百科の殿堂
遠征から戻ってから、ティードリーアとゲルガンドは、時折ゲルガンドの母を客として迎えながら、「森の国」の自邸で過ごしていた。その間、ティードリーアはアチェと出歩くことが多かった。ゲルガンドも皇軍関係の仕事で忙しく過ごしていた。
この日、ゲルガンドは、毒草・薬草の知識を求めてロガイ師を訪れるところだった。ロガイ師というのはこの手の知識の専門家だった。
はじめは遠征途中に知り合ったゲルガンドが、個人的に教えを受けていただけだった。やがてスヘイド帝が大学府を整えるにあたって、ゲルガンドがロガイを教授に推薦した。したがって、ゲルガンドは大学府のロガイ教授の研究室へと足を運ぶことになったのだ。
大学府は大規模な建物群だった。鬱蒼とした森も、建物群に押しのけられるようにして伐採されている。「森の国」の中で、ここほど森に空を塞がれていない開放感に満ちた空間は他にないだろう。
もっともここではいつでも何かしらの建物が工事中であり、多くの人々が出入りするので、落ち着かない感じがする。そのためか、ゲルガンドはロガイ師の研究室に間違いなくたどり着くのに少々手間取ってしまった。
「遅くなってしまって申し訳ない、ロガイ師」
皺だらけの老人が立ち上がった。背が低く、白髪を総髪にして、くすんだ草色の目に常に好奇心を湛えた人物だった。そして皇軍にとって、ロガイ師は貴重な人材だった。何しろ若い頃に諸国を旅で回り、様々な植物をその目で見ているからである。
「河の信仰」では、人は原則旅をしないことになっている。「命の滴」は「海の源流」から河にのって運ばれ、その先で母親の胎内に宿る。その運命は聖なるラクロウ河によって定められたもので、それに反して居住地を変えることは忌むべきこととされるのだ。
ロガイ師はもともと北方の小国の出身者だった。彼の若い頃は、いまだ北方の諸国は帝国領となっておらず、「河の信仰」に拘束されることもなかった。その間に、彼はあちこちの国を放浪し、旅先で得たあらゆる植物についての知見を記録していたのである。
「ロガイ師。お久しぶりです。さあ、また今日も何か新しい薬草がないかお尋ねしに参りましたよ」
「おお久しいのう、ゲルガンド将軍。さあてこちらも前回の遠征で貴方の見つけた草花の知識をお聞きするのを楽しみにしておりましたぞ」
遠征の度に、ゲルガンドは近侍に草花の標本をつくらせ、これをロガイ師への土産に、研究室を訪れるのだった。
「今回は荒地を行軍することが多くて……。大した蒐集は出来なかったのですが」
「そうじゃな。もう帝国は目ぼしい国はたいてい版図に治めてしまったからのう。もうそうそう珍奇な草花というのにはお目にかかれないやもしれぬ」
そう言いながらロガイ師は窓の外を見た。つられたゲルガンドも、ロガイ師の見ている物を見た。大きな、丸屋根のドームを中心とした巨大な建物だった。
「これからは、発見より分類の時代なのかもしれんのう」
「分類、ですか?」
「ほれ。あそこに一際大きな建物が造られているだろう」
「ええ。本当に大きな建物ですね」
「あそこには帝国中の万物が納められている。あらゆる草花、あらゆる鉱石、あらゆる布、それにあらゆる刀剣もある。衣類や食物についてなどもその様子が記録、再現されておる」
「そうですか」
ゲルガンドはさして興味の無い風に答えたが、ロガイは違っていた。
「あれは凄いものですな。まさに帝国の威風を示す……。もうワシのような、自分の足で回って見聞が広いだけの薬師にはとうてい真似が出来ん。帝国が諸王国に命じて持ってこさせた品々じゃ。量といい質といい、個人で出来ることを超えている。ワシの役割も終わりじゃ。帝国は、あの『百科の殿堂』と若い研究者達とでこの世の森羅万象の真理を手に入れることじゃろうて」
「『百科の殿堂』というのですか? あの建物は」
「そうじゃ。今日は将軍をあそこへお連れしようと思ったのだが、この間から研究室の引越しで腰を痛めてしまってな」
「引越し?」
「そう、私もなんとかあの殿堂の一員に迎えて貰えましてな。研究室をあちらに構えることになりましたんじゃ。今、私の助手があちらの方におります」
ロガイは外の空を見て、今日はまだ時間があることを確かめるとゲルガンドに勧めた。
「将軍、『百科の殿堂』に行ってみてごらんなされ。ワシは案内できないが、あちらにワシの助手がいる。ゲルガンド将軍が今日おいでのことは伝えているから、向こうの新しい研究室も覗いてこられるといい」
「はあ……」
「『百科の殿堂』には、刀剣類などもございますぞ」
ゲルガンドは苦笑して立ち上がった。確かに刀剣類のコレクションというのは興味深い。
「助手の名はネルヴァという。私の故国の言葉で『賢者』という意味じゃ」
部屋を出るゲルガンドに、ロガイは言い添えた。この老学者には学生達に名前を与える習慣があるのだが、「賢者」の名を与えるとは相当優秀な学生なのだろう。ゲルガンドはそう思いながら老師の下を辞した。
『百科の殿堂』は壮大な建物だった。古の帝王が建造した、式典の為の大会堂をも凌ぐほど、威風堂々としていた。ただ、大会堂が天上の世界を思わせるような壮麗なつくりならば、こちらは地上の権力を誇示するような、そんな厳しさが漂う。
玄関の間の左隅に小部屋があった。人が何人か出入りしている。ゲルガンドがそのうちの一人に声を掛けた。
「済まぬが、植物学研究室まで案内して欲しい」
ここで働いているらしき文官用の裾の長い黒服を着た男は、ゲルガンドが誰かすぐ分かったようで、恭しく頭を下げて言った。
「これはこれは、ゲルガンド元帥。よくお越しになられました。私が案内申し上げましょう」
そうして彼はゲルガンドを促し、二人は広々とした陳列室へ足を踏み入れた。
「植物学研究室は比較的奥の方、目立たぬところにございます。初めての方がお一人では分かりづらいところです。いやあ、私がこのようにゲルガンド元帥の案内役が出来るとは、誠に光栄の極み」
男は口数の多い男で、ゲルガンドが何も尋ねても居ないのにべらべらと自分から話し掛けてくる。お陰でゲルガンドは先ほどから胸に湧き起こる、自分の中の違和感についてうまく考えを纏めることができない。
刀剣の展示室で、やっとその男は黙った。武人のゲルガンドならじっくりと見たがるだろうと遠慮したものらしい。
ゲルガンドは長さや用途によって分類された数々の刀剣類の陳列ケースを見渡して軽く首を振った。確かにロガイ師の言うとおり、帝国中のほぼありとあらゆる刀剣が揃っていると言っていい。あちこち実際に遠征した彼は、その殆どに見覚えがある。が、しかし――。
――何か、おかしい。
例えば同じ短い刀剣だからという理由なのだろうけれども、南方の小刀の隣に、北西地方特有の突き刀が並んでいる。長いもの、という分類のせいか、北方奥地の槍と東方の一部地域で使われる払い刀が一緒にされている。
刀剣をはじめ、道具というのは、それが使われる地域の暮らしや美意識が反映されるものだ。まず何のために利用するかで形状が異なる。獣から身を守るための刀剣でも、相手の獣によって形が違ってくる。また身の回りに帯びるものなら何がしかの装飾が施されることが多い。要は、道具とはその地域の文化の中で捉えられるべきものなのである。
それなのに、ここに山ほど並べられている刀剣は、あくまで帝国からみた分類に拠っているだけで土地の文化とは全く関連が無い。ただ帝国が観察しやすいように秩序立ててあるだけなのだ。
――架空の軍隊だ。
南方、北西地方、北方に東方などあらゆる地方の刀剣をごちゃ混ぜにして備えている軍隊など存在しない。どの国もそこで生まれた武具で揃えている。近い地域はお互い影響を与えあって似通うことがあるけれども、この陳列室ほど無秩序に並存することなど決してない。そう、実際の戦場を闘ってきた彼にとって、この一見秩序だって見える類は、あくまで帝国側の架空の秩序でしかない。
ゲルガンドは何となく馬鹿馬鹿しい気持ちになり、案内役を促して先へと進んだ。そして、今度は別の陳列室に足を踏み入れたのだった。
そこには刀剣類の部屋に比べると、雑多な品が置かれていた。部屋の入り口には「未開の信仰」という文字が刻まれていた。ゲルガンドは、『未開の』という言葉に不快感を覚えながら足を進めた。
後ろから案内役がやや興奮気味に話しかける。
「この部屋は『未開の信仰』に関する珍しいもので一杯なんですよ。ほら、あの赤紫の玉ご覧下さいませ。あれを献上させるには帝国側も苦労したんですよ」
ゲルガンドはその宝玉に近付いた。まさか、と思いながら。玉の横に添えられている解説板には、ゲルガンドと親交のある国の名が記されている。
南方のシシー王国。そこの老王と彼は親しい。そこではこういう赤紫の宝石が採れる。シシー王朝の創成期、瑞祥だったのか、普通の宝石とは桁違いに大きな宝石が採れたと言われている。伝聞でしか明らかでないのは、その宝石が国の宝として王宮の奥に眠っているからだ。
その宝玉には不思議な力があり、雨が降らなかったり、地が震えたり、そんな災害が起こったとき、王がその宝玉を磨けば、その災害は治まるのだという。
そして、その宝玉は王宮の最奥部の祠に納められ、王の他には誰の目にも触れることはない。シシーの王国にとってそれほど大切なものだからだ。
シシーの老王はゲルガンドを随分気に入ってくれたけれども、決してこれを見せようとはしなかった。それ以前にゲルガンドの方が、シシーにとってそれほど重要なものを、自分の好奇心だけで見せて欲しいと思うあつかましさを持って居いなかった。
「珍しゅうございましょう?」
案内役の男が軽い調子で話しかける。
「この宝玉は最初ここまで綺麗な球体ではなかったそうですよ。長い間少しずつ磨き込まれてここまで真球になったのだとか」
綺麗なもんですなあ、という間延びした男の声を聞いて、ゲルガンドは苛立ちに突き動かされるように振り向いた。
「君は――君たちは、真球になるまで石を磨いて民の安寧を願ってきた歴代の王の真摯な態度に心打たれることがないのか! これはシシーの宝として王宮の奥深くに秘されるべきものだ!」
ゲルガンドが怒鳴った。男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。ゲルガンドの怒りが理解できないのだ。
そして、その男の方に振り向いたゲルガンドは、男の肩越しにさらに衝撃的なものを見つけたのだった。
ワレギアの伝統的な布でできた着物が衣装掛けに着せられている。ワレギアの手織物でもあれほど手の込んだものは滅多に見なかった。その衣装には赤黒い大きな染みがあった。
――まさか。
ゲルガンドは急いで駆け寄った。
「ああ、そちらはゲルガンド将軍にも関係あるものですね」
相変わらず男はゲルガンドの受けている衝撃が理解できていなさそうな口調で言った。
「ゲルガンド将軍を暗殺しようとした、先の王妃が処刑時に着用していたものですよ。異教の巫女として、この巫女の衣装を着て刑に臨んだとか。血糊べったりで、せっかくの珍しい模様が損なわれていて残念です」
ゲルガンドは激昂するままに大声で叫んだ。
「この衣装をすぐこんな所からしかるべき所持者に返せ! この事件には多くの思い、信念、そして命が関わっていたんだ。あれは誠に凄惨な事件だった。この衣装は見世物じゃないんだぞ!」
「はあ……。そんなことを私に言われましても……何とも……」
男は何が何だかわからない、という風情でもごもごと答えた。
「どけっ。この衣装は私が預かる!」
ゲルガンドの中に憤りが湧きかえる。これはティードリーアの母親が最期に着ていたものだ。こんなところで、珍しいからといって人目にさらされて良いものではない。
先の王妃は確かにゲルガンドを殺そうとしたが、同時に夫や息子まで手に掛けた。それだけ深く篤い信仰心があったということだ。ゲルガンドだって自分を殺そうとした女を恐ろしく思う。しかし、かねがねこうも思っていたのだ。そこまで王妃を追い詰めたのは帝国側にも責任があるのではないか、と。十年以上にも及ぶ信仰と信仰の覇権を掛けた抗争の果ての悲劇。しかし、帝国はそんなことに何の痛痒も感じていない。その責任を全く感じず、それどころかただもの珍しさでこうやって「展示」するとは――。
一刻も早くこの衣装を取り戻したい。そう思いながら彼はティードリーアの母親の衣装に手に取ろうとした。
「おやめ下さい、ゲルガンド様。展示物に触ることができるのはこの『百科の殿堂』で働く文官だけでございますぞ!」
ゲルガンドは縋りつく男を振り払った。男は着ていた官服の裾を踏んで盛大に床を転がった。そしてそのまま、隣に展示されていた神像か何かの背の高い陳列物を倒してしまった。
「きゃあっ」
女の叫び声が聞こえてゲルガンドは、驚いて手を止めた。その倒れた陳列物が彼女にぶつかってしまったらしい。痛そうに腕をさすっている。女はゲルガンドの怒鳴り声を聞いて慌てて様子を見にきたのだろう。
美しい女であった。「石の国」の出身だろう。「森の国」の者より彫は深いが、それも程よい程度で、顔の輪郭は綺麗な卵型をしている。ただ、今のゲルガンドは女の顔立ちなど全く気に留めてなどいなかった。
「何事かね」
立派な身なりをした男がこちらに駆けてくる。
「館長!」
案内人の男はほっとした様子で、一気に事情を喋ろうとし始めたが、少しの間口を閉じた。そしてその次に口を開くときは、やや澄ました表情でこういった。
「何でも……何でもございません。私が文官服の裾を踏んでひっくり返ってしまっただけでございます。その所為で、このガルーワ国の神像を倒してしまい、それがネルヴァ女史にぶつかっただけでございます」
そしてちらっとゲルガンドを見る。その目には「ゲルガンド様の不始末を黙っておいて差し上げますよ」という恩着せがましい媚が含まれていた。
「そうなのか? ネルヴァ女史」
館長と呼ばれた男がその女性に尋ねた。
ゲルガンドは意外に思いながら彼女の顔をみた。この女性がネルヴァ? ロガイから「賢者」の名を受け取った人物について、彼は壮年以降の男性を勝手に想像していたのである。それが、ゲルガンドとそう歳の変わらぬ女性であったとは。
ネルヴァ女史は、まっすぐ館長を見て証言した。
「私が参りましたのは、誰かが騒ぐ声を聞いてからのことです。ですから私が見たのは途中からで、そこに至るいきさつまではこの目で見たわけではありません」
館長も案内役の男もかるく安堵している。ゲルガンド将軍のような高貴な人物に関わって、余計な揉め事を背負い込みたくないのだ。
「しかしながら、私がここに到着しました時、ゲルガンド将軍はそのワレギア王妃の衣装を手に掴み、制止しようとするその文官の方を振り払われました。それでその文官の方は裾を踏んでしまい……ここから先は、その文官の言った通りです」
「ふむ……」
館長とゲルガンドが同時に息を吐いた。
館長の方は、この女性研究官のお陰でどうも厄介ごとに巻き込まれてしまいそうになってしまったため困惑した表情だった。
ゲルガンドの方は、興味深く彼女の顔を見つめた。自分が皇族のゲルガンドと知ってなお、へつらうことなく事実を曲げずに報告したことを、彼自身は小気味良く思ったからである。
もっともネルヴァ女史は単純な正義感しかを持っていないわけではなさそうだった。ゲルガンドと目が合うと、磨き込まれた上質な木材のような濃い茶色の髪と瞳を心持ち伏せた。心の中で「告げ口するようでごめんなさい」と謝っているようだった。
「ゲルガンド将軍、いったい何故その展示物を触ろうとなさったのです」
ともあれ真相を聞くことにした館長が尋ねた。
「これは、私の養女、ワレギア王国の王女だったティードリーアに渡されるべきものです。母親の遺品として」
そういう発想は全くなかった館長は黙った。そして、事の本質からズレた、しかしゲルガンドにとっても気にせざるを得ない点を突いてきた。
「では、ゲルガンド将軍の希望はご養女様のため、ということでしょうか? おそれながら、皇帝皇女がこの件をお知りになったらどう思われるでしょう?」
研究機関といっても館長クラスになると、政治的な配慮が出来るような人材が充てられているものらしい。ここに展示されている物は帝国の物、ひいては皇帝の御物である。ゲルガンドがその中の一つを要求している。しかも、それは皇帝皇女の不興を買っているティードリーアのために、だ。ゲルガンドが、このワレギアの巫女の衣装をティードリーアに返して欲しいと、正面から皇帝達に頼んでも、要らぬ不信感を買うだけで良いことなどなにもあるまい。
――しかし、これをこんなところで見せ物にされるのはたまらない
ゲルガンドが歯軋りをしかけたところで、ネルヴァが口を挟んだ。
「込み入っておりますところ申し訳ございません。実は植物研究室では以前からその衣を貸し出して欲しいと願っておりましたの。これを機に貸し出してはいただけないでしょうか」
文官の男が聞く。
「植物研究室がですか? なぜ?」
「その衣は本当に発色がいいのです。どのような染料を用いているのか、と思いまして。その衣を真似て、試しに染めた糸があるのですが、それを実物と並べて見たいのです」
この辺は嘘だろうな、とゲルガンドは思った。とっさの言い訳だ。しかしネルヴァはこの衣を入手してどうする気なのだろう。ネルヴァは次にゲルガンドの方を向いた。
「ゲルガンド様。植物研究室ならばむやみに人目につくことはありません。こちらで大事に預からせていただくということで、今日の一件はなかったことになさってはいかがでしょう?」
確かに今日の一件が皇帝皇女の耳に入るとまた厄介がおきる。ゲルガンドは黙って頷いた。
「それではこのお話はおしまい、ということで。ゲルガンド様、貴方様はロガイ先生に勧められて新しい植物研究室をご覧にいらしたのですよね? ここから先は私がご案内致します」
ほっとした表情の館長と案内役の男とを残して、ゲルガンドはネルヴァとともに歩き出した。
「ネルヴァ殿。あの場をおさめてくれたことには礼を言う。しかし、そのワレギアの衣を今後どうなさるおつもりか?」
「私はうっかり者ですの。それもかなりの」
「……?」
「ですから、折角お借りした資料も紛失してしまうかもしれません……『つい、うっかり』」
ネルヴァの瞳に悪戯めいた光が浮かんでいる。
「はっ」
とゲルガンドは息を吐いて笑った。
「なるほど」
ネルヴァは「つい、うっかり」紛失した風を装って、この衣をゲルガンドに渡してくれるつもりなのだ。
「貴女は大胆な方だ」
「とんでもない。大芝居を打ってどきどきしておりますわ。あの文官はともかく、館長やましてやゲルガンド様のような目上の方とお話したことなんでございませんもの。今も心臓がドキドキして押さえようもございません」
「ほほう、とてもそうは見えない」
「まあ、私はそんなに図太く見えますのでしょうか?」
二人は顔を見合わせて笑った。ゲルガンドは新しい研究室の様子を見せてもらい、医療隊で用いる薬草類を軍に送り届ける算段をつけ、ネルヴァの淹れてくれた甘みのする香草茶を愉しんでその部屋を辞した。片方の腕には、目立たぬ色の布で包まれたあのワレギアの衣装があった。もちろん、ネルヴァが「ついうっかり」床に落としたものであり、ゲルガンドはただ落し物を拾っただけのことである。
帰宅後、その日邸宅にいたティードリーアを、ゲルガンドは自室に呼んだ。
「お母様の……」
そう言ったきり、ティードリーアはゲルガンドから手渡された布の塊を手に絶句していた。
それが「百科の殿堂」で「未開の信仰」や蛮族の風習を示す「展示物」として人目に晒されていたことは黙っておくことにした。
「ワレギアの染色があまりに見事ゆえ、染料を研究する者が入手し植物研究室で保管していたらしい。血がついているが、ワレギアはしばらく流血沙汰が続いていたと聞いていて誰の血かまでは思いが至らなかったようだ」
ティードリーアは包みを開けた。
「母の、母のものです。これはワレギアの巫女の最も格式の高い模様が織り込まれています。母は……。母は処刑時にはこの衣をきて臨んだのですね……」
彼女は声を詰まらせた。
「植物学研究室のロガイ師の愛弟子にネルヴァ殿という方がいる。この衣を受け取るべき王女が居る旨私が申し入れたところ、快く返してくださった。知らぬこととはいいながら、今までこちらで持っていて申し訳ないと謝罪もして下さった」
事実ネルヴァは、ゲルガンドの元にいるワレギアの元王女を心配してくれた。
「お気の毒な姫君ですね。この衣は姫君のお手許に帰ることになりますけれども、お母上の遺品を見れば嬉しさ、懐かしさと共に悲しみを強くお感じなさることでしょう。顔も拝見したことの無い者が今更こう申し上げるべきかわかりませんが、どうかお悔やみ申し上げますとお伝えくださいませ」
思いやりの篭った温かい口調だった。
「そのネルヴァ氏はとても優しいお方なのでしょうね」
零れ落ちる涙を拭きながらティードリーアはそう呟いた。ここでゲルガンドは、彼女にネルヴァという人物について少し説明するべきだろうかと思った。おそらく彼女もネルヴァという人物について、それなりの年齢の男性を思い浮かべていることだろう。ここでその誤解を解いても良かったのだが、しかし彼は何故かティードリーアに知らせる気になれなかった。
それに、そんなことより、彼はティードリーアが落ち着けるよう計らってやらねばならないことがあった。彼は彼女にソファに腰掛けるようにすすめ、涙を拭うための手巾を渡してやり、故国から「森の国」までついてきている「爺や」「婆や」を呼んでやった。
ティードリーアは爺やと婆やとともに、普段使わぬワレギアの言葉で亡き母を――父とも仲が良かった頃の優しかった母を――偲び、量りきれないほどの涙を三人で流し、その死を悼んだのだった。
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