別れの言葉

 いつものように振舞われた珍しい香草茶を飲みながら、ゲルガンドはネルヴァを見つめた。目が合うとネルヴァはいつものように、柔らかく微笑んだ。


 本棚に囲まれた薄暗い彼女の部屋の中でも、彼女の美しさ――「石の国」出身者らしい適度な彫の深さ、整った顔立ち、髪と瞳の栗色の深みある色合い――は容易に見て取れた。


 ただ、ゲルガンドが今日失ってしまうことになるが惜しいのは、その外見の美しさではなく、その顔に浮かぶ彼女の心からの温かな微笑だった。けれども、今日こそは言わなくてはならない、別れの言葉を――。


 ゲルガンドは茶器を卓に静かに置いた。


「ネルヴァ殿、今日は少し真面目なお話をしようと思う。私は貴女とは異なる考えの人間であるということを」

「ええ、伺いましょう」


 ネルヴァはさりげなく正面に座りなおす。研究官という立場上、彼女にとって論戦は日常的なものであったし、それに彼女は人にはそれぞれ大切な個人の思想があるということを知っている成熟した女性だった。


「貴女と私の間には相容れぬ相違があり、深い溝がある」


 改めて念を押すところに、ネルヴァは胸の内に冷たいものが落ちる気がした。けれども、心よりも頭脳を働かせて応える。


「相容れぬのかどうかは、具体的にお話を伺わねば何とも結論は申し上げられません」

「確かに」


 ゲルガンドは頷いて再び茶器を手にした。


「貴女はこの『百科の殿堂』をどう思われる?」

「素晴らしい施設ですわ。今までは、ロガイ師のような特別な人間しか、見聞を広げてこの世の真理に近付くことができませんでした。それが、皇帝が諸王国から万物を集め、真理を求める誓いを立てたものなら誰にでも、見せて下さるのですもの。私がこの殿堂に初めて足を踏み入れたときの感激は忘れられません」


 その言葉に合わせて彼女の白皙の頬に僅かに赤みがさす。


「殿堂の中で、本来なら、私など一生目にすることも無かったはずの諸国の珍しい品々を、一望のもとに見渡すことができたのですから……もう、本当に感激しましたわ、あの時は」


 あら、ちょっと興奮気味ですわね、と苦笑しながらネルヴァは続けた。


「ともかく、これだけ豊富な資料を揃えたこの『百科の殿堂』が出来たことで、私たちは真理に至る道を手に入れたと申せましょう」

「ネルヴァ殿、その『真理に至る』とは、どういったことを指すとお考えか?」

「まず、広く満遍なくそして遺漏なきよう万物の資料を揃えることです。そしてそれらを系統立てて分類し、相互の関係を見定め、その奥にある諸原則を知ることでしょう」


 ネルヴァは淀みなく答える。


「それが『百科の殿堂』では可能だと?」

「ええ」


 ゲルガンドは溜息を吐き、茶を口に運んだ。今度は自分が弁舌を振るう番だった。


「系統だの分類だの仰るが、それを支える根拠があの殿堂の内部には存在しないことにはお気づきか?」

「と言いますと?」

「では、まず刀剣の分類を例に挙げよう。確かに所蔵品の数は多いのは認めよう。帝国のやり方なら、帝国中の刀剣――子供が玩具にしているような小刀まで取り上げて――遺漏無く蒐集することができるだろう。けれど、少なくとも今の分類は随分奇妙に思われる。武具を知るには、その武具が人々の暮らしの中でどのように生まれ、用いられてきたかを知らなければならないと私は思う。今の分類はそれを知らぬ者が勝手にでっち上げた架空のものだ」


 聡明なネルヴァは頷いて見せた。


「ロガイ師が常々仰る『資料の背後の文化を知れ』ということですね。それは心得ておりますわ」


 ゲルガンドは首を振った。


「いや、私が言おうとしているのは、単なる心得以上のものだ」

「…………」

「では、別の例を挙げよう。『未開の信仰』に対する『百科の殿堂』の取り扱い方について、だ。あのようなやり方では、今の殿堂にはどこにも真理も、真理に至る道も存在し得ない」

「……何故です?」

「あそこに展示されている、シシーの宝玉もワレギアの巫女の衣装も、故国にあっては、光も射さぬ宮中の奥深くに普段眠っており、人々に尊ばれてきたものだ。それらをああも剥き出しに飾った時点で、あれらの展示物はその本質を失う。『神秘性』という本質を――。そんな抜け殻を並べて、各地の信仰の何がわかるというのか」


 ネルヴァは一瞬言葉に詰まったが、すぐに体勢を立て直した。


「怖れながら、ゲルガンド将軍のご意見は、些か感情に流されておいでだと思います。ご指摘のような問題を『百科の殿堂』が抱えていることはわかりました。分類の仕方が現実を反映していないのであれば、それを反映するようにすべきでしょう。そう、ゲルガンド様のように造詣の深い方の意見を取り入れながら」


 彼女はすらすらと続ける。


「信仰に関する展示も改善すべきでしょう。ワレギアの衣装の件は関係者への配慮が足りませんでした。ただ――」

「ただ?」

「諸国の旧い信仰についてですが、あれらは『河の信仰』に帰依した当事者が棄て去ったものです」

「全ての国の者が、喜んで棄てたわけでも、心から棄てたわけでもない」

「ええ。棄てるにあたってはその国々の事情もありましょうし、様々な心情を抱える者もおりましょう。しかしながら、『棄てられた』というのは事実です。棄てられてしまった以上、その信仰の姿はやがて顧みられなくなり、忘れ去られてしまいます。このままでは何の記録も残らず、歴史の中に消滅してしまうだけでしょう。ですから、棄てられてしまった信仰についてその痕跡を蒐集し保存することは決して悪いことばかりではありますまい」


 彼女は姿勢を正し、胸の前で指を組んで宣言した。


「ゲルガンド将軍のご指摘のように、分類の客観的根拠に反省を加え、棄てられきったわけでない信仰に適切な配慮を怠らない。これらは確かに重要な問題です。しかしながら、それは『百科の殿堂』の運営上の問題であって、設立の理念そのものを覆すわけではありません」


 彼女はきっぱり言いきった。


「我々は独善的になることを避けながら、礼を失わずに諸国から万物を集め、常に注意深く考察を加えていくことで、真理に行き着くことができるはずです」


 ネルヴァは、自分にとっては明快な結論を得てさっぱりとした表情をしている。そしてすこしばかり余裕のある表情で、無表情を貫くゲルガンドの顔をまっすぐに見た。


 それを受けてゲルガンドは厳しい表情を浮かべ、腕を組んだ。そして言葉を放った――静かに、しかしながら鋭く。


「では、言おう。あの各国の信仰の展示室には重要な品が欠けている」


 それは――、とゲルガンドは一拍あけた。


「銀の水盤だ」


 ネルヴァは怪訝そうにゲルガンドを見返したが、それが何か分かると驚愕のあまり小さな声をあげた。


「……!」

「全ての信仰を客観的に分析したいのなら、あの『海の源流』にある『銀の水盤』こそ欠かせまい。一体何故『百科の殿堂』の者たちはあの水盤をあの部屋に並べようとしないのだ?」


 そう問われても、ネルヴァは衝撃から立ち直ることができず、青ざめた顔で、口を軽く開けたまま左右に細かく首を振る。


「……そんな……いけません……」


 いつも理知的な彼女が初めてゲルガンドに動揺する姿を晒している。


「あれは、あの水盤は神聖なものです。太古から存在し、全ての命の滴を受け止めてきた……」


 彼女は暫くの間、喘ぐように口を開け閉めしながら言葉を探し、やっとゲルガンドに向かって形のある文章を投げた。


「貴方は皇帝の従兄弟に当たられるお方。『海の源流』を守護する最高責任者にごく近いお立場ではないですか。そんなお方がなんと不遜なことを仰るのです」


 これが自分とゲルガンドが今まで戦わせてきた議論の本質からズレていることは、彼女も承知している。ただ、それしか言うべきことが出てこないのだ。


 痛ましいものをみるような表情で、それでもゲルガンドは容赦なく続ける。


「真理に至るためには『あらゆる万物を資料として遺漏無く蒐集して』と貴方は仰った。しかし、自分たちの信仰だけは特別か。神聖なものだから資料扱いなどとんでもない、と仰るか」

「…………」


 ネルヴァを最後まで追い詰めたいわけではないゲルガンドは少し話の方向を変えた。


「私の言いたいことは、こういうことだ。もし『森の国』以上に強大な国が出現したとする。そして武力で以って、この世界の覇権を帝国から奪ったとする。その時、その国が、未開の信仰の遺物としてあの『銀の水盤』をその辺に転がして見世物にすることだって十分あり得る」


 ネルヴァが話に再びついてきているのを確かめながら、ゲルガンドは話を進めた。


「つまり、貴女方が悦に言って眺めている万物は、帝国の武力によってもたらされたものなのだ。貴女のいう真理とは、武力での勝利の上に存在することになる。あの水盤を、他の陳列物と並べて見せない限り、そうだとしか言いようがない」


 ゲルガンド自身も、自分の行きついた結論にやや慄然としながら、口をつくままそれをネルヴァに伝える。


「結局のところ、シャルメル、スヘイド両帝の肝いりで建造され、リザ皇女に受け継がれる『百科の殿堂』における真理とやらはこうだ。武力を背景に得られた物を、自分たちの見たいように見、勝手に理屈付けしているだけのものでしかない。あくまで、“学術的”という衣を纏ってみせながら……」


 ここまで話しながら、「そうか」とゲルガンドは得心していた。自分ではここまで考えていなかったが、ネルヴァとの論戦で導き出された結論で彼は理解したのだ。なぜシャルメル、スヘイドが「学問」とやらを重んじていたのかということを。それは彼らの正当性を高める、すぐれて政治的な武器だったからだ。


 一方、ネルヴァの受けた衝撃はゲルガンドの比ではなかった。論戦でやり込められたということには、彼女はまったく拘泥していない。そんなことより、彼女は深刻な問題に直面していた。彼女はゲルガンドの主張をその通りだと思った。だからこそ彼女はこうまで衝撃を受けているのだ。学究の徒として自分がこれから一生を捧げて探求しようとしていた「真理」という目標がこうも虚偽に満ち、自分の期待するものに関しては全く空虚であることに。


 ネルヴァの放心ぶりに心を痛めるゲルガンドだったが、それでも、彼にはまだ彼女に言わねばならないことがあった。今まで繰り広げてきた論戦に比べれば、些細で卑近で次元の低い内容ではあるけれども。彼女のために必要なことなのだ。


「ネルヴァ殿、お分かりか。『百科の殿堂』に仕える貴女と、『百科の殿堂』に批判的な私とはかように立場が違う。このことが明らかになった以上、私たちは今までと同じように語り合うことはないだろう、と思う」

「どうしてっ」


 ネルヴァはほぼ反射的に答えた。別れを仄めかすゲルガンドの言葉に、彼女は、先ほど受けた衝撃に次ぐ、いやひょっとしたらそれ以上に強い衝撃を受けた。自分でもそれが何故なのかわからぬまま。


「どうして、考えが違うということが語り合わないということになると言うのです?」


 ネルヴァの頭は冷静に回り始めた。


「むしろ……むしろ私たちはより一層語り始める理由があるのではないのですか。考えの違う者同士で語り合ってこそ、より豊かな実りがもたらされるはず……」


 ゲルガンドは、ネルヴァのやや決まり文句のような奇麗事に苦笑しながら首を振った。


「いや。私が言おうとしているのはもっとつまらない理由ですよ」


 ゲルガンドは足を組んだ。


「もうお分かりかと思うが、私の考えはこの帝国にあっては随分と異端なものだ」

「ええ。とても刺激的でしたわ」

「刺激的……。なるほど。しかし私はこれ以上周囲を刺激するわけにはいかぬ。皇位継承権第二位にある男。母親も王族である由緒正しい血筋。初代皇帝トゥオグルそっくりのこの容姿。ただでさえ、私はいつ皇帝位を簒奪するかと警戒されている。ましてや貴女に披露したような過激な思想の持ち主とわかったら、私はこの帝国に居場所がなくなってしまう」


 彼は卓より茶器を取り上げたが、茶はもう無くなってしまっていた。しかし、この部屋の持ち主はそれには全く気付いていないようだ。茶器を素っ気無く卓に戻してゲルガンドは口を開く。


「私がリザ皇女の婚約者と内々に決まっていることは……?」

「噂は耳にしております」


 そう答えた自分の口に、苦いものが拡がるのにネルヴァは当惑する。


「私だって命が惜しい。皇女の夫となればこの身は安泰だ」

「そんな……そんな理由で……。貴方は保身の為にご結婚なさると言うのですか?」

「そう、私は実は小心者だ。すぐれた軍人というのは小心なものだ。なんとしても生きていきたいと願わねば、死地から戻ってくることはかなわぬ」


 ゲルガンドは自嘲の笑みを浮かべた。


「貴女が男性であれば良かったのだが……。残念ながら貴女は女性だ。たとえ貴女との間に友情しかなかったとしても、女性である貴女と親しげにしているのが人目に立つようになると困る」


 だから――。ゲルガンドはそっとネルヴァから目を逸らして、用意してきた最後の台詞まで一息に明かした。


「今までだって気にしていたのだ。女性研究官と私が親しいということが人の目に触れぬように。私の周囲は、大学府の研究官ネルヴァなる人物は壮年の男性だと思い込んでいる。私もそれを正したことはない。しかし、貴女が実は女性だといつ明らかとなるかわからない。それはまずい。貴女とはいつかは距離を置かねばならなかったのだ。近々、皇女は十四歳になる誕生日を迎える。それを機に、私との婚約の話ももっとはっきりとしたものになるかもしれない。親しい女性が居るなどという噂がたっては私は困るのだ」

「…………」


 ネルヴァは呆然とゲルガンドを見ていた。この男は一体誰だろう? この保身に汲々とする卑小な男は。いつもの自信と知性に満ちたゲルガンド将軍はどこへ行ってしまったのだろう。


「それでは、失礼する」


 ゲルガンドは立ち上がった。ネルヴァは虚ろな目で見上げるだけで、自分は椅子から立ち上がろうとしなかった。


 ゲルガンドはそのまま彼女に背を向け、部屋を出た。扉を開け、外に踏み出すときに肩越しに振り返りネルヴァを見た。彼女は相変わらず座ったまま、驚きと哀しみを顔に張り付かせてゲルガンドを見ている。


 何か言い繕いたい気持ちを、少なからぬ意志を以って押さえつけて、彼は目を逸らし部屋から外へ出た。


 夕暮れ近く、誰もいない廊下はいつもより薄暗く、殺風景だった。これから自分の生活は味気ない、砂を噛むような毎日となるだろう。


 ――だが、これでいいのだ。


 彼は歯を食いしばりながら、纏わりつく虚無感を振り払うように歩き始めた。




 皇女の部屋は、女達の嬌声でいつも賑やかだった。ことに、誘っても滅多に姿を現さぬ客が来ているとなれば、なおさらのことだった。


「ねえ ゲルガンド様」


 皇女の声にゲルガンドも皇女を見た。彼女は、侍女の誰かに仕込まれたのか、扇子で口元を隠しながら妙に科を作って見せている。まだ十三歳の子供には全く似合わぬその仕草に、ゲルガンドは今日何回目になるかわからない溜息を吐いた。


「何か? リザ皇女」

「とっても面白いお話がありますのよ」


 皇女は心底可笑しそうに笑い、いかにもとっておきの話だという風に話し始めた。


「侍女頭のトゥルチときたら、今朝私の茶に砂糖と間違えて塩を入れようとしましたの」


 ゲルガンドは、これに何か続きがあるのかとその先を待った。けれど、ここで皇女を取り巻く侍女たちが一斉に笑い出す。きゃっきゃっと囃し立てる侍女たち。そのトゥルチだろうか、真っ赤になって何か言い返している年嵩の侍女。 賑やかきわまりないが、ゲルガンドの気持ちは沈んでいく。


 これが皇女のいう「面白いお話」の一部始終であり、ここが笑うべきところだと分かっていても、呆れた気分の方が先に立ってしまう。ネルヴァと交わす、知的で快い談笑と比べて、この皇女たちに強いられるやりとりは何と幼稚なものだろう。


 自分の話に笑わぬゲルガンドを、リザ皇女は苛立ちを隠しきれない様子で見ている。口元を扇子で覆って顔の下半分を隠していても、彼女の眉根が寄せられている。それに気付いたゲルガンドは話題を変えた。


「そういえば、皇女は近々十四歳の誕生日をお迎えになる。何か贈り物を差し上げようと思っているのですが、何がよろしいですか?」

「そうねえ……」


 皇女はころりと機嫌を直し、顎に指を当てて思案して見せた。実はこれは皇女にとって中々の難問だった。何せ彼女は欲しいものは何でも持っていたのだから。


 いや、本当は彼女は彼にねだるべきものがあったと言えるかもしれない。それは、彼の心である。もちろん心はねだって手に入れることの出来るものではない。もっとも、この時の皇女がそれをねだらならかったのは、そうとわかっていたからではなく、人の心も自分の命令に従うものと思い込んでいたからだった。


「……お人形……かしら?」


 皇女は棚を指差した。人形はあらゆる文化で作られるものである。ゲルガンドも諸国の人形、それらの異同に興味を覚えることはある。しかし、皇女の部屋に並んでいるのはあくまで「森の国」風の可愛いばかりの人形だった。


「そう、人形がいいわ! 黒の瞳と黒の髪の!」


 皇女は胸の前で指を組み、目を輝かせて言った。


「皇女様、黒い瞳と黒い髪の人形は……」


 年嵩の侍女トゥルチが嗜めるように言う。


「黒い瞳と髪の人形に何か差し障りでも?」


 ゲルガンドは尋ねた。確かに棚に並ぶ皇女の手持ちの人形に黒いものはない。トゥルチが説明した。


「トゥオグル帝に不遜だから、ということで父帝さまが避けるよう仰って……」

「でも、もういいじゃない。私はトゥオグル帝とそっくりのゲルガンド様と結婚するのですもの。お父様もお許し下さるわ」


 リザ皇女はこれに、さりげなく続けて言った。


「私とゲルガンド様とが結婚すれば、きっと黒い髪と瞳の子供が産まれるわね。今からその赤ちゃんのようなお人形があったら、将来の練習になるわ」

「まあ」


 侍女たちのホホホという笑い声が細波のように拡がる。


「皇女様ったら、お可愛らしいことを仰る」


 ゲルガンドはその中で独り困惑していた。


 確かに、夫婦になれば子が産まれるだろう。いや、産ませなければならないのだ。夫婦としてそれ相応の営みをして。


 ――こんな少女と?


 一瞬、彼の脳裏に大降りの白い花の姿が浮かんだ。ティードリーアに持ち帰った小柄の方ではない。ネルヴァに渡したあの白い花だ。あの肉厚な花弁を指でなぞったその感触を思い出した刹那、彼の体を震えが駆け抜けていった。甘やかで官能的な震えが。


 彼は息を深く吐いて身体を鎮めた。部屋の中では皇女を中心に侍女たちがきゃあきゃあとはしゃいでいる。今は黒髪に黒い瞳の人形に似合う服の色目に付いてお喋りを繰り広げているようだ。彼の身体は未だ官能の続きを欲しているが、この部屋にあっては悲しいほど場違いで、やがて炎のようだったその熱も次第に冷めていった。


「私はそろそろ失礼する」


 ゲルガンドは立ち上がった。苛立ちを極力押し殺したつもりだったが、成功した自信はない。けれども大丈夫だろう。彼が皇女の部屋を辞すときは大抵こうなのだ。いつも彼女の少女趣味に耐えかねて彼は退出するのだから。


 実際、唐突なゲルガンドの退場に、皇女も侍女たちも慣れっこになっており、さっと立ち上がって彼の辞去の言葉を受けた。リザ皇女も鷹揚に答える。


「ごきげんよう、ゲルガンド様。今度からもっと頻繁にいらしてね」


 ゲルガンドがここでどう過ごすかよりも、自分の部屋を訪ねる回数を気にしているかのような口調だった。


 ゲルガンドは一礼したのみで、無言で踵を返し、振り返りもせず、さっさと自邸に帰っていった。

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