亡国の王女
ティードリーアの部屋。ゲルガンドとガーグンが、寝台の傍でティードリーアの意識が戻るのを待っていた。ゲルガンドが小声でガーグンに尋ねた。
「『魂戻しの儀式』とは何でしょうか?」
ガーグンは唇の片方をかすかにあげた。苦笑を浮かべようとしてのことらしい。
「死者の魂を巫女が戻すという儀式が、ワレギア古来の『精霊の信仰』にあるのです。いや、私は『河の信仰』に改めた者なのですが……、しかし、いざと言うときには旧来の信仰が出てくるものですね。『河の信仰』の守護者の一族の貴方にはご不快だったかもしれません」
「いいえ。とんでもない」
ゲルガンドはガルムフの最期を思い出す。彼も「精霊になりたい」と言っていた。人間の死生観というものはそうそう簡単に塗り替えることは出来ないのだ。
「それで……お母様は『魂戻しの儀式』をなさったの?」
二人は驚いて振り返る。寝台の上で、ティードリーアが半身を起こしていた。けれどその顔色は悪く瞳は潤んでいる。
「お母様がお父様とダルンに毒を盛ったのね? それで……それで二人は……?」
ガーグンが静かに、簡単な事実だけを告げた。
「二人とも亡くなった。王妃は『魂戻しの儀式』はしなかった。今王宮の一室にいる」
王妃は『魂戻しの儀式』をしなかったばかりか、このような事態を招いた者達、すなわち新教に寝返った者達への呪詛の言葉を狂ったように喚いていた。取り押さえられた今、王妃は手足に枷をはめられて牢に繋がれている。
ティードリーアの大きな瞳から涙がハラハラを零れ落ちた。そしてたまらず前に突っ伏ししばらく号泣していた。
けれども、やがて自分で身を起こし寝台の傍の卓に手を伸ばした。卓の隣に座っていたガーグンが卓上の手布を渡してやった。ティードリーアはその手布で涙を拭い、そして背筋を伸ばしてガーグンをまっすぐ見詰めた。
「それで今後はどうなる……、いいえ、どうすればよいのでしょう? ガーグン叔父様」
ガーグンは、彼女の手の中で固く握り締められている手布を見、気丈に振舞う彼女を痛ましく思いながら、沈痛な面持ちで説明し始めた。
「王妃の兄が兵を起こした。彼の身柄も拘束している」
ガーグンの命で兵士が王妃の兄の邸まで駆けつけた時、まさに相手も出撃しようとするところだった。ただ、王妃の兄側はここで王の兵士と戦うとは思っておらず、不意をつかれた形となり、この紛争はガーグン側の勝利となった。
「ワレギアは今、旧教と新教に分かれて血で血を洗う争いが続いている。今回の王と王子の暗殺はその中でも最大の悲劇だ」
ガーグンはティードリーアにしっかり視線を合わせて言った。
「しかし、この悲劇はこれで最後にしなければならない」
「ええ」
ティードリーアも叔父の顔から目を逸らさず同意する。しばらく間を空けてからガーグンは切り出した。
「王妃が生きている限りワレギアの混乱は続く」
ということは王妃を生かしてはおけないということ。ティードリーアの顔が強張る。ガーグンは続けた。
「新教と旧教が対立している、さっき私はそう説明した。しかしこれは正確な表現ではないと思う」
ティードリーアは硬い表情の中に微かに訝しげな様子を浮かべた。
「私は、自分はすっかり新教に染まったつもりだった。しかし私は、そしてガルムフ兄さんも『死』という重大な場面にぶつかった際、とっさに拠り所としたのは旧来の『精霊の信仰』だった。私は本気で『魂戻しの儀式』を王妃にして貰いたかった。して貰えれば、せめて甥のダルンだけでも……」
ガーグンの声が震える。彼も決して冷静なだけではないのだ。
「兄さん……兄さんの最期の言葉は『精霊になりたい』だったそうだ。精霊になってティティを守りたい、とそう言って……」
彼は堪えきれず片手で口を覆った。閉じた目から涙が流れる。ティードリーアも手にしていた布に顔を埋め嗚咽を洩らす。
ややあってガーグンは再び語り始めた。
「民の多くも私と似たようなものではないかと思う。未来のことを考えれば新教の存在を無視できない。けれども身体に染み付いているのは旧教だ。新旧に民が二分されているように見えるが、しかし多くの民の心には新旧どちらも在るのではないかと思う。違いはその濃淡だけで、民の中にはっきりした対立は実は無いのではないだろうか。今回の件で私はそう思った。そしてそこに悲劇の連鎖を断ち切る可能性があると考えている」
「……わかるような気がします」
「ただし――。王妃とその周辺は旧教しか認めず、対話すら妥協と思っている。そして今後もたとえ少数でもそういう考えの者も出てくるだろう。また、信仰とは関係なく、国に不満を持つ者というのはいつでも居るものだ。そしてその中には、ことを信仰の問題にすり替えて、ワレギアの中に新教旧教の対立軸を設け、それを利用する者も出てくるだろう。王妃が生きている限りワレギアに紛争は絶えない」
「お母様がお考えを変えたら……。そうすれば……。それを待つことは出来ませんか?」
ティードリーアの声は逼迫したものだったが、ガーグンはきっぱり答えた。
「在り得ないと思う。息子まで手に掛けたのだ。余程強い意志がなければそんなことは出来ない。それに今後も自分の信念に固執するだろう。でなければ息子を殺めたという事実の重さに耐えることはできないだろうから。それに――」
ガーグンの声音が少し躊躇いを帯びた。
「王妃のお考えがどうであれ、旧教の巫女という者が居るというだけで争いの火種は残ると思う」
これはお母様のことだけを言っているのではない、と聡明なティードリーアはすぐに悟った。これは次の代の巫女、つまり自分のことも指しているのだ。
彼女は瞬き一つの後、視線を落とした。父も弟も死に、そして母も処刑される。婚約者と思っていた男性はもう赤の他人。そして巫女としての自分は国の邪魔者――。彼女は自嘲気味に、投げ捨てるように言葉を吐いた。
「……では、私も死ぬべきなのでしょうね」
「何と言うことを!」
ゲルガンドが叫んだ。今まではワレギアの国内問題ゆえ黙っていたがこの先は違う。ガーグンも言い添える。
「ティティを幸せに守って欲しい。ガルムフ兄さんはこのゲルガンド将軍に言い残された」
ティードリーアが困惑する前にゲルガンドが畳み掛けるように言う。
「そうだ。ティードリーア姫。貴女は私がお預かりする。貴女は私の親友の愛娘だ。必ず幸福に生きられるよう、私が全力でお守りする!」
幸福? 今のティードリーアにはその言葉は随分遠いものに感じられた。確かに二日前までの自分は幸福だった。優しい父に見送られ、とても素敵な男性の許に嫁ぐ日を待つ。じいやとばあやと一緒に賑やかに嫁入り支度をし、一人になれば頬を染めて新婚生活のあれこれを想像する、そんな心浮き立つ幸福な時間を確かに自分は過ごしていた。けれど、今はそんなことがあったと思うのさえ恨めしい。
「……私を預かってどうなさるというのでしょう。貴方様は私と結婚なさらないと決まったことですのに……」
「私の意志ではない。全ては皇女の気まぐれによるもの。そう、皇女もご自分があまりに突飛な行動に出たことにお気がつかれる日も来るかもしれない。とにかく、結婚するかどうかはともかく私は貴女を家族として、ガルムフに代わって大切に大切にお守りするつもりだ。絶対に」
もし皇女の気持ちが変われば……。まだ十四歳の少女の胸に甘い夢が再び姿を見せ始める。お父様の親友。小さい頃から優しくして下さった方。父から婚約を聞かされてからは、その精悍な体つきに、低いその声に、強いその眼差しを見る度に、私の身体の奥の奥――心と交わっているその部分が震えるような気分になるこの男性。自分がこの方と結ばれる可能性はまだ残っているのかもしれない。
先ほどの叔父の話で、自分はもうこの国に居場所はないことは分かった。だから普段は聡明で理知的で強い彼女も、その時はこう判断したのだ。この甘い夢が自分の背を押してくれるなら、その夢に自分を委ねてしまおう、と。
この先、彼女は死の直前まで、この時の判断は正しかったのか何度も自問することになる。
その夜、ティードリーア姫は自分の乳母とその夫と共に、僅かな荷物だけを持って、ゲルガンド将軍とともにワレギアを出た。そして二十年近く後、彼女の夫が彼女の魂を持ち帰るまで、彼女が生きてワレギアに戻る日は来なかった。
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