最後のワレギア
「……年齢が随分離れているだろう」
ホイガの来訪を受け、自邸に招き入れたゲルガンドは、その用向きを聞いて暫し絶句した後、呆れた声で言った。
「だいたい私は皇女とろくに口をきいたこともない。昨日お茶を飲んだぐらいしか接点はない……」
そしてその時彼は思ったのだ。あの草原の国の王女にくらべてこの皇女はなんと幼いのだろう、と。
「皇女様は、将軍のお姿を一目ご覧になって恋に落ちてしまわれたのです」
「恋……」
小声で呟いたきり、彼はしばらく言葉を紡げない。
「……皇女はまだ十ほどの子供でいらっしゃるのではなかったか?」
「御年十三でございます」
「十三歳ならまだまだ子供だ。それが一目見て気に入ったからといって……。真に受ける皇帝陛下もどうかなさっている」
ゲルガンドの口調に苛立ちが混じる。この男の前で皇帝を非難してはならないことは分かっている。ホイガが皇帝の間諜であることくらい初めから知っている。もっともホイガの方も、自分が間諜であると彼に知られていることは承知しているだろうが。それでも今回の話に関してはこれくらい強く言ってもいいだろう。ゲルガンドはそう判断した。
「皇女も何か面白い玩具でも見つけた気でおられるのに過ぎまい。少し時間が経てば気も変わられよう」
ホイガは含みのある調子でゆっくりと答えた。
「ゲルガンド将軍。貴方は決して玩具などではございませんでしょうに……」
男達は互いに視線を逸らさず、軽く睨むように相手の顔を見つめる。
ゲルガンドは考えをめぐらしていた。皇帝やホイガ達が、この自分を皇女から皇位を奪いかねない危険人物だと考えていることは彼も知っている。自分がリザ皇女の夫となるのは、彼らにとって災いの種が消えてなくなるようなものだ。
――これでは単に大人の思惑で決めているだけではないか。
この時点では、ゲルガンドは皇女をむしろ可哀想に思っていた。
「結婚とは一生の大事。ふとした気まぐれを一言洩らしただけで、こう何もかも決められてしまっては、むしろ皇女が気の毒というもの。少し皇帝も考える時間をお取りになってはいかがだろうか」
――まあ、それが妥当な答えでしょうな。
ホイガもゲルガンドがいきなりこのような大事を了承するとは思っていなかった。それでも彼は、念を押すようにゲルガンドの黒い瞳を強く見つめて言った。
「将軍。貴方に皇女様の恋心が向けられていること。これはけしてお忘れなきよう」
「…………」
「皇女様は大変誇り高くお育ちです。皇帝陛下が皇后陛下の轍を踏むようなことは決してあってはならぬ、とそのようにご教育なさいましたから。皇女様を傷つけるということは玉座に傷をつけることに等しいことはわきまえてくださいませ」
それだけ述べて、ホイガは一礼してゲルガンドの部屋を出た。
ホイガがゲルガンド邸から馬に乗って出てこようとしたとき、その出口を塞ぐように馬車が止まり、中から老齢の貴婦人が出てきた。目の色髪の色、どちらもこの「森の国」の者とは全く異なる。そういえば、ゲルガンドの母親は遠く北西にある国、ルキア王国の王女だった。この老婦人はゲルガンドの御母堂だろう。
――チッ。
小さく舌打ちをしてホイガは馬から下りた。廷臣に過ぎない彼は、馬と共に貴婦人のために道を空けて頭を垂れる。
――王族の女。皇宮の奥であの繊細な姉を傷つけ死に追いやった女達。
彼は胸に湧く怒りを抑えきれず、貴婦人が通り過ぎる前に顔を上げた。ホイガの双眸に激しく燃える憎しみを見て、老婦人はわずかにたじろぐ。ただそれは一瞬で、老貴婦人はすぐ冷静な顔に戻り息子の邸宅に入っていった。
――何だ、あの瞳の色。
ホイガは小声で吐き捨て、再び馬に跨り帰路についた。彼は王族の女の容姿が嫌いだった。「森の国」の人間ならば、瞳と髪の色はたいてい、トゥオグルほどはっきりした黒でなくても、木の幹や土のような茶色、森や下草のような緑色など自然に見られるような落ち着いた色だ。ところが、帝国内の各国から皇帝家に輿入れしてくる女達といったら。目を射抜くような緋色だの、珊瑚とやらの色だの、染物でしかありえない鮮やかな青だの。
――薄気味悪い。
特にゲルガンドの母親の持つ瞳の色といったら――濁った赤、まるで静脈の血のような。
――ふん。血の穢れにまみれて皇位から遠ざかる息子の母親にはお似合いだ。
ホイガは冷たい笑みを浮かべながら、ゲルガンド邸から去っていった。
「母上」
そう声を掛けて出迎えたゲルガンドは、母の背に合わせて身を屈める。母親はにっこり微笑んで息子の両頬にキスをした。そしてもうすっかり背の高くなった息子に祝辞を述べる。
「元帥におなりになったのね。おめでとう、ゲルガンド」
それから少し悪戯めいた目で続けた。
「それに、他にもおめでたいことがまだあるのですってね」
ゲルガンドは苦笑した。ワレギアの王女と結婚するかもしれないと母に知らせていたのだった。
「実はそれは延期に……。いや、いっそ破談にしてしまった方が彼らのためかもしれない……」
最後は独り言のように呟く息子を、母親は考え深そうに見た後自分から部屋に入ろうと促した。
「奥で話をゆっくり聞きましょう。さっき皇帝の側近の者に会いました。あの男の用件も気になります」
「何と我侭な娘でしょう!」
老いてもなお矍鑠とした貴婦人は、息子に勧められた椅子に姿勢よく座っていた。そしてリザ皇女の一件を聞くにつれてますます背筋を伸ばし、最後にぴしゃりと言った。
ゲルガンドの母は皇帝家には忠誠を誓っていても、現皇帝には良い感情を持っていない。ゲルガンドは老齢の母をこれ以上興奮させたくなかったので、話題を善後策に進めようとする。
「私は近いうちにワレギアに行って、ガルムフに事情を話し、ティードリーア姫との結婚を取りやめにしようと思います」
「そうね。早いほうがいいわね。早ければ早いほど先方に対して誠実ですもの」
「……本当は、今度のワレギア行きだけは気乗りしないな……」
帝国軍の元帥となった男も、母親の前では本音をちらと洩らした。
ゲルガンドは本来旅を好む。しかし今回の出立は本当に憂鬱だった。いつもは挑むような気持ちで取り掛かる山越えも、どこか億劫に感じられる。ゲルガンドの心を映すかのように、道中の楽しみも今回に限って見当たらない。
爽快な紺碧の空も今回は姿を見せない。頂から見下ろす、山脈の底で黒い森に囲まれた皇都はいつもより一層陰鬱に見える。西方の草原に降りれば風は吹き渡ってはいるものの、その風は春だというのに肌寒い。宿を取る街々の様子もどこか寂しげに見える。
ガルムフの好意と信頼に応えることが出来ないこと。ティードリーアを妻にできないこと。もしかしたら、このまま皇女の夫となりこの先一生旅に出られないかもしれないこと。これらの暗い考えがゲルガンドに纏いつく。彼は宿の窓から厚い雲の垂れ込める空を見上げた。――ワレギアへの旅はこれが最後になるのではないだろうか。ゲルガンドはそんな気がした。
ワレギアに最も近い宿場街から、ガルムフに自分が来た旨使者を立てた。そしてゲルガンドが昼食を済まして国境を越えると、「草原の国」の武騎が何騎かゲルガンド一行を待ち構えていた。
「おおーい。ゲルガンド」
中央の男が叫んだ。あの立派な体格はガルムフだ。ゲルガンドも馬を駆けさせる。二人の男は抱き合って再会の喜びを表す。
「おお、ゲルガンド。よく来たな」
「……あの、ティードリーア姫は?」
以前はあのお転婆娘は、父が遠乗りをするのに必ず付いてきたものだ。ガルムフは笑いながら答える。
「恥ずかしいんだそうだ。婚約者にどう接していいのかわからんのだろうよ」
ゲルガンドは何とも言えない表情で黙り込んだ。ガルムフもそれに気付き不審な顔をする。こんな道端でするような話ではないが……。ゲルガンドは少し迷った。しかし、このガルムフの歓迎が「自分を婿に」と思ってのことならあまりに心苦しい。
「その話なんだが……」
ゲルガンドは事の経緯を簡単に説明した。
「我侭な皇女だな」
「済まない」
「お前が悪いわけじゃないだろう、ゲルガンド。それにそんな皇女のいる皇都にティティを嫁がせては、針の筵というものだろう。よく早々に知らせてくれた」
「…………」
「俺もこれで、可愛いティティをもう暫く手元におけるわけだ。いやあ、ほっとしたくらいだ」
ガルムフは落胆を見せず、ゲルガンドを気遣う風だった。そして申し訳なさげなゲルガンドの両肩を掴み、ゲルガンドの瞳を覗き込みながら言った。
「なあに。こんなことくらいで俺たちの友情にヒビなど入らんよ。お前が義理の息子にならなくたって、お前は俺の親友だ」
そうして再びガルムフはゲルガンドを力強く抱擁する。左右身を換えて何度も。草原の国ワレギアでは抱擁は友情の証だ。ゲルガンドも、ガルムフに力強い腕でぎゅうっと抱きしめられるたびに、ガルムフの壮健な体躯を強く抱きしめ返した。
「ゲルガンド。ここはお前の帰る国だ。これからも気が向いたらいつでも帰って来い。大歓迎だ」
――帰る国。ゲルガンドの故国は「森の国」ということになる。しかしその故国は常に彼を警戒し、彼を寄せ付けなかった。そして今度は皇女の夫君となり皇宮の中で暮らせ、などと勝手なことを言う。
「帰る国」。それが心に安息をもたらす国、という意味ならまさしくガルムフのワレギアこと自分の帰る国なのかもしれない。彼はガルムフの熱い友情に触れ心が満たされて初めて、自分は自分で思う以上に孤独だったことに気が付いた。
「さあ」
一際大きな声でガルムフがゲルガンドの肩を叩きながら言った。
「今夜は盛大に飲むぞ。ゲルガンド、お前は午睡をとって備えておけよ」
二人は酒宴に向けてひとたび別れた。
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