして私は信じています。学問はきっとそれが出来る。いえ、時代が変わる今、そうしていかなければなりません」


 ここでネルヴァは、しっかりとゲルガンドに視線を当てた。その目の強さは、実際にはそうではないのに、指を突きつけられたようにゲルガンドは感じた。


「研究者たちに、民のために知恵を絞らせ、実際に政を通じて民に還元していくのは、ゲルガンド様、畢竟貴方様を含め為政者の方々ですわ」


 ゲルガンドの胸の中を爽快な風が駆け抜けていく。暫く「時代の流れ」という気宇壮大な、けれどもどこか掴み所のない話が続いた。だが、たった今、彼はネルヴァによって、その大きな世界観の中に、自分の立っている位置とこれから進む道とを鮮やかに示されたのだ。


 それと同時に彼は記憶の中に一人の男の姿を捉えた。


 ――ガルムフ。


 そうだ。あの親友も同じようなことを言っていたのだ。国の民に幸せを与えることを根底に、時代の変化を見据え、未来に敢然と立ち向かっていた男。


 ネルヴァにガルムフの姿を見出し、彼は彼女への想いを一層強くする。これだ。このような強さだ。自分の傍にいて欲しいのはこのような人物なのだ。彼女がいれば、自分の人生はどんなに有意義なものとなることか。


「あ、あの……それから……」


 ネルヴァはそれまでの歯切れのよさを失い、少々口ごもりながら再び話し始めた。ゲルガンドが改めて彼女を見つめ返すと、ほんの少し頬が赤く染まったようだった。


「あの……。私が女性であるために妙な噂が立つと困るからという理由で、今後一切私とは会わないとゲルガンド様は仰いました」


 ゲルガンドは心に抱える重いものを感じながら答えた。


「確かにそう申し上げた」

「それはおかしいと思うのです」

「おかしい……?」


 首を傾げるゲルガンドにネルヴァは真面目に続けた。


「女性だから会わないというのはおかしな話です。だって政の場には、男性に比べれば数は少ないとはいえ、女性の文官、研究官がおり、皇帝の政務を補佐しております。為政者である貴方様が、彼女たち女性の臣下と、女性だからという理由で会おうとしないというのは無理があると思うのです。


 ゲルガンドは長い間黙したまま、ネルヴァの顔を見つめた。ネルヴァは何故か不安を感じて目を伏せた。彼の沈黙に自分がどうしてこうも緊張するのかわからず、床に視線を泳がせる。


「ネルヴァ殿」


 呼びかけられて彼女は顔を上げた。哀しみを含んだゲルガンドの顔があった。その表情にも関わらず、彼は軽口を叩いてみせる。


「貴女はやはり『うっかり者』だ」

「……どういうことでしょう?」

「貴女は、前回私がここで話したことの一部に、実に真摯に答を返して下さった。素晴らしい内容だった。私も貴女のおっしゃるように――そして貴女とともに――民のために生きていけたならどんなに甲斐のある人生を送ることができるかと思う」


 彼は胸の中で、一瞬の間心から渇望した未来が、遠くへ去っていくのを見送る。


「お出来にならないと、ということですか?」


 ゲルガンドは微かに口の端を上げた。


「だから貴女は『うっかり者』だ。一つのことを真剣に考えると周りのことが見えなくなってしまうらしい」


 ゲルガンドは溜息を一つつく。


「まず、私は皇帝になるのではなく、皇女の夫になるのだ。皇帝ではなく、女帝の夫に。今まで散々皇位を簒奪するのではないかと疑われてきた私だ。結婚しても、皇女以上に政に口を出すことは出来ないだろう。そんなことをすれば、皇帝位の実権を奪おうとしていると反発を招くことになるだろうから」

「でも――」


 ネルヴァは我知らず、少々本質からずれたことを口にした。


「でも、それでも全く政に関わらないわけではいらっしゃらないでしょう? 『百科の殿堂』の研究官である私と全く会わないということもないのではありませんか?」


 ゲルガンドは首を振って立ち上がった。やはり、彼女に何もかも明かしてから別れた方がいいのだと決意を固めて。


 ゲルガンドが立ち上がったのでネルヴァもつられて立ち上がった。ゲルガンドは自分の席を離れて彼女に近付き、目の前に立つ。ネルヴァは長身の彼を、驚きと不審とをもって見上げた。


 ゲルガンドはこみ上げてくる熱情を押し殺しながら言った。


「私は全ての女性官人に会わないわけではない。貴女とは会えない、と言っているのだ」

「何故です? 何故私だけ……」


 ネルヴァの声は掠れ、震えていた。


「お分かりにならないか」


 ゲルガンドが手を動かす。そして彼の武骨な指がネルヴァの唇に触れた。驚きのあまり彼女の目が大きく見開かれ、触れられていることも忘れてその唇も半開きになる。その唇をゲルガンドは丁寧に人差し指でなぞった。あのシードウの花と同じようにふっくらとした感触が伝わる。しかし、それに加えて切花にはない、心優しい温もりが彼女の唇にはあった。


 ゲルガンドはゆっくりと顔を近づけていく。ネルヴァの見開かれた目のなかでその栗色の瞳が激しく揺れ動く。ゲルガンドは彼女の唇から指を離し、それに代えて自分の唇を彼女のそれに重ねた。ネルヴァは拒まなかった。その瞬間一、二度瞬きをしたが、その後ゆっくりと瞼を閉じていった。


 暫くの間、二人はそうしていた。昼の穏やかな天候が、日が傾くにつれて風を伴うものとなったらしい。枯葉がバサッと窓に当たる音が、二人だけの部屋にやけに大きく響いた。その音が度重なるようになって、ようやく二人は顔を離した。


 ネルヴァの瞳にも、今はゲルガンドと同じ種類の哀しみが浮かんでいた。


「――もうお分かりだろう」


 ゲルガンドは、これが最後という風にネルヴァの瞳を覗き込んで口を開いた。


「私たちはもう、二度と会ってはならぬのだ」


 ネルヴァも頷いた。実際には、これからだって政の場で顔を合わせることはあるだろう。けれど、その時には白々と用件だけを済ませるものにしなくてはならない。


 ゲルガンドは少しの間名残惜しげに佇んでいたが、「では」と短く口にすると踵を返して立ち去って行った。ネルヴァは自室の扉が閉まるまで、彼の背中を黙って見つめた。扉が動くにつれ四角い視界が細く狭まって行く。その中に見て取れる男の背中はこちらを振り返ろうとしない。


 とうとう扉が彼の姿を覆い隠してしまうと、ネルヴァは目を閉じそのまま床に崩れ落ちてしまった。

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