王宮の惨劇

 ガリゴリガリゴリ……。床に蹲った女が鉢の中で何かを砕いている。朝日は昇っているのに、窓布をあけず部屋は薄暗い。女の髪は伸ばし放題で何も手入れされていない。身に着けている衣服はワレギアの伝統的な巫女の衣装だった。


 女は小声で何事かを呟いている。


 ……ワレギアは古来精霊の守る国なのに。死んだ先祖が、風の精となって空気を動かし、草の精となって小さな種を茫々と茂る草叢に育てる。火の精の御意志に背けば、火打石をいくら打っても火はつかない。空も、太陽も、雲も、雷も、霜も、この世界の全ての物には精霊が宿り、その精霊が動かすからその物が現れる。ああそれなのに……。


 帝国の者は何もわかっていない。死者の魂は「河」とやらを流れて「海」などという場所で休むだと? 馬鹿馬鹿しい。ならば何故樹木が育ったり、風雨が生じたりするというのだろうか? 死者が正しく祀られて死出の道を辿れば、精霊となる。この精霊が私達の世界を動かしているに決まっているのに。帝国の者はそれを理解しようとしない……。


 ぶつぶつとそう言いながら、女は鉢の中身を磨り潰す腕に、ますます力を込める。


 ギイイー。


 部屋の扉を開けて老婆が姿を現した。片手で扉を念入りに閉め、部屋にそっと入り込んで片腕に抱えた草の根の束を差し出す。


「キョウチクの根を取って参りました、王妃様」


 草原には色も背丈も様々な草が群生している。しかしキョウチクは群れず、そのかわりワレギア中の至るところにポツンポツンと生えている。真冬で水が凍るような寒さの中でも、深々とした緑の葉を子供の背丈程も茂らせる生命力の強い草。その強さ故か、その根を煎じて飲めば心の臓の働きを盛んにする。しかし、大量に煮詰めたなら、それは強力な毒薬となる。


「では、小さく千切ってこの鉢に入れておくれ。他の毒と混ぜ合わせるから」

「王妃様……」


 老婆が躊躇いを含んだ声で話しかける。


「本当に夫君と息子君を、お、お、お殺しになるおつもりですか……」

「夫? あんな男は夫でもなんでもない。『河の信仰』などという邪教にとりつかれワレギアを滅亡に導こうとするあんな男など、夫と呼ぶのも汚らわしい」


 王妃は吐き捨てるように言う。


「私の実家をはじめとする他の多くの部族の反対を押し切って、帝国の『河の信仰』をワレギア国の公の信仰とするなどと口にし、王だというのに精霊を祀る儀式もしない。我々生者が正しく祀らなければ、精霊も動くことができない。私には聞こえる――。生者の支えを失い、力衰えて消えようとしている精霊達の慟哭の声が。これまで私一人で支えてきたが、限界がある。そう、私たった一人では!」


 ここで王妃は激した様子で顔を上げた。双眸に憎悪の炎が燃えている。そう私は一人になってしまった。この国で巫女として精霊の声を聞くことができるのは私の一族の女だけ。老母が亡くなったのは老齢のためかもしれない。しかし、二人居た姉は。事故だと聞かされているが、絶対にあれは邪教に寝返った者による暗殺に違いない。一人居た姪の病死も邪教のまじないのせいだ。巫女を出す家系で残っているのは、私とティティの二人だけ。


「それなのに、ティティまでっ」


 王妃は両の拳を強く握る。近頃は私の娘、ティードリーアまでもあの男、邪教に魂を売り渡した男の肩を持つようになった。「帝国の存在は無視できないわ。お母様。ワレギアと帝国と並存しながら、ワレギアの伝統を生かす道を考えた方がいいと思う」。そんなことを言うようになった。


 しかも、あろうことか、帝国皇帝の従兄弟に嫁がせようという父の企みに乗せられ、最近ではこの母の顔を見にくることも少なくなった。


「許せぬ。巫女の家に生まれていながら、重大な責任を逃れて自由になろうなど……そのような勝手なことは絶対に許せぬ」


 王妃は再び床の上の鉢を見る。


「こうなった以上、強硬な手段にでるしかない。王と王子を殺し、我が兄君を王に立て、巫女の血統をティティに受け継がせなければ……」

「けれど王妃様。王はともかく、王子さままで……。あんなにお可愛らしい、まだ稚いお子様を……」


 老婆の涙声を聞いて、王妃の目からもはらはらと涙が零れ落ちる。可愛い息子だった。ティティも可愛い娘だが、ダルンを産んで男の子とはこれほど可愛いものかと思ったものだ。


 乳を呑んでいるとき、この母の乳房を抱えていた紅葉のような赤く小さな拳。私の姿を認めて、精一杯急いで四肢を動かし這い寄ってくる時の満面の笑顔。パタパタと軽い足音がしたかと思うと、後ろから私に抱きつき「かあしゃま、だあいすき」と告げてくれたあの愛らしい口調。


 王妃は床に突っ伏し、嗚咽を洩らす。目から涙が滂沱と流れ、袖で拭っても拭っても止まることがない。眼の周りも鼻の辺りもこすれて真っ赤になってしまっている。臓腑をえぐらているかのような苦悶の表情で母は泣き続ける。


「王妃様」


 別の若い侍女が扉を開けて中へ呼びかけた。薄暗い部屋の異様に悲愴な様子に一瞬立ち竦む。老婆に「何用じゃ」と問われ、恐る恐る用件を述べた。


「今夜、ゲルガンド将軍がお越しになるそうです。王妃様、歓迎の宴は……いつもどおりご欠席なさいますか?」


 王妃はわななくような溜息を一つもらし、姿勢よく立ち上がり威儀を正して若い侍女に答えた。


「当然のこと。邪教の守護者などと同じ空気を吸うのも汚らわしい。……まさか。あの男は今回ティードリーアを連れに参ったのではあるまいな?」

「いえ。それが……。姫様とのご縁談は破棄ということでございます。……おかわいそうに、姫様はお部屋に篭ってずっと泣いておいででございます」

「何と無礼な……」


 一瞬王妃の顔に怒りが浮かんだが、すぐに何かを考える風になった。


「それでは、今宵の宴に出るのは王と王子とゲルガンドの三人。ティードリーアは出席しないのだな?」

「はい」


 やがて若い侍女は下がった。


「王妃様……」


 老婆が声をかける。王妃は、侍女に相対していたときの毅然とした姿勢のまま、強張った顔で目を瞑り、自分自身に言い聞かせるように言った。


「精霊達がお膳立てをしてくれた。これはもうこの道を進むしかないのだ。精霊の守り給うワレギアは危機に瀕しているのだから。仕方がないのだ……」


 そう言いながらも、その目からは涙が幾筋も流れ落ちていった。

 


 ゲルガンド歓迎の宴にティードリーア姫の姿はなかった。


「やはり、姫は傷つかれただろうか……」


 いつもなら必ず顔を見せてくれるのに。ゲルガンドは心配になってガルムフに訊ねた。


「まあ、若い娘だから。それに相手がお前だということで、のぼせてはいたようだ。お前を夫にできないのは残念だが、ティティも失恋の一つや二つ経験しておくほうがいいだろう」

「済まないことをした」

「大人になるには必要な経験だ。恋に浮かれてそのまま結婚しても上手くいかない夫婦だっている」


 それはガルムフ自身の結婚のことだと容易に察せられた。


「まあ、人生には辛いことも楽しいこともある。そして楽しむべきときには楽しむのが大切だ。さあ、今日は春の香草入りの酒だ。大いに飲んでくれ」


 侍女がガルムフとゲルガンドの盃になみなみと酒を注ぐ。そのまま王子の椀にも注いだのでゲルガンドは驚いた。


「子供に酒を飲ませて大丈夫か?」

「大丈夫。これは食前酒だからな。ごく弱い酒だ、子供だって飲むものだ」


 そういってガルムフは一気に盃を仰いだ。父王が盃を取り上げたのを見て、王子も椀を持ちすすり始める。


 それを見てゲルガンドも自分の盃を口元まで持ってきたが、その時。ゲルガンドの手がぴしゃりっと叩かれた。衝撃で盃を取り落とす。驚いて手の主を見ると、それはガルムフだった。


 しかしゲルガンドは目を疑った。先ほどまで何もなかったガルムフの顔が赤黒く染まり、口角から泡がはみ出ている。血走った目が何かを訴えているが、それが言葉にならない。


 ゲボッ。


 ガルムフは床に手を着き血の塊を吐き出した。そして顔を上げようとしたが、腕に力が入らないのかそのまま自分の吐瀉物の中に突っ伏してしまった。


 同じ部屋の少し離れた場所からも悲鳴があがり、怒号が続く。


「キャーッ! 王子様!」

「毒だ!」

「解毒剤、誰か解毒剤を持って来い!」


 王子にも異変があったのは間違いない。大丈夫だろうか。そちらも案じながら、ゲルガンドは家臣に抱きかかえられたガルムフに顔を近づける。


 ガルムフは何か言葉を発していた。喘鳴の中に消え入りそうな、力ないその声を何とか聞き取ろうとゲルガンドはガルムフの唇近くまで耳を寄せた。


「ティティを……頼む。アレは……妻は……ティティだけは殺さないはずだ……」


 王妃が毒を盛ったのか。夫とそれに息子にまで! ゲルガンドは愕然とする。


「ティティを、ティティを宜しく頼む……幸せに……」


 ゲルガンドは大声でガルムフの耳元で叫んだ。


「大丈夫だ。ティードリーア姫は私が責任を持ってお守りする!」


 ガルムフの苦痛に歪んでいた顔が微かに緩んだ。そして呟く。


「俺は……精霊になりたい。空気の精となり、ティティの傍に……。ティティ……」


 そうしてふうーっと長く息を吐いた。ゲルガンドは次の呼吸を待ったが、それがガルムフの最後の一息だった。


「姫様!」


 誰かの叫び声が聞こえて、ゲルガンドはその方を振り返った。ティードリーアが部屋の入り口付近で気を失っていた。宴の広間の騒然とした物音を聞いて様子を見にきたのだろう。


 可愛そうに――。母親が父と弟を毒殺した。この事実は若い娘にあまりに重過ぎる。ゲルガンドは深く溜息をついた。


 若い男が一人立ち上がった。


「王妃をこちらに連れて参れ! 『魂戻りの儀式』をさせる!」

「でも、毒を盛ったのは王妃ご自身でございましょう」

「息子の死体を見れば後悔するかもしれん。――しなくても、王妃の身柄を押さえておかなければならない!」


 男は何人か同席していた武人達に声をかけた。


「王妃の兄を押さえろ。兵を挙げる準備をしているはずだ。遅れるな。先手を打て!」


 弾かれたように皆飛び出ていく。ゲルガンドは彼がガルムフの弟ガーグンであることを思い出した。


 ガーグンは一通り事態を収拾させると、ゲルガンドの許に来て声をかけた。


「お騒がせして申し訳ない。ゲルガンド殿」

「いや……。こちらこそ……私が悪かったのかもしれない」


 帝国がこのワレギアに「河の信仰」を持ち込まなければ。皇帝の従兄弟の自分がこの家族に近寄らなければ。そうだったなら、こんな惨劇は起こらずにすんだのではないだろうか。


 ガーグンは目を伏せただけで何も言わず、軽く頭を下げただけで踵を返し、気を失い侍女に介抱されているティードリーアの傍へ向かった。

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