白きたおやかな花

 翌日もゲルガンドは『百科の殿堂』の植物研究室を訪れた。昨日ネルヴァは、あの不快な展示物を見ずにすむように、外壁に沿って研究室まで行き来できる道を教えてくれていた。


 訪問の理由は、彼女の腕を心配してのことだった。彼の所為で、彼女は腕に打撲を負っている。それが変な風に腫れたりなどしていないか心配だった。これが部下の軍人なら気にすることもないが……。相手は書物と標本相手の仕事のか弱い女性だ、心配するのは当然のことだ。ゲルガンドはそう独り言ちながら歩く。


 ネルヴァは包帯を巻いてはいたが、至って朗らかに説明した。


「もともと大した打ち身でもありませんでした。それにここは薬草を扱うところですよ。自分で調合して腫れ薬を貼って、痛み止めを服用しております」

「それは良かった。安心した。けれども貴重な標本をそんなことに利用していいのですか?」


 彼女はくすくす笑って答えた。


「いえいえ。違うんです。大学堂の敷地の片隅に植物研究室専用の農地があってそこで栽培したものなんです。……そう言えばそちらはご案内しておりませんでしたわね」

「ええ、まだです」

「では、今から行きませんか? 今日は抜けるような青空でほんとに良い気候ですもの。ゲルガンド様はご昼食は?」

「いや、この後食べようと思っていたので」

「では、二人分何かお昼に食べるものを包んでもらって、農園まで出掛けましょう!」


 ネルヴァは楽しそうに支度を始めた。


 農園に到着すると、何人かが作業していた。軍人が着る様な、身動きの取りやすい服を着ていた。ネルヴァに気付くと手を振って寄越す。それに手を振り返しながら、ネルヴァはゲルガンドに話しかけた。


「私もあのような服を着て、農作業したり致しますのよ。鍬や鋤を振るって。その間に、尻餅をついたり、石にけつまずいて転んだり、道具を自分にぶつけたりするものですから、腕に痣が出来たことなどしょっちゅうあります。どうか元帥にはご心配なく」


 ゲルガンドも愉快そうに返した。


「つまり、貴女はいつも『うっかりもの』だから?」

「ええ、そうです。うっかり者でおりますから……」


 二人は声を合わせて笑った。秋の涼やかな軽い空気の中を転がっていくような、澄み切った笑い声だった。


 二人は昼食の包みを広げた。ブロッケという小型パンに肉の燻製を挟んだものが二つと、「森の国」で親しまれているトランという柑橘類とが中にあった。気取らない食事で、ゲルガンドはほっとした。遠征にでも出ていない限り、ゲルガンドにはいつも仰々しい食事が運ばれているからである。


「あ……」


 ネルヴァが声をあげた。


「何か?」

「私は本当にうっかり者ですわね。ゲルガンド様はよく考えたら、いえ、よく考えなくっても元帥様でいらっしゃるのに。こんな風なお食事にお誘いするなんて、私、ひょっとしたらとても失礼なことをしてしまったのではないかしら」


 いや、とゲルガンドは心から否定した。


「私は軍人だ。行軍中は食事なんて構っていられない。粗末なものを食べるし、場所だって……」


 血の匂いのする場所で摂ることもあるのだ、と言いかけて彼は言葉を飲み込んだ。食事時に淑女ーの前でする話ではない。彼は話題を変えようとした。先程から甘い香りがするのが気になっていた。


「それより、なにか良い匂いがするようですが、花か何か咲いているのですか?」

「ああ、あちらに生えているビスカナの花の香りが風に乗ってきているのでしょうね。お気に召したら何本かどうぞ。ただ、こちらで栽培しているのは茎や根、葉にも何か効用はないかと調べるためです。ですから、お部屋に飾るのでしたら、皇女様専用の花畑があるのでそちらの方がよろしいかと存じます。あちらは装飾用に、不要な蕾や葉を摘んで花を大きくするよう栽培しておりますから」

「いや、ここで楽しむだけで結構ですよ、ネルヴァ殿」


 ゲルガンドはネルヴァが指差した方を見ながら言った。確か皇女の部屋に豪勢に飾られていたのがこの花だったような気がする。そしてこちらの方は同じ花でも小ぶりに見える。


「ここで微かに漂う香りと、慎ましやかに咲く花を愉しむ方が、私には向いている」


 実際彼は皇都にありながら、まるで旅を愉しむように、愉快な気持ちがしていた。リザ皇女の部屋はもちろん、自室にいる時よりも彼は寛いでいたのだった。



 この日以来、彼は何度もネルヴァの研究室を訪れた。元々ゲルガンドは仕事柄、薬草などの情報が必要な立場だ。また、ロガイ師とはなかなか馬が合った。それで、植物学研究室には以前からよく通っていた。会う相手がロガイ師からネルヴァに代わっただけのことだ。そうゲルガンドは考えていた。


 たまに、彼は旧研究室でロガイの愚痴を聞いた。ロガイは「百科の殿堂」を賞賛するのに、新しい研究室には滅多にこなかった。


「ワシもあちこち旅をして草花に詳しいつもりでいたがそうでもなかったんじゃな。あの展示された膨大な標本類を見るたびに、私の時代は終わったと思ってしまうんじゃ」

「皇帝の命令ですから。帝国中の草花だけでなく諸国の様々なものについて、『百科の殿堂』に納めるよう、そういう仕組みになっております。それで、一気に標本数が増えて覚えづらく感じるのかもしれませんね」

「ワシの記憶力も確かにガタが来ておるが、私が自分の頭の古さを感じるのは別のところにある」


 ロガイはそう言いながら両の掌の上で湯のみを回した。それを見て、ゲルガンドも自分に出された香草茶を飲む。ネルヴァが入れてくれる清冽な香りではなく、秋らしいといえば秋らしいけれども、どこか寂しい匂いのする茶だった。


 ロガイは湯飲みを回しながら、しばらく言葉に詰まっていた。まだ考えが纏まらないようだが、ゲルガンドを自分の沈黙に付き合わせるのも悪いと思ったのか、ぽつりぽつりと話始めた。


「上手く言えるか分からんが……。私にとって草花を知る、というのは植物だけの知識を得るというのとは少しばかり違うもんなんじゃよ」


 ゲルガンドは無言で頷き、続きを促す。


「草花というのは、人々にとって身近なもので、暮らしのあちこちで使う。食べ物にしたり、薬用にしたり。そしてまあ毒薬にも使う。薬と毒だけでなく『まじない』にも使うこともあるな。ともかく、植物を集めて旅をすると、そういう人々の暮らしについての知識も自ずと備わってくるものじゃよ」


 これにはゲルガンドも深く頷く。植物を刀剣類に代えて考えてみれば、彼も似たようなことを感じる話だ。


「草花がその地域の文化でどういう意味を持つか――。食用か、薬か毒か、儀礼に使うのか。――そう、特に薬か毒かについてなどは大切なことだ。同じ植物が、量や加工法次第でそのどちらにもなり得るのだからな」


 これは重要だ、とロガイは繰り返した。


「植物とともに、ワシは諸国の文化全体についてもいささか理解する力もついた。薬とするか毒とするか、その善悪についての諸文化の倫理観も学んできたように思う」


 ここでロガイは窓の外の「百科の殿堂」を見た。


「あの殿堂には大量の植物が集められている。けれども、どれもこれもみんな同じ『標本』だ。その植物の背後にある人々の暮らしなどお構いなしに、葉や茎、花の形状やら効用やらで分類する。そこじゃよ、私が危なっかしく思うのは」

「危なっかしい、とお感じなのですか」

「何と言うか……地に足がついていないような気がするんじゃよ」


 ロガイは視線を窓の外から、ゲルガンドの顔に真っ直ぐに向けた。


「何でも揃っている『百科の殿堂』だが、たった一つ欠けているものがある。一体その研究をして、何をするのかという視点が欠けているのだ。研究の結果、我々は何をするべきなのか。研究の結果はいつか民に返してやらねばならないが、彼らの目には民のことなぞ全く映っていない」

「自分たちにとって珍しいから並べている、という感じですね。今のあそこは」


 ゲルガンドはティードリーアの母親の衣装を思いだした。あれに手を通した女性のこと、「精霊の信仰」と「河の信仰」の間の凄惨な争い、その狭間に揺れ動く人々。ワレギアの民のことを考えたら、「珍しい」という感情がいかに不謹慎か、あそこに居る者にはわからないのだろうか。


「私もあの殿堂には違和感を覚えていたのです」


 ゲルガンドはワレギアの衣装の話をした。


「ワレギアの件は、自分自身の義娘も関わる話ですのでひとまず置いておくとしても、それでも私はあの展示室という空間を受け付けることができません。ゆっくり見ることもできませんでしたが、諸王国の宝物が、『未開の信仰』を展示するために、あの部屋に飾られていました」


 ゲルガンドは眉を顰め、心底不快そうな顔をした。


「どの国にとっても、大切で神聖な至高の宝物を、ただ見世物にするためだけに皇都まで運ばせる。その時、民がどれだけ心を痛めるのかわかっていない。なんと傲慢なのかと私は憤りを感じずにいられない」


 ふう、っとロガイは息を吐いた。緊張の取れた顔をゲルガンドに向ける。


「皇帝の従兄弟にして、皇女の婚約者である貴方がそうお考えであるのは誠に安堵しました」


 そしてゲルガンドに、改まった口調で頼んだ。


「あの『百科の殿堂』は、先代のシャルメル帝、現在のスヘイド帝親子の肝いりの事業。おそらく皇女も即位あそばされたら、せっせと蒐集品を増やすことでしょう。その際にはどうか、諸国の民のこともお考え下さるよう、ゲルガンド将軍からもご進言願いたいのです」

「……私の意見がどこまで通るかわかりませんが。皇女には、諸国の民の気持ちを考えることが皇帝の課題なのだとご理解していただこう。そのためなら私の微力を尽くそう」

「良かった――ゲルガンド将軍、貴方からそのようなお言葉が聞けて良かった」


 この後、ロガイは意外な人物の名を挙げた。


「手始めに、というわけではないが。ネルヴァ……」

「ネルヴァ?」


 急に彼女の名前が出て、彼は驚く。それだけでなく、自分の驚きようにも驚いた。何故自分の頬を熱く感じるのだろう。


「ネルヴァは賢明ではあるし、思いやりも備わっている。しかし、若いせいか好奇心には負けてしまう。ワシが『百科の殿堂』に感じるものを今のところ理解できていないようだ。貴方の口から説明してやってくれまいか」

「え、ええ……」

「ネルヴァは賢明な人間だ。彼女なら浅い知識を溜め込むだけに終わらず、その先の問題、研究とは何かとい根源的な問いにまで踏み込んで考える力がある」

「ええ……。それはまあ。自分に出来るだけのことはしましょう」


 ゲルガンドは自分がどうしてそんな歯切れの悪い返事しかできないのか、自分の心の動きを不審に思いながらロガイ師の部屋を出た。



 ある日ネルヴァの部屋を訪れたゲルガンドは、珍しいものを見た。


 ネルヴァは不在で、ドアをノックしても返事がなかった。しかし扉は開いていたので、ゲルガンドは時々そうするように、勝手に中に入った。


 ネルヴァの部屋は書物や資料、標本で一杯だったが、それらは整然と棚に並べられていた。その代わりに天井までとどく本棚がぎっしりと部屋を囲んでいた。そのため窓が塞がれてしまって中が薄暗い。ただし、一箇所だけ本棚に塞がれていない窓があり、そこからは秋らしい透明感のある光が、彼女の机の上を明るく照らしていた。


 そしてその明るい机上に、白い花が数本花瓶に活けられて置かれていたのである。まるで不在の主の代理であるといった風に。


 花は、真っ白な小船のようなやや肉厚な花弁が五枚、星のような形に開いている。大きさは人の掌くらい。茎は意外に細く、すらりと背の高い葉が茎に巻きつくようにして花を支えている。葉の濃い緑色が、花弁の純粋な白を引き立てており、そのコントラストが瀟洒な印象を与える花だった。


 ――美しい花だな


 ゲルガンドが花を見て美しいと素直に思ったのは、これが初めてだった。そしてその美しさに一人の女性を重ねずにはいられなかった。


 ――まるでネルヴァのような。


 ゲルガンドは白い花に手を伸ばした。その白く輝く花弁の縁を指先で何度かなぞった。まるでそれが何かとても大切なものであるかのように。


 その白い花は確かに彼の瞳に映っていた。けれども、彼の脳裏に浮かんでいるのは別のものだった。頭脳明晰で茶目っ気のある、朗らかな女性研究官の姿。彼は彼女の影をただ無心にじっと見つめていた。


 暫くたって、彼はふと花弁をなぞるのをやめ、指先を花から名残惜しそうに離した。そして深く長い、震えるような溜息を吐き出した。女性を花に擬した自分の心の在り様に対する微かな驚きと、彼女を想う大きな喜びと、それに勝るとも劣らぬ哀しみとが彼の胸の中で渦巻いていた。


 ――これが恋というものか。


 彼女を想う喜びのなんと甘美なことか。ずっと見つめていたい、触れてみたい――この願いのなんと狂おしいことか。


 今ならスヘイド帝の気持ちもわかるような気がする。そうゲルガンドは思った。自分もこの幸福を逃したくなどない。


 しかし、スヘイド帝を思えば、自分が彼の結婚に対して下した評価を思い出さざるを得ない。スヘイド帝は皇妃にすべきでない――スヘイドにとっても、ペイリンにとっても――女性を皇妃にしてしまった。結果、諸国の王との関係が悪くなり、宮廷も皇帝派と親ゲルガンド派の溝が深まり、ペイリンの人生は最悪の結末を迎えてしまった。


 ゲルガンドはもう一度息を吐いた。自分は皇族なのだ。その立場を守るよう結婚相手には慎重を期さなければならない。ましてや今の自分は皇女の許婚なのだ。恋する自由など、この自分にはないのだ――。

この時。ばたん、と扉の開く音がした。


「まあ、ゲルガンド将軍いらしていたのですか。お待たせしてしまったでしょうか」


 いつもの朗らかな声と明るい笑顔のネルヴァだった。ゲルガンドは眩しいものを見るかのように、少し眼を細めて彼女を見た。彼女は、沢山の花の束を両腕一杯に抱えていた。こちらも花も色は純白だったし花の形もよく似ていた。しかし大きさがずっと小さい。


「ネルヴァ殿。貴女と以前お話した時には、自分は花を研究するのは楽しくても、部屋に飾る趣味はないと言っていたはず。だのに今日は随分と花を持ってこられる。どうかなさったか? 花の色は全て白だが、ネルヴァ殿は白い花がお好みか?」

「いえいえ、私の好みというわけではないのです」


 彼女は卓上の花瓶から大きな白い花を取り出し、自分の抱えてきた小さな白い花の束をそこへ活けた。


「これは、ゲルガンド様のお嬢様のためのものですのよ」

「お嬢様? ということはティードリーアに?」

「ええ。ワレギアでは女性が十五歳になったら、『花冠の儀式』というのを行うのだとか。その儀式にこの花が必要なのです。ひょっとして、もうお済ませになりました?」

「いや。そのような儀式があること自体知らなかった。一体どういう儀式なのです?」

「私が書物で調べたところによると、女性の成人儀礼の一種ですね。この白い花、名前をシードウというのですが、この花で冠を編んで被り、ワレギアの伝統衣装をつけて成人を祝うのだそうです。その儀礼を済ませると少女から大人の女性として扱われるようになるのだとか」

「知らなかったな。ティードリーアも何も言ってこないし……。単に忘れているのか、私に遠慮したのか……」

「ゲルガンド様もご存知なかったのですね。私もロガイ師に『標本だけでなく、諸国の文化も知っておかなければならぬ』といつもお説教されていて。それでワレギアのことを調べていたら、この儀式の存在を知ったのです」


 ネルヴァはここで花束をゲルガンドに差し出した。


「ティードリーア姫様も、故郷を離れてお寂しいことでしょう。このシードウの花は差し上げますから、どうかお使い下さいな」

「そのシードウという花はどこから?」

「こちらは植物研究室の畑から。野草に近い種で丈夫な花です。こちらでも逞しく沢山花を咲かせていましたわ」

「そちらの大きい方の白い花は……?」

「ああ、そちらは」


 ネルヴァはちょっとした苦笑を浮かべて説明した。


「儀式に使うのだから、見栄えのするのが良いかと思って、皇女様専用の花畑から何本か貰ってきたのです。あちらではシードウの花を園芸用に改良しているところなんだそうです。だから花が大きいのですけれど」


 ネルヴァはここで肩を竦めた。

「貰って来たのはいいものの。この部屋に帰ってきたら、こんなに花が大きいと花冠は作り難いと気がつ

いて。それで植物学研究室の花畑に行って野生種のシードウを摘んできたんです」

「その留守中に私が来たわけか」

「そうです。あの、良かったらこちらの園芸用のもお持ちになって下さいな」


 差し出された大きな白い花を、ゲルガンドは一度受け取ってから、今度は逆にネルヴァに差し出した。


「いや、この花は貴女に。貴女の研究室は殺風景すぎる。是非これを飾るべきだ」

「あら、私はこれくらい飾りっけの無い方が落ち着きますのに」


 ネルヴァはそう言ったが、ゲルガンドはもう一度差し出し、ネルヴァもそれ以上は拒まずに受け取った。

 そしてゲルガンドはネルヴァの研究室を辞した。心の中には寂しさが棘のように刺さっている。本当は、彼女にもっと別なことを言いたかった。あの白いたおやかな花をネルヴァに渡すとき、普通の男性が女性に花を贈るように、もっと甘い言葉を添えたかった。彼は自邸に戻るまで、寂しさを溜息に込めて吐き出したが、心は晴れなかった。


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