赤い戦場

 ティードリーアはアチェと共に、ジガリの「逃げろ!」という命令に俊敏に反応していた。ドドゥは何が起こっているのかわからず、ぼうっと突っ立っていたが、アチェが「あっちに走るんだよ!」と明確に指示をだしたので、それに従って走り出した。ドドゥは、何をすればいいのか単純に指示してもらえれば、走るのも速く、力も強かったのだ。


 ティードリーアとアチェ、そしてドドゥは訓練兵の中で比較的早く、ガイディの軍勢の傍まで達した。ガイディ軍には何故か積極的に彼女を守ってくれる様子がなかった。ただ、彼女たちは自分たちを殺戮しようと、刀や矢が向かってくる目に遭うのは初めてで、そんなことに構っていられなかった。


 ティードリーアは、鎧を着けたまま全速力で駆け抜けてきたので、もう膝が崩れ落ちそうだった。尻をついたら、次に立ち上がるのが辛くなると分かっていたが、へたりこんで両膝の間に顔を埋め、ハアハアと肩で息をしている。アチェの方は、ティードリーアよりも訓練期間が長かったお陰か、立ったままだったが、呼吸は荒く、強張った表情をしていた。ドドゥだけが、きょとんとした顔で、自分たちが逃げて来た方向をぼうっと眺めている。


 赤い土煙の中で、蛮族たちが暴虐の限りを尽くしているのが見える。逃げ遅れた訓練兵や、輜重隊や医療隊の警備にあたっていた兵士が蛮族たちに襲い掛かられ、何とか応戦している。しかし皆歩兵であって、騎馬に乗った蛮族たちの方がずっと優位だった。一人また一人、土煙の赤よりもずっと鮮やかな血飛沫をあげて倒れていく。


ドドゥが、輜重隊が放り出したままの荷物を指差し、突然声をあげた。


「お皿! お皿を取りにいかなきゃ!」


 唐突な声にティードリーアは顔を上げた。アチェは「厄介なことが始まった」という顔で、ドドゥに言った。


「皿なんかどうでもいい。さあ、ガイディ将軍の軍のところに行こう」


 そしてドドゥの腕をとって歩き出そうとした。ところが、ドドゥはアチェの手を振り切ろうとする。ティードリーアも慌てて立ち上がった。その拍子に眩暈がしたが、今はそれを気に掛けている余裕はなかった。


 ドドゥは泣きべそをかきながら、今や蛮族が蹂躙している戦場の中に、置きざりにされている輜重をめざして走り出そうとする。アチェがドドゥの胴に腕を回して引きとめ、ティードリーアはドドゥの前に立ち塞がって、ドドゥの両肩を掴んで行かせまいとする。


 ドドゥは懇願するような口調で言った。


「だって、お皿盗られちゃうよ。お皿がないとごはんが食べられないよ」


 アチェが怒鳴る。


「そんなものは後からどうにでもなるっ! 戻るんじゃない!」


「でも……。みんな、私がご飯を寝台まで持っていったら喜んでくれたよ。アチェだって、ティードだって」


 ここでドドゥとティードリーアの目が合った。ドドゥはにこっと微笑んだ。何の邪気もない幼児のような微笑だった。


「疲れている人に食事を運んであげたら、みんな喜んでくれる。友達ができる」


「…………」


「でも、お皿がないと食事が運べない。誰も友達になってくれない……」


 ティードリーアはハッと胸を突かれた気がした。互いが互いを蔑むような、そんな殺伐とした雰囲気を、“純粋な”ドドゥは気がつかないで済んでいたと思っていた。しかし、ひょっとしたら他の誰よりもこのドドゥこそが、その雰囲気を、誰よりも悲しく、そして寂しく感じていたのではないだろうか。


「ドドゥ、そんなことはない。皿なんか無くったって、私たちは――」


 友達だ、そうティードリーアが続けようとしたとき、ドドゥは二人の女の手を振り払った。ティードリーアはよろめいただけで済んだが、より強くドドゥを押さえていたアチェは地面に尻餅をついてしまった。


 ドドゥは全速力で、戦闘が繰り広げられている中へ戻っていく。


 ティードリーアは慌ててドドゥの後を追った。


「ティード! やめておきな! アンタまで行くことはない!」


 後ろでアチェが大声で叫んだが、ティードは躊躇い無くそのまま走り続けた。


 しかし、ドドゥに追いつく前に、大きな馬が現れ、ティードリーアの行く手を遮る。顔を上げてみると、斑のない帝国軍馬に乗っていたのはジガリだった。


 ジガリはホッとした様子だった。


「良かった。無事だったんだな」


 ティードリーアの逸る気持ちからすれば、全くちぐはぐな言葉だった。


「無事? 無事だと仰るのですかっ、ジガリ隊長」


 ティードリーアは苛立ちと怒気を隠そうとせず、大声で怒鳴った。


「隊長! あれが見えないのですか! あそこにドドゥが!」


 ティードリーアは、ドドゥのいる方向を、怒りに任せて腕ごと振り回すように指差した。ドドゥは二騎の蛮族に見つかってしまい、前後を塞がれてしまっているところだった。ドドゥは二騎の間で立ち往生している。ティードリーアのいるところからは表情まで見えないが、きっと困惑した顔をしているだろう。


 ジガリはティードリーアの指差す方向を見、苦渋に満ちた表情を浮かべた。しかしながら、彼の口から出た言葉はあまりにも冷酷なものだった。


「仕方ない。ティード、彼女は『矢避け』だ」


「仕方がない? 矢避け?」


 ジガリの言葉にティードリーアは、これ以上ないほど目を見開く。


「そうだ。今、彼女に蛮族二騎が襲い掛かっている。それだけでも、私たちを襲う蛮族が二騎減ることになる」


「つまりは、捨て駒、ということですか?」


 ティードリーアの声が震える。ジガリは無言で頷いた。


 これは善悪の問題ではないのだ、とジガリは思う。世の中には、様々な理由で人生に行き詰った人間がが居る。例えば身体を売るしかないほど貧しい女、放蕩の限りを尽くして、金銭的にも社会的にももうどこにもならなくなった男、などなど。


 そういった者たちでも帝国軍は雇う。たとえそれが知恵も回らぬ者でも、心身ぼろぼろで使い物にならない者でも、前線に立たせておけば、敵の進軍の邪魔くらいにはなるだろう。


 彼らにとっても軍に入ることは悪いことばかりではない。人生に煮詰まった者は、困窮の果てにいずれ道端で野垂れ死ににでもなるのがおちだ。しかし軍に入れば最低限の衣食住は確保できる。適性があれば、その後軍人として大成するものもいる。たとえ、初の戦闘で死んでしまっても、遺族にいくばくかの見舞金が出る。死者となった彼らもこれで面目が立ち、少しは誇らしい気持ちで、海に還ることができるだろう。


 そう、これは一見むごいようにみえて、一種の貧民政策なのだ。


 ――しかし、この年若く生真面目な王女に通じる理屈ではあるまい


 事実、ティードリーアの緑宝石の瞳には、はっきりと軽蔑の色が浮かんでいる。


 ティードリーアは今までジガリを尊敬していた。彼は実に公平な教官で、どんなに厳しい訓練を課されてもこの人を恨もうなどとは思わなかった。訓練兵は皆同様で、食料を減らしたホイガを罵っても、この教官を罵る者はいなかった。それだけの人物なのだ、だから訓練部隊の長が務まるのだと、彼女は感心していたのだった。


 ジガリも、ティードリーアから尊敬という形で好意を向けられているのは知っていた。それが嬉しかっただけに、今彼を見据えている彼女の鋭い眼差しが、心に痛い。しかも彼自身が予想した以上に、その痛みは強い。


 そんなジガリをよそに、ティードリーアはくるりと踵を返して駆け出した。一言も発することなく。こんな冷血な上官のために口をきくことすら惜しい、とでも思ったのかもしれない。彼女の心中をそう忖度しながら、ジガリは深く息を吐いて思う。


 ――全く死者のでない戦なんてない。味方を捨ててでも逃げるべきときには逃げる。それは兵卒の義務でもあるんだ。


 いずれは彼女も理解するべきなのだが……。ジガリはもう一度溜息をつくと彼女の向かった方向に、自分も馬の首を向けた。


 蛮族がドドゥに襲い掛かる。いや、襲っているというよりも、狩りを楽しんでいる、と表現した方が正しいかもしれない。何の抵抗もしないドドゥを、一方的に馬上から刀の切っ先で小突き回している。


 ドドゥの背の荷袋には、帝国軍から支給された剣が入っているはずなのに、彼女はそれを使おうとは思いつきもしないようだった。いっそ荷袋を捨てて身軽になり、騎馬兵たちの隙をついて全力で逃げ出す手だってある。だがドドゥはそれもしようとしない。


 普通の兵士なら、立ち向かうなり、逃げ出すなりするところだが、ドドゥはただただ彼らの間をウロウロと逃げ惑っているだけだ。


 ドドゥが“純粋”であることはもう蛮族たちにも知れてしまったようで、その上で彼らは彼女をなぶり殺そうと決め込んでいるようだった。彼らは残忍な表情で楽しげに刀を舞い踊らせ、二頭の斑の馬も細かいステップを踏む。彼らの動きに合わせて、赤い砂塵が立ち上る。


 哀れだ、とジガリも思う。赤い土煙に巻かれているためドドゥの表情までは分からないが、柔和な彼女はさぞ怖ろしい思いをしていることだろう。


 しかし今はティードのことが気に掛かる。彼女が割って入っても、歩兵一人、しかも訓練兵が二騎の敵兵に向かっていったところで勝ち目があるとは思えない。


 ――となると自分も行ってあの二騎を倒してやらねばならないが……。


 ところが、肝心のティードは、ドドゥがいる方向とは違う方へと疾走している。一体どういうつもりだ? 彼女を追うべきか、トドゥの方へ向かうべきか、ジガリは迷った。




 ティードリーアは走りながら背中の荷袋を外すと、中から何か棒のようなものを取り出した。そして荷袋の方は無造作にどさっと投げ捨てる。更には棒状のものを覆っていた皮袋も取り去り、同様に地面に捨て去る。




 ――剣? しかしあれは……。




 ティードリーアは右手に剣を手にしているが、それは帝国式のものと随分違う。長さはあるが、刀身があまりにも細い。あれで蛮刀の一撃を受けることが出来るだろうか。




 剣を握りしめ、赤土を蹴って、ティードリーアは走り続ける。その先には、乗り手をジガリに討たれ、所在無さげにうろついている斑の馬がいた。その馬の背後に周ると、彼女は走るのをやめ、今度はそうっと足を忍ばせて馬に近づいた。そして馬に警戒する隙を与えず、さっと跨った。颯爽たる身のこなしではあったが、いきなり乗られた馬の方は驚き、嘶いて彼女を振り落とそうとする。




 元々戦用に調教された馬なのだから、彼女を主と認めさえすれば言いなりにはなるかもしれないが……。ジガリは思った。ただそれには馬の興奮がおさまるまで、しっかりと手綱を握り、鞍の上にどっしりと居座らなくてはならない。




 ――ティードには無理だ。


 


 大の男でも初めての馬を乗りこなすのは難しい。ましてや彼女はまだ少女だ。それに、だいたい彼女にはまだ騎馬術を教えていないのだ。




 振り落とされて大怪我をしなければいいのだが……。ジガリはティードリーアに向かって馬を走らせながらそう願っていた。




 ――何が「矢避け」だ!




 馬に跳び乗ったティードリーアは、心の底から憤っていた。暴れる馬の手綱を握る腕に、馬の胴体を締め上げる脚に、倒してはならない自分の体躯に、怒りのおもむくままに思いっきり力を込める。




 ――従う者の命を守れないで、人の上に立つ資格などあるものか。




 父王はいつも言っていた。羊たちを守るのが民の務め、そしてその民を守るのが王族の務めだ、と。




 ワレギアでは、羊たちが狼の群れに襲われれば、男も女も馬上から剣を振るって狼たちを撃退する。そしてワレギアの王族に、王宮内で安閑と過ごすような怠け者などいない。大きな狼の群れがやってくれば、王族自ら剣を手にとって、民を援けにいくのだ。




 ――私だって例外じゃなかった。




 王女であろうと王族の義務は果たさなければならない。彼女もまた、ワレギアの第一王女として、馬を操り、ワレギアの剣で狼たちと闘ってきた。




 ワレギアの馬は大きく、脚が太くて力も強い。そんな馬を乗りこなしてきたティードリーアにとって、この蛮族の斑の馬などは子馬も同然だった。




 ましてや、ワレギアに居た頃よりも、今の彼女の体にはしっかりと筋肉がついている。そして彼女の心は怒りに燃え上がっていて、普段の何倍もの力が全身に漲っている。




 斑の蛮族の馬は最初こそ砂塵を巻き上げながら暴れ回ったが、技術、体力、そして凄まじいほどの気迫とが揃った彼女を新しい主と認めざるを得なかった。そして今度はその主の命じるままに走り始める。その人馬の目指す先に、二騎の蛮族と女の歩兵とがいた。


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