「花冠の儀式」
ゲルガンドがシードウの花束を抱えて自邸に戻ると、館の玄関で、やはり外出から戻ったばかりらしいティードリーアと一緒になった。彼女はアチェと出歩くときはいつも略式の軍装をしており、今もその服装からしてアチェとの外出の帰りであるようだった。
ティードリーアはゲルガンドに挨拶をしようと口を開きかけたが、その際、彼の手の中にあるシードウの花束に気づいた。そして目を見開き、無言でその花束を凝視している。
「やはり故郷の花は懐かしいものなのかな、ティードリーア」
ゲルガンドの声に、ティードリーアははっとした様子で、彼の顔を見た。
「も、申し訳ありません。驚きのあまりゲルガンド様にご挨拶もせず……」
「君はもう私の娘なのだからそんなに気を使わなくても構わないのだよ、ティードリーア。それよりも、この花は今の君にとって重要なものなのだろう? ワレギアではこの花で編んだ冠をかぶることで、成人の女性となるという」
ティードリーアは更に大きく驚いた。
「何故それをご存知なのです? いや、それよりどうしてその花を手に入れてこられたのでしょう?」
「『百科の殿堂』の植物学研究室を預かるネルヴァという方が、ワレギアの文化についてご存知だったのだ。君がそろそろ年頃だから入用なのではないかと思って、付属農園から分けて下さったのだが……」
ゲルガンドは言葉を切って、真面目な顔でティードリーアに尋ねた。
「何故そう言ってくれなかったのだ? 私はガルムフのためにもきちんと親代わりを務めていくつもりだ。そんな大事な儀式なら、遠慮なく私に言ってくれれば良かったのに」
「有難うございます、義父上。ただ私の方も新しい生活になれるのに気をとられていて……。忘れていたわけではありませんが、つい先延ばしにしておりました。それから……」
その先を言いよどむティードリーアにゲルガンドは先を促した。
「それから?」
「私の場合、特別な事情があるのです。白いシードウの花冠をかぶる儀式のことを『白の儀式』というのですが、私の場合、白の儀式を行うと、それと同時にワレギアの巫女の役割を母から受け継ぐことになるのです。これを『巫女継承の儀式』というのですが……」
ティードリーアはゲルガンドに困惑を隠さずに言った。
「ゲルガンド様は、皇族であり、『河の信仰』の守護者でいらっしゃいます。なのに、義理とはいえその娘が異教の巫女となるのは、差し障りがあるのではないかと思って……」
「そんなことは気にしなくていい。どの国の文化も守られるべきだ。ロガイ師も、その弟子のネルヴァ氏も同じようなことを言っている」
「でも……」
「確かに、現実的には公にできないことかもしれないな。だが、別に君が巫女になったからといって、『異教の巫女』という名札をつけて外に出るわけではあるまい? この邸内でひっそり執り行えば済む話だ」
「申し訳ありません」
「謝らなければならないのは私の方だ。君の文化では大切な儀式だというのに、人目を避けて行わなければならないというのは、遺憾なことだ」
ティードリーアは深々と頭を垂れて謝意を示した。
「恐れ入ります。それからネルヴァと仰る方にも御礼申し上げてください。『百科の殿堂』で働くような身分の高い方に、そのような配慮を頂いて有難いことです」
ゲルガンドは、「身分」という言葉にひっかかりを感じた。零落したといってもティードリーアはワレギア国の王女だ。本人もそれに誇りを持っている。だから、ネルヴァの身分が高いと言ったのは、自分を卑下しているわけではない。どうもティードリーアは、ネルヴァのことを実際以上に身分の高い人間だと思い込んでいるらしかった。
「ワレギアのような遠くにある国の儀礼にまで通じていらっしゃるなんて、長らく学問をなさってきたからでしょうね」
そう言いながら、ティードリーアはゲルガンドに手を差し出した。ゲルガンドは慌てて花束を渡した。
「ワレギアからついてきた私の婆やと爺やもとても喜ぶことでしょう。これから準備にとりかかろうと思います」
ティードリーアは花束に顔を埋めて花の匂いをかぎ、懐かしそうな表情を浮かべた。
「本当に、ネルヴァ様が女性の儀礼にまでご関心をお持ちで良かった。助かりました」
「ティードリーア……」
「どうかネルヴァ様にもよろしくお伝えくださいませ。それでは失礼致します」
ティードリーアは一礼すると自室に向かってしまった。
ゲルガンドは戸惑った様子で彼女を見送った。母親の巫女の装束を受け取った時もそうだったが、どうもティードリーアは、ネルヴァを壮年かそれ以上に年配の男性だと思い込んでいるようだった。自分もネルヴァと初めて会うまで似たような勘違いをしており、ネルヴァが若い女性と知って驚いたのだから、当然の誤解だとは言える。
やはり誤解を解かねばならないだろうか。ゲルガンドは迷った。ティードリーアが未だ自分に想いを寄せているのは知っている。ネルヴァという人物が若い女性で、ゲルガンドと親しいと分かればティードリーアは要らぬ物思いをするのではないだろうか。
いや。自分はネルヴァに恋をしてはいるが、この恋は一生胸にしまっておくつもりだ。だから、なんのやましいこともないとして、機会があればティードリーアの誤解を説くべきだろう。
――やましいところのない?
ゲルガンドは自問した。自覚したばかりの恋心は、当分は治まってくれそうになかった。これが落ち着くまで、ティードリーアに対するやましさはなくならないだろう。
ゲルガンドは自室へと向かい始めた。二人が顔を合わすことはまずないし、今結論を急ぐことではなかった。いずれなんとかしよう、そう思いながらゲルガンドは今日のことはこれで終わりにしたのだった。
「花冠の儀式」を行うと聞いて、跳び上がらんばかりに喜んだのは、ワレギアからついてきたティードリーアの婆やだった。
「姫様は十五におなりなのに、『花冠の儀式』の目処が立たなくて、私はやきもきしていたんですよ。それがやっと……」
婆やはしばらく目を潤ませて感慨にふけっていたが、すぐに準備にとりかかることにした。
なにしろシードウの花束は切花であるから、これが萎れる前に行わなければならない。婆やは明日の昼に客人を招いて会食し、「花冠の儀式」を始めることに決めた。もっとも、人目を憚って行うのであるから、客人はゲルガンドの母と、友人としてアチェを呼ぶにとどめた。
こう段取りをつけると婆やは忙しくなった。館の料理人たちに、ワレギア風の料理の作り方を大急ぎで伝授したり、ティードリーアの着る儀礼用の装束を引っ張り出してきたり。
特に装束については骨をおることになった。「花冠の儀式」ではシードウの花に合わせて真っ白な衣装を着る。ティードリーアのそれもワレギア羊毛の中でも最上級のもので織られた純白のものだった。しかしながら、ワレギアからの旅からずっと今までしまいこまれていたので、畳み皺がひどい。婆やは、火熨斗を駆使して夜遅くまで奮闘する羽目になった。
次の日。婆やと、婆やの采配どおりに手伝いに走り回った爺やの努力が実り、昼には客人を招くことができるようになった。
客人の中で最初に到着したのはアチェだったが、彼女は他の客が来るまで会食のための部屋に入るのを固辞した。そしてゲルガンドとその母が姿を現すと、すぐに顔を伏せて蹲った。目に触れるのも汚らわしいとされる「浜辺の者」が、貴人の前では路傍の石のような格好を取る。これが「浜辺の者」が貴人と接するときの最敬礼だからである。
もちろんゲルガンドはアチェにそんな卑屈な真似をやめさせた。
「立って欲しい、アチェ。君は私の娘の友人、それもこうやって人目を憚るような儀式にも呼ぶことのできる大事な友人だ。ここでは私や母のことは気にせず堂々と振舞ってほしい」
ゲルガンドの後ろに立っていた彼の母も頷く。河から遠く離れた国の王族出身の彼女には、もともと「浜辺の者」への偏見は特になかった。アチェは立ち上がって一礼し、この二人に従って会食の間へと入っていった。
客人が揃ったところで、婆やに手をひかれたティードリーアが食堂に姿を現した。
ワレギアの伝統的な衣服、ストンと被る上衣を紐で括り、下衣は床まで届く長さのスカートだった。ワレギアでは男子だけでなく、女性も必要に応じて下衣は男物にしていたり、裾を短くしていても良かったから、このように裾の長いワレギアの服を目にしたのはゲルガンドも初めてだった。
婆やの手を離れて、ティードリーアは自分の席に座る。今日は自分の為の会食なので、最も上席に座る。ここで少し気恥ずかしそうな顔を一瞬見せたが、自分は儀式の主役であることも思い出して、あとは凛然と椅子につき、食卓に向かった。
純白で素朴な風合いの衣装は、ティードリーアの清純な気高さによく似合っていた。たとえ帝国府の書類上でどうなろうとも、この少女は一国の王女であるということを、見る者に思い出させずにはいられなかった。
「よく似合っているよ、ティードリーア」
とゲルガンドが声を掛け、アチェがその後ろで頷いていた。ティードリーアははにかむ様子を見せる。
ゲルガンドの母は瞳に合わせて落ち着いた赤のドレスを纏っており、服の着こなしには一家言ある性質らしく、じっくりとティードリーアの姿を見つめてから感想を述べた。
「本当に見事な着こなしですこと。簡素な白い服なのに、それだけでこんなに気品を感じさせるなんて。貴女は本当に生まれながらの王族でいらっしゃるのね。同じ白でもごちゃごちゃと飾り立ててばかりのどこかの娘とは大違いだわ」
と口にした。この「どこかの娘」がリザ皇女のことを指すのは明らかで、その場にいた者の間に軽い緊張が走る。
「ティードは軍装も似合いますよ」
とアチェが口を開き、軍でティードリーアが厳しい訓練にも毅然と耐え、訓練兵であるにもかかわらず武勲を立てた話をし始めた。アチェの機転で話題はうまく切り替わり、アチェの後は、末席に座っていた爺やと婆やが「お姫様のお小さい頃」の話題を提供して、会食は和やかに進んでいった。
一通り料理を食べ終わると、爺やがシードウの花冠をゲルガンドに手渡した。
父親であるゲルガンドが、ティードリーアにこの冠をかぶせる時、『花冠の儀式』はクライマックスを迎える。
ゲルガンドとティードリーアが立ち上がった。ゲルガンドが冠をティードリーアの頭上にかざして言った。
「成人おめでとう、ティードリーア」
ティードリーアの顔から笑みが消えた。それは儀式に対して真剣であるからだと出席者たちは思っていたが、ティードリーアは違った。彼女は自分の胸の中に思いがけない感情が生まれたことに気づいた。それは失望という名の感情だった。
――この方はもう「父親」なのだ。
それほど遠くない時期、ガルムフが健在でゲルガンドとの婚約の話が出た頃、彼の視線の中には、男性が異性を見つめる熱っぽさが、生じたばかりとはいえ確かに含まれていた。義理の親娘となってしまっても、ごく微かにそれはまだ残っていたように思う。
いずれ消えるものであるし、消さなくてはならないものだと分かっていても、ティードリーアはそれが嬉しかった。
けれども今、ゲルガンドが自分を見る目には、父親が娘の成長を喜ぶ気持ちしかない。異性を見る目ではないのだ。ティードリーアは少なからぬ寂しさとともに、ゲルガンドから冠を受けた。
客人たちから拍手が沸き起こる。ティードリーアはその音にはっとし、そして自分の役割を思い出した。彼女は胸に広がりそうな暗い気持ちを押し殺し、皆に向かってにっこりと微笑んだ。
「おめでとう。ティードリーア」
「一人前になったんだね。ティード」
「姫様が成人なさるとは感無量でございます」
口々に祝辞を述べてくれる相手に、ティードリーアは笑顔で応えていく。しばらくしてから、婆やが先を促した。
「目出度く姫様が成人となられましたところで、次は『巫女継承の儀式』に移ります」
巫女継承の儀式では、ティードリーアは一人になって天と地に、自分が巫女になると宣しなければならない。ティードリーアは謝辞を述べると、婆やとともに部屋を出た。
館の庭の中で、人目につかない、空が見えて地面になにも置かれていない場所を、婆やは見つけておいてくれていた。ティードリーアは婆やに連れられてその地に立った。婆やは彼女を独り残して立ち去り、遠くで控えている。
ティードリーアは天を仰いだ。まず彼女は地の上から天に満ちている、先人たちの精霊に声をかける。
「ヘラリア、ゴーレム」
精霊への挨拶を述べて彼女は続ける。
「私は、先の巫女の娘です。今日『花冠の儀式』を済ませて大人になりました。地上の精霊たちよ、私に貴方の声をお聞かせください。そして私が民を代弁して貴方に申し上げる言葉をお聞き届け下さい」
ふわりと風が吹き、彼女の長い群青の髪が膨らんだ。
「お父様?」
ワレギアの信仰に従えば、ガルムフも地上で風の精霊になっているはずだった。その辺りにガルムフが居るかのように、ティードリーアは話しかけた。
「お父様、ルードウでは私の危ないところを救って下さってありがとうございました。もうご心配かけないよう、武芸に励んで立派な武人になります。いろいろご案じなさるかもしれないけど、お転婆娘としては悪くない人生だと思っています。だからこれからも私を見守ってくださいね」
彼女の言葉に応ずるように、もう一度風が彼女の髪を揺らせていった。
そして彼女は視線を地面に落とし、跪いた。
「ヘラリア ゴーレム」
先ほどと同じく彼女は地中の精霊に対して挨拶をした。しかし次の言葉に詰まってしまう。過去の巫女は死ぬと地中の世界に住まい、大地の精霊となるとされている。そこにはティードリーアの母も居るはずだった。
ティードリーアは生唾を一度飲み込むと、精霊全般に話かけた。
「私は新しく巫女になりました。どうか必要なときには私にお言葉をお聞かせ下さい。そしてどうか私の申し上げることもお聞き届け下さいますよう」
彼女はそっと地面に手を置いてみた。ひんやりとした感触に胸が痛む思いをした。その冷たさが、母の叱責であるように感じたからである。
「お母様、ごめんなさい。でも私はワレギアを出るべきだったのです。私が国を去れば、確かに『精霊の信仰』は薄れていくでしょう。でも、王女として国の未来を考えればそうせざるを得ないと私は思ったのです」
彼女は両手を地面につけた。地面が相変わらず冷たい。
「ここは異教の地ですけれど、せめて私の代まで巫女を継承していこうと思います。そして……」
彼女はその先を続けることが出来なかった。自分の代が終わっても、自分は誰かと結婚して娘を産み、次の世代に巫女を継がせなければならない。それを地に棲む母に誓えるものなら誓いたかった。
「ごめんなさい。お母様。今は誰かと結婚するなんてとても考えられないの」
ティードリーアの瞳から、涙が滴り落ちた。自分の恋は終わらない。相手の方はもう終えているというのに、自分は新しい恋へは踏み出せそうにない。
ティードリーアは、心の中で思った。自分は大人なんかじゃない。手に入れられないものをあきらめることができないなんて、まだまだ意思の弱い子供じゃないか。
「お母様ごめんなさい。今は巫女を継承することまでしかできないの。お願い、どうかそれで許して」
ティードリーアが流す涙がぼたぼたと地に落ちる。地面はただただそれを吸い込むばかりで、静まり返っていた。
今の自分には母の怒りと失望を解くことはできない。もっと強くならなければ、と彼女はそう思った。花冠の儀式で大人になっても、自分の感情を意思でねじ伏せられる程強くなければ、真の意味で大人になったとは言えない。真の大人とは何だろうか――彼女は今ここでそのことを考えても良かった。けれども彼女はこの儀式では大人になれない現状を母親に詫びることしかできなかった。
彼女が自分の感情を抑えられないことを嘆いている頃、同じように自分の感情を押し殺すことを自らに課した男がいた。ゲルガンド将軍である。
ティードリーアが「巫女継承の儀式」に臨んでいる間、客人たちはしばらく歓談していた。その時、アチェがゲルガンドに一言だけ話しかけたのだった。
「ゲルガンド将軍。卑しき『浜辺の者』がお声を掛けさせていただいても宜しいでしょうか」
「もちろん」
「このシードウという花を提供してくださったネルヴァなる方は、どのような方でしょう」
「どのようなとは……?」
「ティードリーアはネルヴァという人は大人の男性だと思っているようです。しかし、もし若い女性であれば彼女の心は揺れることになるでしょう」
花に興味を寄せ、女性の儀式に関心を持ち、そしてティードに必要なのではないかと気を配ってくれるような人間。アチェは、そこから、ひょっとしたらネルヴァは女性なのだと推察することができた。そして、その女性がゲルガンドと特別な親しくなれば、ティードが深く動揺するだろうと思ったのだった。
「…………」
ゲルガンドは無言でアチェの顔を見つめた。彼女の質問の意図を正しく理解したからである。なるほどジガリの言ったとおり彼女は相当に知恵の回る人間だ、と彼は感嘆した。そして、そこにはティードリーアの良き友人としての思いやりがある。この義娘の友人に彼は誠意をこめて返答した。
「君の推察は正しい。ネルヴァは若い女性だ。気持ちの良い人柄なので、私は親しみを覚えているが……。それ以上の感情は持たないようにしようと思っている」
それからゲルガンドは今度は自分に言い聞かせるように言った。
「自分の立場は承知しているつもりだ。私はリザ皇女以外の女性に特別な感情を持ってはならないとわかっている。ティードリーアをこれ以上傷つけないよう必ずする。だから安心して貰っていい。こんな答えでいいかな、アチェ」
「はい」
アチェは痛ましいものを見る表情で頷いた。ゲルガンド将軍ほどの人物ならきっとそうするだろうとアチェは思い、それを気の毒に思ったからだった。
そしてアチェの信頼どおり、ゲルガンドは芽生えかけていた自分の恋心を摘み取ることにしたのだった。
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