孤独な兵卒

兵営のベットに張り付いたように伏せているティードリーアの頭上から声が降ってきた。アチェという同じ訓練兵の声だ。


「王女サマ、何やってんだい、さっさと起きな!」


 「王女」という言葉を使っているが、そこには些かの敬意もこもっていない。


「朝食に間に合わないよ。ティード」


 そう言い捨てるとアチェも女性訓練兵の寝室用天幕から出て行ってしまった。


 ティードというのは、もちろんティードリーアのことだ。訓練兵部隊の隊長ジガリが、最初の訓練時、訓練兵全員の前で言い渡したのだ。「名前の長い者は省略してこれを呼ぶ」と。


「戦闘の最中に、長ったらしい名前を呼んでいる余裕なんかない。長い名前は省略して呼称とするのが我が帝国軍の規則だ。今回の訓練部隊で言うと、ティードリーア。君が該当する。今日から君はティードだ。軍においてはその名を使うように」


 ティードリーアが反論できるような雰囲気はとてもなく、彼女も特にこだわりがなかったので、帝国軍での彼女の名はティード、ということになったのだった。


 もっとも、彼女を名前で呼んで話しかけてくる者などたった二人だけだった。ティードリーアは依然ベッドに突っ伏したまま、兵営の中を見渡した。他の女訓令兵は皆、もう朝食用の天幕に行ってしまい、誰もいなかった。


 アチェに言われたとおり、このままでは朝食を食べ損ねてしまう。ティードリーアは何とか起きようとする。けれど、体が重くてどうしても身を起こすことが出来ない。


 ティードリーアの疲労は、もう一晩眠ったくらいで快復されるようなものではなくなっていた。



 一兵卒として入隊した彼女は、ゲルガンド率いる帝国東征軍の訓練部隊に所属し、皇都から高々と聳える山脈を徒歩で越えた。草原の国育ちで、あまり急峻な坂に慣れていない彼女にとって、この山越えはかなり辛いものだった。


 更に山を越えて「石の国」の西の外れまできたところから、本格的な訓練が始まった。まず、男女合わせて五十三人いる訓令兵に甲冑が支給される。本隊の行軍中、訓練兵は甲冑をつけたまま走ってそれについていく。歩兵用の軽い装備なのだがこれを身につけて走るのは辛い。ティードリーアも何とか完走しようとするが、走っている内に息が上がり、視野が暗くなってきてとうとうその場に倒れ込むこともしばしばだった。


 本隊とは別行動で近道を行く代わりに、違う訓練を課せられるときもある。例えば、敵から弓矢で攻められている場面を想定した訓練。隊長ジガリの号令に従って、訓練兵たちは甲冑をつけたまま駆け出し、パッと地に身を伏せ、再び起き上がって全力で疾走する。そうすれば弓矢に当たりにくいのだという。これも体力的に辛い訓練で、ティードリーアも、最後の方は、今自分が立とうとしているのか伏せようとしているのかも分からないほど朦朧とした状態になるのだった。


 それに暫く前からは白兵戦の訓練も始まっていた。訓練兵は帝国軍式の剣を持たされ、まず基本の型の素振りから練習を始める。ティードリーアも見よう見真似で剣を動かす。けれどもその剣は、彼女の手に馴染んだワレギアの剣と違って、やたらと重く大きく、振り回す度に上半身の筋肉を精一杯使わなければならなかった。


 一日の訓練が終わり寝床に就く頃には、ティードリーアの身体は全身鉛のように重くなっていた。いや、磁石のようだといった方がいいかもしれない。全身が磁石と化した彼女が、鉄で出来た地面に引き寄せられ、磁力に捕まって身動きできないのだ。


 ――でも、起きなければ……。


 彼女は両腕に力を込めて、上半身を寝台から引き離した。頭の先から爪先まで尋常ではないだるさを感じる。しかし、訓練には出なければ。どんなに苦しいものでも、喰らい付いていかなくては。そうでなければ、また他の訓練兵の嘲笑を買うだろう――。


 入隊する時、ティードリーアは自分が嘲笑されるなど想像もしていなかった。彼女は他の訓練兵を同僚だと思っていたのだ。同じ立場で同じ目標に向かう仲間だ、と。だから、先に訓練を始めていた訓練兵たちに初めて引きあわされたとき、彼女はごく当然のことと思って「よろしく」と挨拶したのだった。しかし、返ってきたのは冷たい沈黙だけだった。


 夜になり、女性訓練兵用の天幕に入って、ティードリーアが自分の持ち物を割り当てられた棚に納めていると、背後から声が掛かった。


「オウジョサマ」


 今まで数限りなく耳にした呼び方なのに、その言葉には今まで全く耳にしたことの無い、ざらりと不快な響きがあった。


 ティードリーアは困惑しながら振り向く。天幕のあちこちから、悪意に満ちた、クスクスという忍び笑いの声が聞こえてきた。


 ――王女サマだってさ。

 ――王女様が一兵卒だとよ。

 ――しょうがないじゃないか。王女ったって、この女、所詮蛮族だよ。

 ――しかも国を追い出されたんだよ、この王女。


 これらの言葉は妙な抑揚がつけられており、芝居がかってさえいた。ティードリーアに聞こえよがしにあてつけているのは明らかだった。そして、その陰険な小芝居が終わると、彼女たちは呆然と立ち尽くすティードリーアにくるりと背を向けて、さっさと寝支度に取り掛かってしまった。


 その夜。ティードリーアは声を押し殺して泣いた。お転婆な少女だった彼女は幼い頃からワレギアの軍隊に出入りして遊んでいた。そこでは誰もがティードリーアを可愛がってくれた。大将から雑兵に至るまで。そしてティードリーアは王女としての身分を鼻にかけるようなところは全く無いつもりだった。だから彼女は自分の人柄が目下のものに慕われていると思っていたのだった。


 ――だけど、違うのだ。


 ティードリーアは唇を噛んだ。いくら自分が気さくで臣下に好かれやすい性質であったとしても、結局のところワレギア国の民は、自分の背後に国王ガルムフを見ていないわけでは決してなかったのだ。自分は、王女だから特別扱いされていることもわからなかった、愚かな娘だったのだ。


 ――では、王女という肩書きを失った自分は一体何者だというのだろう。


 亡国の元王女。蛮族の子。夫と息子を殺した毒婦の娘。婚約者に捨てられた哀れな女。


 今まで強いて考えまいとしていた言葉の群れ。その一つ一つが、その惨めさを強調するような声音で耳元に囁かれているような気がした。それを聞くたびに、ティードリーアは自分の中で何かが壊れていくような気がした。周りは冷たい暗闇で哀しみに満ちており、足元に底知れない虚無感がぱっくりと口をあけているようだった。


 ――私は何者なのか。


 彼女が考えれば考えるほど、虚無の沼は足元に迫り、今まさに彼女を飲み込もうとしている――。


 が、その時。妙な音がした。


「ふがああー」


 その大きな蛙の鳴き声のような音に、ティードリーアは我に返った。それは同じ天幕で寝ている女性訓練兵の誰かの醜い鼾の音だった。


 ティードリーアは頭を冷やして、その日起きたことを考え始めた。


 「蛮族」「国を追い出された王女」と呼ばれて確かに辛かった。けれど、そんな言葉自体より辛く惨めなことがある。それは、自分と言う人間が、侮蔑の言葉を投げつけられて当然と看做されており、その傷つく様子を弄ばれているということだ。


 ――悔しい。


 ティードリーアの目に反発の光が浮かんだ。たとえ形式的にどうなろうと、自分はワレギアの王女として生まれたことに変わりない。私は王女の責務として国を出たのだ。蛮族と言われようと、それは勝手に帝国がそう呼んでいるだけだ。ワレギアの文化が帝国側に劣っていると思えない。むしろ父ガルムフは帝国を利用してやろうとしていたのだ。


 だから、自分の中に、自分自身を憐れむ理由などどこにもない。今、そして明日から大事なことは、不当な蔑みに屈しないということだ。


 ――それには、何としてもこの訓練に喰らい付いてみせなくては。


 ここで挫けたら、ティードリーアだけでなく、ワレギアの国や養父ゲルガンドの名誉に傷がつく。そして自分自身の名誉も。


 今まで自分の名誉は父に与えられたものだった。しかしこれからは、自分は自分の名誉を築き上げ、守っていくのだ。



 朝食を終えた訓練兵たちが帰ってきた。未だ寝台の上のティードリーアを見ると小馬鹿にした表情を浮かべていく。


 ただ、ドドゥという名の女だけが、ティードリーアと視線が合うと邪気のない微笑みを浮かべて、近寄って来た。


「持ってきたよ。朝ごはん」

「ああ、有難う。済まないな」


 この兵営の中で、ドドゥだけが親切だった。ティードリーアの疲労を最初に気遣ってくれたのも彼女だ。この険悪な雰囲気の中で、何故自分に親切にしたりなどするのだろう? と訝しげな顔をしたティードリーアに説明を施したのがいつもドドゥの側にいるアチェだった。


「この子はね、純粋なんだよ」


 この子、と言うがドドゥはもう三十近い。はじめは彼女の親切に当惑気味のティードリーアだったが、日が経つにつれて事情が分かってきた。彼女は知能に少しばかり問題を抱えているようなのだ。訓練の号令などの簡単な命令にはついていけるが、わざわざ他人を遠まわしに傷つけるという悪巧みをするには――アチェの言葉を借りれば――純粋すぎるのだった。


 アチェの方は、この純朴な女の保護者を自任しているようだった。ドドゥが好意的な関心を向けている以上、アチェもティードリーアの側にやってくる。この口の悪い女は、最初の夜に皮肉を言った女達の中に居たような気もしたが、ティードリーアも特に過ぎたことを取り立てようとも思わなかった。


「では、有り難く頂くとしよう」


 ティードリーアはドドゥが持って来た食事を受け取った。軍隊の食事は粗末なものだ。粗く削った木の鉢に、とりあえず食べられるものを全て詰め込んでみた、といった風のシチューが無造作に入れられている。その鉢に、日持ちすることを最大の目的にして焼き上げられた硬くて黒いパンが付くだけだ。


 それでもティードリーアはドドゥの好意に応えて微笑みかけてやり、ドドゥもそれを受けて大きく笑む。側のアチェだけが少しばかり面白くなさそうな顔をしていた。


 アチェという女と言葉を交わすようになって、ティードリーアは自分をとりまく状況について一気に情報を得られるようになった。


 最初の夜は、自分以外の皆が一枚岩のように団結して、自分を拒んでいるように思われた。けれども、日が経つにつれて必ずしもそうではないことに、聡明なティードリーアは気付いた。


 まず、気になったのは女性訓練兵の中に、口を利くことが出来る者と出来ないものがいるようだ、ということだった。


「アチェ」

「なんだい、ティード」

「あんたもそうだが、皆、私にあまり好意的ではない。だが、皆が皆あんた程多弁じゃないのはどうしてなんだ?」


 この頃にはティードリーアの方も、深窓で育った王女とはかけ離れた口調を身に着けていた。


「理由は簡単さ。『河の言葉』がわかんないからだよ」


 諸王国によって話される言葉は様々に違う。ただ、旧くから交流のあった河ぞいの「森の国」「石の国」「土の国」は共通の言葉を用い、それは「河の言葉」と呼ばれ、帝国の公用語と定められていた。


 ティードリーアは幼い頃から「河の言葉」も教えられてきたので、ワレギアの言葉を同じくらい「河の言葉」も流暢に操ることが出来る。


「私とドドゥ、それからあいつとあいつと……」


 アチェは自分とドドゥ、それから兵舎で休息している他の三人の女を指で指した。


「この五人は『土の国』の出身だ。だから言葉がわかる。後の者は言葉がわからない」

「なるほど、確かにあんた達の顔立ちは似ているな……」


 髪や瞳の色はそれぞれだが、「土の国」の出身者は皆長身で、肌が白く、顔の彫りが深すぎるほど深かった。もっともそれが美しさに結びついているのはアチェくらいで、他の者からはあまり美しいという印象を受けない。ドドゥ以外の三人は、顔立ちよりも荒んだ下品さの方が先に目につくせいかもしれない。ドドゥの場合は、背は高くても首が短い上、口元がややだらしなく、これは元来の不美人というよりなさそうだった。


「まあ、『土の国』の人間の彫が深いっていうのは、私も軍に入って初めてわかったよ。『土の国』にいちゃあ、それが当たり前だったからね。『土の国』以外の人間と軍で一緒になって、世界には色んな人間がいるもんだ、と思ったもんだよ」


 「土の国」の出身者以外は、肌の色も黒かったり、赤銅色だったり、白めだが黄味がかっていたり様々だ。顔立ちも唇がぼってりしていたり、額が広かったり、目が細かったりとそれぞれに特徴がある。


 ティードは息を一つ吐くと、次の疑問に移った。


「言葉もわからないのに、彼らはどうして軍隊に入ったんだ?」

「王女様とはまるで違う理由だよ。あんたみたいにロマンティックなもんじゃない」

「ロマンティック? どういうわけだ?」


 自分に話の矛先が向けられて、ティードリーアは軽く戸惑った。


「好きな男の後を追いかけて――。これが王女様の志願理由だろ?」


 アチェの顔にはっきりと冷笑が浮かんでいる。ティードリーアは唇を引き結んで、アチェを真正面から睨み、沈黙を以って返事とした。この種の挑発に乗って自分の品位を下げようとは思わなかった。


 ふん、と鼻を鳴らしてアチェの方が再び口を開いた。


「ここにいる皆はね、あんたみたいな甘っちょろい理由で軍に入ったわけじゃないんだよ」


 アチェはティードリーアを一睨みし、それからそっぽを向いて話始めた。


「ティード。あんたの国にだって貧しいものはいただろう? 子供が生まれても育てていけないような暮らしの者がさ」

「……それはいるにはいたが……父、いや国王は貧民対策にもきちんと取り組んでいた」

「そりゃ結構。でも世の中そんな善い王様ばかりじゃないんでね」


 アチェは、ティードリーアの父だって、娘からみて善王でも実際はどうだったかなんてわかったものではないと思っている。大体そんな善王なら、暗殺されるはずがないし、この王女だって追放されるわけないじゃないか。


「世の中じゃ、子供を間引く家だってあるんだよ」

「間引く……」

「そう。生まれたての赤ん坊、その小さな小さな鼻と口とを大人の片手でしばらく塞ぐ。産声をあげるかあげないかのうちにさ」

「そんな……」


 ティードリーアは片手で自分の口元を覆った。風聞として、聞き知っていなかったわけではない。けれども、自分の目の前にいる人間から肉声で聞かされるとは今まで想像したこともなかった。その身の毛のよだつおぞましさに、悪寒が走る。


「まあ、生まれた頃は親も何とかなると思って、殺されずに済む子供もいるよ。でも、ただでさえ貧乏っていうのは治りゃあしないしね」


 ここでアチェはティードリーアを見た。世間知らずの王女様をはっきり小馬鹿にする表情が浮かんでいた。


「あんた。さっき言葉もわからないのに何で帝国軍に入るのかって聞いたよね? でもさ、帝国軍に入るのは『河の言葉』が喋れないせいもあるんだよ」

「……どうこうことだ?」

「帝国の支配下に組み込まれると、帝国の言葉つまり「河の言葉」を覚えた者が有利になる。金持ちや有力者はいいよ。勉強する暇も金もあって。でも貧乏人は一日一日の暮らしで精一杯なんだ。で、富める者はますます有利に、貧しき者はますます不利に、というわけだ」

「…………」

「自分の国が帝国の文化に染まれば染まるほど、自国語しか話せない貧乏人には居場所がなくなる。肉体労働にしかつけない。それで軍隊に入るってことになるんだけどさ。自国の軍隊の規模が縮小されてたり、時にはなくなってたりするんだ」


 なんでか分かるかい? とアチェは尋ねる。ティードリーアは答えた。


「帝国軍が、その国の軍に代わってその国を守ることになるからだろう。それより、そもそも周辺の国も同じ帝国領となれば、国同士で直接戦うこともなくなる。だから、その国自前の軍はその存在理由を失う」

「ほう、王女様はなかなかお利口だ。でもまだ一つ分かってないことがあるよ」

「?」

「帝国軍がその国の軍を積極的に解体しちまうのさ。征服した相手に武器を持たせとくなんて危ないからね」

「なるほど……」


 そう呟きながらティードリーアは思う。ワレギアの兵士達はどうしているだろうか。あの誇り高い大将たちや兵士たちは……。


「とにかく貧しい者は、自国の最底辺の仕事にもあぶれて、帝国軍に入るというわけさ」


 ここで、ティードリーアは遠く離れた故国から、目の前の女に注意を引き戻した。


「じゃあ、アチェ。あんたが軍に入ったのは何故なんだ。貧しい家に生まれたとしても、『河の言葉』が話せるなら他にも仕事はあるんじゃないのか。あんたは美人だから結婚しようという男がいたとしてもおかしくないし、それにあんたは結構頭が回る人間だ」


 ティードリーアはアチェを賞賛するつもりもなかったし、世辞を言うつもりもなかった。ただ自分が見てそう思うところを述べたのだった。


「ありがと。でも私は『浜辺の者』なんでね」

「……浜辺の者」


 ティードリーアも言葉の上だけなら、その存在を知っていた。「死者の魂を喰らって生きる、汚らわしく卑劣で賤しい、人の形だけ真似たケダモノの類」。


 しかしながら、そんなほぼ罵詈雑言のような言葉と、目の前にいるアチェとは結びつかない。いくらアチェが自分に友好的ではない人間であるとしても、だ。


「さっきの『土の国』の女達も全員『浜辺の者』だよ。軍隊には『浜辺の者』が多いんだ。私達はね、『河の信仰』を奉じる帝国の中では最底辺の存在なんだよ。何もない砂浜に追いやられて、かつかつの暮らしをする。飢えを凌ぐのがやっと。それにも困ると、女はまず若いうちは身体を売る。『土の国』の首都『煉瓦の街』でね」


 ティードリーアは絶句することしかできない。


「で。若くなくなって街で身体が売れなくなってきたら、こっちで身体を売って暮らすのさ」


 ティードリーアはますます身を硬くする。アチェは彼女がまだ十五歳の少女であることを思い出した。やれやれ、お嬢ちゃんには刺激が強すぎたかね。


「街で売るのと同じことを軍隊の中でしようっていうんじゃないよ。肉体で武器を振り回して日銭を稼ぐ。肉体労働って意味なら変わりない。単にそういうこと。もう年がいって街では売れなくなっちまったからね」


 確かにアチェや彼女以外の「土の国」の者、いや「浜辺の者」は訓練兵の中でも年嵩の部類に入る。他の訓練兵が少年少女か、それよりやや年長かといった風なのに対し、彼女たちは若くても二十歳の半ばは超えているように見える。


「でも……」


 ティードリーアは僅かに躊躇った後、それを振り切るように決然と言った。「でも、ここは軍人になるための場所だ」


 姿勢を正し、明確に言葉を加える。


「訓練を経て正規兵になる。武勲を立てれば隊長や、将官の近侍になれるし、下級将軍にだって道は開かれている。たとえ、その……街で売るのとは違った意味だとはいえ、『身体を売る』なんて表現するべきではないと思う」


 アチェはティードリーアの正論に特に感銘を受けた風もなく、少々投げやりに返した。


「ああ、そうだね。あんたならなれるかもしれないね」

「……何が言いたい」

「一兵卒からそんな立身出世を遂げるのはほんの一握りの人間だけだよ。っていうかね、武勇を立てるか立てないか以前に死んじまうよ、大抵は。兵卒ってのは、一番前に出て相手と殺し合いをするんだよ。毎回毎回戦が起こるたびに。時には捨て駒にされたりもしてね」

「……それでも力をつけて強くなって生き残ればいいじゃないか」

「はいはい。あんたなら大丈夫だろうよ。ゲルガンド元帥の娘なんだから」

「私は誰の後押しも不正に使う気はないっ」


 語気を強める


「あんた自身はどう思おうが、あんたの後ろにはいろんな人間がついているんだよ。もっともあんたからしたら、ついてこられるのも不愉快な奴も混じってるがね」

「……誰のことだ?」

「ホイガって奴を知ってるかい? リザ皇女の叔父に当たる人間だ。あいつは可愛い姪のために、ゲルガンド将軍を監視しようと軍に入ったんだ。もちろん高級軍吏としてね。で、あいつは輜重部隊の権限を握ってやがるからさ。自分の好き嫌いで、皇軍中の食べもんやらなんやらの分配を決めてしまうんだ。ティード、あんたが来てから、私たち訓練兵の食事の内容が一段と貧しくなったよ」

「私のせい……?」

「そうだよ。可愛い姪の婚約者にまとわりつく若い娘に、あいつが好意を向けるわけないだろう。はっきり言うけど、あんたが来たとばっちりを受けてるから、皆あんたが嫌いなんだよ」

「…………」


 ティードリーアの顔が強張る。アチェも、本人の責任ではないことを言ってしまい、これは少々言葉が過ぎたと思った。


「まあ、少しは慰めになることも言っておいてやろうかね。ここで嫌われてるのはあんただけじゃないよ」

「……?」

「ここじゃ、皆が互いに蔑みあっているんだよ。河の信仰に馴染んだ者は、私達『浜辺の者』を賤しむ。『河の言葉』が話せる者は、話せない者を劣っていると考える。早くから帝国領となった国の者は、最近帝国領となった国のものを蛮族と呼ぶ。どんくさい奴はそれだけで、あからさまに馬鹿にされる。ドドゥがそうだね」

「……随分殺伐としたものだな。けれど、寂しくないか? そんなことをやっていて」

「別に」


 アチェは素っ気なく答えた。


「さっきから言ってきてるけどね。皆、軍隊に入る前から自国でさんざん蔑まれて生きてきたんだ。軍に入って、別の種類の人間を見つけて、初めて自分が相手を蔑めるようになって愉しいのさ」


 何か言いたげなティードリーアに向かってアチェは続けた。


「言っとくけど、軍人同士の麗しい友情なんてものは、ここにはないよ。人を殺して相手に殺される。私たち一兵卒なんてそんな存在なんだ」


 ふふん、と笑ってアチェは続ける。


「あんた、最初にここに来た夜ベソをかいてたけど、その後は泣かなくなったと思ったら。まだまだ考えが甘いみたいだね」

「…………」

「ま、あんたはせいぜい頑張って武勲とやらを立ててな。でも、普段の訓練についていくのもやっと、なんてお姫様に何ができるかね」


 そう言い捨ててアチェは立ち去っていった。次の訓練の始まる時間だった。


 ティードリーアは深く息をついて思った。


 ――確かに、自分だけが孤立しているわけではなさそうだ。けれど……ここでは皆が独りだ。それはあまりにも寂しすぎないだろうか。死と向かい合わせだからかもしれない。でもだからこそもっと温かみのある雰囲気をもつべきなのではないだろうか

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