ワレギアの剣
大きな目を見開いて、ティードリーアは尋ねた。
「私がゲルガンド将軍の……養女、ですか?」
その緑宝石のような瞳にはありありと困惑の色が浮かんでいる。いつも感情を出すのに慎重な性格な彼女の、その無防備な表情をゲルガンドは不憫に思った。
ティードリーアは事態を受け止めかねていた。勿論最初から、皇女と一、二度の遣り取りだけで自分の望み通りに事が運ぶとは思ってはいなかった。ただ、家族も故国も失った自分に許婚だけは戻ってくるもの、という彼女の願いは彼女自身が思うより大きく深く、そして狂おしいものであったのだ。
ティードリーアの動揺をよそにゲルガンドは続ける。
「済まない、ティードリーア姫。皇女は大層立腹しておられて……。過去にいろいろあって……。皇女は王族出身の女性を快く思っていない」
それにしても。いくら母后の件があるにしろ、皇帝親娘の王族に対する敵意と蔑意がここまで強いとは、ゲルガンドも予想していなかった。
ティードリーアも皇女の母后の悲劇は耳にしたことがある。それで王族の自分は厭われるのだろう。彼女は半ば放心したように呟く。
「私が王女というだけでお気に召さないのであれば、ましてやその母が異教の巫女、しかも夫と子を殺し、さらには皇族の貴方まで手をかけようとした謀反人であることは、大層ご不快なのでしょうね……」
「…………」
「私を処刑してしまえ。そういったお話が出ても不思議ではありますまい」
ゲルガンドは彼女の聡明さに改めて舌を巻いた。
一方、ティードリーアの心中は……。自分で口に出したことで彼女はやっと事態を飲み込み、そして、自分を気の毒そうに見ているゲルガンドから堪らず顔をそむけた。
胸に猛り狂うのは怒りだ。それもゲルガンドに対する……。それが理不尽だと分かっていても、彼女はこの怒りを鎮めることができない。
――貴方はこんな酷い話を私に聞かせておいてどうしてそんな平静でいられるのですか!
――皇女を以前からご存知なら、皇女のご気性もよくお分かりのはず。どうして私にぬか喜びをさせたのですか!
ゲルガンドが自分ほどには動揺していないことが彼女には堪らなく憤ろしいのだ。彼女の目から涙が溢れ、ポタポタと床に滴り落ちる。
彼女は唇を噛んで、感情に流されず踏みとどまろうとした。
――いけない。この方を恨んではいけない。この方にはこの方の立場があるのだ。それに自分は一国の王女なのだ。こんなことで取り乱してはワレギアの名に傷がつく――。
彼女は再び顔を上げてゲルガンドを見た。涙は未だその頬に残したまま、それでも強いて口角を上げて笑みを作ろうとする。
「私を養女にすることで、ゲルガンド将軍は私をお守りくださったのですね。お礼申し上げます。実父のガルムフも喜んでおりましょう」
そして尋ねるべきことを尋ねる。
「……これからは貴方様をどうお呼びしたらよいでしょうか? やはり義父上、でしょうか?」
義父と呼ばれるのはゲルガンドも寂しい。
「……それはおいおい決めていけば良いと思う。ただ、私の方は貴女をもう姫、とは呼べないな。『君』と呼んでも構わないだろうか?」
「……勿論です」
呼び方はむしろ親密なものになったのに、二人の間を隔てるものは絶対的に大きい。これからは一生この方と結ばれることはない。そんな望みを持つことさえ忌まわしい罪になる。どうしてもこらえられない涙が一筋、彼女の頬を伝った。彼女は俯いて手の甲でそれを拭うと、そのまま踵を返した。
「……い、します……」
彼女はどうやら失礼しますと言ったようだったが、その声は涙に濡れてゲルガンドにはよく聞き取れなかった。彼女はそのままゲルガンドの顔を見ずに立ち去って行った。
扉の閉まる音の後、バタバタと駆けて行く足音。それが遠ざかるのを聞きながら、ゲルガンドはガルムフの言葉を思い出していた。ティティは聡すぎる……。これ程聡く、分別もある若くて美しい娘がどうして幸せになれないのだろう――いや、自分は幸せに出来なかったのか。彼はガルムフに申し訳ない気持ちで一杯だった。
この日以降、ティードリーアは自分に与えられた部屋に篭って塞ぎ込む日が続いた。
もともとこの「森の国」には陰気な場所だという印象しか持てなかった。ワレギアから草原を抜け、慣れない山越えをし、黒い森に下りて来たとき、まるで旅の疲れが倍増したかのような気がしたものだ。
自分よりも背の高い木が――ワレギアにはそんな木は数えるほどしかなかった――無数にひしめき合っている。幾重にも枝葉が重なり、森の中には日の光も十分届かない。薄暗くていつも何かに覆われているような息苦しさ。そして地面からは、じめじめと湿った土の匂いが立ち上り不快な気分になる。それに、ワレギアでは見たことも無い、苔だの羊歯だのといった不気味な植物が地を覆っている。
ゲルガンドの邸宅に到着し、「どこでも好きな部屋を使ってもよい」と言われたとき、彼女は躊躇わず「あの木の群れよりも高い階の部屋なら、どこでも構いません」と答えた。口に出した後で厚かましかったかと彼女は少し後悔したが、ゲルガンドは彼女が何か願い事をしたのに嬉しそうに頷くと、最上階の見晴らしの良い建物を彼女に与えた。
森の上に這い出て少しだけ解放感はあったけれど、それでもここはワレギアとは違うのだと思い知った。ワレギアでは草原をぐるりと見渡せば、どこからでも地平線を見ることができた。しかし「森の国」ではいくら高く昇っても、人の造った建物よりずっと高い峨々たる嶺が壁のように立ち塞がり、視線を断ち切ってしまう。この壁より遠くを見たければ、視線を上げなければならないが、そうして見えるのはただの空だけだった。
季節は夏だとこの国の者は言う。しかし彼女にはこれが夏だとはとうてい思えない。高い山脈に囲まれた盆地の中にあっては、日が昇るのも遅ければ日が暮れるのも早い。標高が高い為かいつまでたっても気温が上がらず、森の湿気がひんやりと街中を覆う。
ワレギアの夏はこうではなかった――。彼女は溢れる涙をそのままにしていた。誰にも見られず泣いていたかったから自分はこうして部屋にいるのだから。故国の夏。強い日差しにカラっとした熱風。開放的なつくりの衣の袖や裾をはためかせて駆け回り笑い転げていた日々。
そう、暮らしぶりもこことは随分違っていた。王女といってももっと自由だった。ワレギアの服は袖ぐりが広く、腕を回しやすかった。腿まであるストンとした綿か羊毛の上衣を被り、腰を帯で締める。下は「森の国」の女性のようにスカートをはいても良かったし、男物のズボンをはいても良かった。そうやって、午前や夕方の涼しい時には草原を走り回り、冷たい井戸水で身体を洗う爽快さ。自分にはもうあんな楽しい時間は戻ってこないのだ。
――こんなことは考えてはいけない。
ティードリーアは首を振りながら立ち上がった。今の自分は、命があるだけでも感謝すべきなのだ。お父様、お母様、ダルン、そして新旧の信仰による争いの中で命を落とした人々を思えば。
ワレギアからじいや宛てに送られてくる手紙には、あれ以来血が流れるような争いは絶えているという。これでよかったのだ。自分がワレギアを去ることで、ワレギアに平和がもたらされたのだから。
――それに――。
彼女は姿見の前に立った。「森の国」のドレスを身に纏った自分がその中にいた。首が高く、胴もまるで締め付けるかのように身体の線にぴったり沿った、そして裾のやけに長いスカート。窮屈極まりないけれど、この国の高貴な女性はこのような服を着るそうなのだから仕方ない。堅苦しいのはともかく、このなめらかな絹で仕立てられ、ふんだんにレースや襞などの装飾が施されているドレスがかなりの高級品であるのは彼女にもわかる。
彼女の身の回り一切は、ゲルガンドの母が整えてくれた。
「まあ。こんな美しい孫ができるなんて、なんて嬉しいことでしょう」
ゲルガンドの母は彼女の身の上を心から気の毒に思い、実の孫娘同様に可愛がってさしあげようと思っていた。
――祖国を追われ、皇帝親娘の不興を買った自分なのに、この邸宅では姫君として大切に遇されている。だから、寂しがってなんかいてはいけないのに……。
そう思いながら、彼女はゲルガンドの母と交わした別の会話を思い出す。一度彼女はこの老貴婦人に「この街のどこに商店や市がありますか」と尋ねたことがある。
「あら、ティードリーア姫はご存知ないのですね。この国にそのようなものはないのです。皇都は政の街です。必要なものは、商業の盛んな『石の国』の商人達に持ってこさせるのですよ」
そうですか、と答えながら、彼女は内心かなり落胆した。
ワレギアでは、時々市に立ち寄って、あれこれ見て回るのが楽しかった。何も自分で買わなくても、その活気に触れるだけで楽しかった。けれどここには商店すらない。
――寂しい――。この街は寂しすぎる。
ティードリーアは、ゲルガンドがワレギアに来るたびにいつも旅に出る楽しさを語っていたのを思い出した。私も、一緒に旅に出ることができたらいいのに。彼女は窓に近付いた。見上げても空しか見えない。あの空の向こうに行きたい。彼女は溢れる涙を拭いもせず、身を乗り出すようにして天を見つめていた。
ゲルガンドはできるだけ自邸に居ることにしていた。部屋に篭ってばかりのティードリーアのことが気にかかる。母君も彼女のことを気に入り、実の孫のようにあれこれ世話をやく。またワレギアから付いてきたじいやとばあやも彼女の気を引き立てようと懸命だ。
けれど、そういった周囲に対して、かえってティードリーアの方が気を遣っているのが彼にはわかる。彼女は自分の感情や願いを外に出す性質ではない。その分余計に、ゲルガンドはこの義娘となった彼女が心配だった。
そのようなゲルガンド邸の人々の思惑など全く関係なく、皇女からは頻繁にお茶会の誘いがやって来る。ゲルガンドはできるだけ断るようにしていたが、三回に一回くらいは出席しないわけにはいかない。
何度訪れても、あのやたら少女趣味の部屋も、皇女のお喋りの幼さも変化は無さそうだった。ゲルガンドは会うたびに不快感を露にするようになった。すると皇女の方もむきになって、部屋を飾りたてお喋りの言葉数を増やしていくのだった。
ある日、ゲルガンドにとっては朗報が届いた。東方の辺境の国ルードウが蛮族の襲来を受け、帝国軍の支援を仰いでいるという。
当然帝国軍元帥たるゲルガンド将軍が遠征に出ることになる。皇女は不満そうだったようだが、ことは帝国の防衛や領国との信頼関係の問題であり、スヘイドもさすがに皇女の我侭を聞きいれなかった。
――東方へ遠征。
そう聞かされたティードリーアにある考えが閃いた。自室の隅にうずたかく積まれた、ワレギアから送られて来たものの未だ開梱していない荷物を、次々に開き始める。そして目当てのものを取り出した。それは、以前の彼女がそうしていたまま、丈夫な皮袋に入っていた。彼女はその袋から片手で中身を抜き取る。それは、ワレギアに伝統的に伝わる女物の剣だった。
「君が軍に入る?」
珍しく自室を訪ねてきたティードリーアの言葉にゲルガンドは驚いた。
「はい。私は剣と馬の扱いには慣れています。もともと好きでしたし、それにゲルガ……いえ、義父上様にも帝国風の剣技を教えていただきました。帝国軍にも女性兵士が少数ながらも居ると聞いています」
「それは確かに居るには居るが……」
ゲルガンドは溜息をついた。
「君にはいずれ誰か貴族なり私の部下なり相応しい男を見つけて、この私の娘として嫁がせようと思っていたのだが……」
「……申し訳ありません。でも、私はこの『森の国』に居たくないのです」
ゲルガンドは再び息を吐いた。自分自身が「森の国」を厭って旅に出てばかりいたのだ。この点彼女に説教がましいことを言う資格などない。それにこのところの彼女の塞ぎ込みようを見ていれば、確かに旅に連れ出した方がいいのかも知れない。
「わかった。とりあえず今回の遠征には同行を許そう。ただ、もしずっと軍人でやっていきたいのなら、少し言って置かなければならないことが二点ある」
「はい」
「一つは鍛錬の事だ。君の剣技や馬術の巧みさはすばらしいが、如何せん体力、筋力に欠ける。これを男並みに鍛えるのだから道のりは厳しい」
「大丈夫です。乗り越えてみせます」
「それから二点目。風紀上、軍隊内で恋人を持つのは厳禁だ。特に上官と部下の場合は禁忌だ。上官は軍法会議にかけられ、それまでの地位も名誉も剥奪されて放逐となる。部下の方は残ったケースもあるが、軍隊内での出世はかなり遠回りなものになる」
ティードリーアは苦笑して首を振った。ゲルガンド将軍以外の誰に恋など出来るというのだろう。彼女のその仕種に彼も複雑な思いを抱いたが、これについては何も言いようがなかった。
「軍を辞めたくなったらすぐ私に言いなさい。私がこんなことを言ってよいのかわからないが……。ティードリーア、君には女性として幸せな人生を送って欲しいと私は願っている。しばらく軍隊に入って気が晴れたら、すぐ軍人などやめて、その後は『森の国』でよき伴侶を得て穏やかな幸せを送って欲しい。そう思っている」
「ご厚意感謝申し上げます」
しかしながら、彼女はその死の直前までワレギアの剣を携え、帝国軍の軍人として過ごすことになったのだった。
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