間諜ホイガ

 ホイガは眩しさに一瞬目を瞑った。昨夜は一睡もしていない。徹夜明けの目に、新緑の色はあまりに鮮やか過ぎた。森の国で自生する木は殆ど常緑樹だが、皇宮ではあえて落葉樹を植えて四季の変化を楽しむ。


 ――姉上なら、この若い芽が萌え出ずる様をどれほど美しく表現なさっただろう。


 ホイガはそう思いながらしばらく樹上を眺め、それから踵を返して歩き始めた。歩きながら昨夜から今朝、夜通し皇帝と話し合ったことを、また再び考える。その話は、彼の亡き姉の忘れ形見リザ皇女の結婚という問題だった。


 彼は幼い頃から五歳年上の姉ペイリンが大好きだった。身も心も純粋な儚げな美少女であったこの姉に、幼少時の彼はよく纏わりついていた。彼は歩みを緩めながら追憶に耽る。


 彼の方は成長して少年から大人になり、廷臣の一員として皇宮での身の振る舞いに神経を尖らせるようになっても、姉の方はは変わらず無防備なほど純真なままだった。


 皇太子との恋物語を、姉は頬を染めながらいくぶん夢見がちに弟に語ってくれた。それは弟の彼にとっても昔のおとぎ話のように美しく聞こえた。皇太子と姉との恋に周囲は随分動揺したけれど、渦中の二人が互いに互いを想い合うあの姿だけは、ただただ純粋に美しいものだったと、今でも彼はそう思う。


 そして、姉にとってその恋は生涯の思い出だったのだ。姉が正気を失ってからも、彼は暇さえあれば姉を見舞い、まだ何も分からず母親の傍にいるリザをあやしてやったりした。


 ペイリンは彼が訪れるといつも昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、彼とお喋りに興じた。ただ彼女の話題はたった一つだった。彼女は彼が来るたびに姉は夫と相思相愛だった頃の甘く優しい恋物語を、ただそれだけを繰り返し彼に語って聞かせたのだった。


「ああ嬉しい。こんな楽しいお話ができる人間はホイガだけよ」


 そう言って姉は微笑む。それに対してホイガは緊張した声で返答する。


「お姉さま。僕の来ないときは誰とお話なさっていますか」

「黒い鳥よ。毎日私の窓辺にくるの。私に同情してくれて慰めてくれるのよ」

「鳥が口をきくと仰るのですか。お姉さま」

「ええ、そうよ」


 姉はふっくりと笑んだ。しかしその瞳には何の光も無い。茫漠とした悲しみだけが瞳の奥に広がっていた。


 その頃のホイガもまた困難な立場に置かれていた。姉が皇后になる。姉の産む子が未来の皇帝となる。このことで彼をはじめマルレイ家が被った苦難は大きかった。妬みにさらされ、攻撃され、王族達から殊更に侮蔑され――青年期の彼には耐え難いこともあった。それでも姉の為に彼は耐えた。姉は心を病むほど辛い思いをしても黙っている。ただ黙っていることしかできない女性だ。もし自分がことを荒立てたりしたら、姉の口に出せない苦しみを増やしてしまうだけだろう。


 姉の亡くなった日。彼は奇妙に安堵したのを覚えている。これで姉はもうこの世の苦しみから解き放たれたのだ。夫と自分の間には決して越えられない溝ができてしまった悲しみや、自分をとりまく人間の敵意からやっと逃れることができる。姉の魂は河を下って海に還り、そこでしばらく心安らかに休むことができるだろう。ラクロウ河の岸辺に咲く花や、その河の行き着く先に果てなく広がっているという水平線に、美と詩を感じ取りながら。


 ――ただ、その前に。彼は姉の訃報をきくやいなや即座にリザ皇女の部屋に走った。死者の魂は河に向かう前に思いを残す者の前に現れることもあるからだ。


 彼がリザ皇女の部屋に駆けつけたとき、四歳のリザ皇女は自分の背丈より高い窓枠に手をかけ、つま先立ちして何とか外を見ようと一生懸命だった。


「リザ様」


 ホイガはできるだけ明るい声で呼びかけた。リザは振り返り、いかにも不思議だといった様子で彼に告げた。


「ホイガおじ様。今ね。おかあしゃまが窓の外からリザをお呼びになったの。それで『いい子でね』っておっしゃって、私のほっぺに、ちゅってしてくださったのだけど……。でもそのままお空に消えてしまわれて……」


 幼い心にもこの神秘の重さは分かるのか、ホイガを見上げる目に涙を浮かんでいる。


「ねえ、ホイガおじ様。おかあしゃま、いつお戻りになるかしら。きっと、きっとお戻りになるかしら……」


 瞬きと共に、幼子のぷっくりした頬の上を涙が滑り落ちていく。瞳と髪の色を除けばリザは本当に姉上にそっくりだ。その姉は、この生き写しのような娘を置いていかなければならなかったのだ。そう思うとホイガの胸の内にも嗚咽がこみ上げてきそうになる。しかしホイガはそれをこらえ、膝をついて幼い皇女を抱きしめた。


「ええ。いつかきっとお会いになれますとも。リザ様。それまで……それまでいい子にしてらっしゃるのですよ」


 そしてホイガは決意したのだ。この皇女を姉に代わって幸せにしよう、と。この幼女の魂が海に還り再び母娘が睦まじく過ごせるようになるまで、この世でずっと幸福でいられるように、と。姉が味わった不幸を決して味わあせたりしない、と。


 ――そうだ。だから私はこんな格好をしているのだ。


 ホイガは帝国軍の軍服を着込んでいた。彼はゲルガンドの軍吏としてゲルガンドの部下を務めている。

姉のペイリンは、王族出身の女達に「廷臣の娘」と蔑まれていたけれども、そもそもマルレイ家は貴族の中で決して身分が低いわけではない。


 それなりの家柄の廷臣、しかも嫡子として生まれた男子が軍に入るというのはあまりないことだった。当然彼の両親は大反対したものだ。


 ホイガはスヘイドに助けを求めた。この二人は、ペイリンが身も心も美しかったことを心置きなく賛美することのできる互いに唯一の相手であり、リザを心から幸せにしようとする同志でもあった。


「リザ皇女のためでございます。どうかスヘイド皇太子殿下、私の入隊にご賛同いただきたいのです」

「リザの為? しかし軍に入れば皇都を離れて遠征に出ることも多い。リザの傍に居る時間は少なくなってしまうのではないか」


 ホイガは含みのある視線を、スヘイドの瞳にまっすぐに向けた。


「ゲルガンド将軍です。私が軍に入るのはあの男の動向を監視するためです」


 スヘイドは息を呑んだ。ホイガのこの一言で彼は万事を理解した。


 リザ皇女の皇位継承に反対する者は、代わりに現在皇位継承権四位のゲルガンドの名を挙げることが多い。スヘイド、リザに続いて皇位継承権三位にいるのは皇帝の弟、すなわちゲルガンドの父親である。しかしゲルガンドの父はシャルメルとそれほど年の変わらぬ老人であり、皇帝家嫡流に対しての忠誠心が骨の髄まで染み込んでいるかのような男だ。したがってこの男はリザ皇女の対抗馬にはなりえない。


 そう、問題はゲルガンドだ。リザと同じく黒い瞳と黒い髪を持ち、そして武芸に長けたあの男。ゆえに聖祖トゥオグル帝の生まれ変わりではないか、とまで噂されるあの男。彼の父は皇族らしく西南の王国生まれの王女を妻としたから、彼の出自はリザよりも高いと言う者さえいる。


「もっとも、シャルメル皇帝陛下はご賢明であられる。皇帝は可愛いお孫さまのために、甥のゲルガンド将軍に周到な足枷をはめてしまわれました」


 ゲルガンドを今後どう扱っていくか。シャルメルの胸中の策はスヘイドも聞かされているし、ホイガにも明かしている。


「なるべく遠征に出して皇宮に寄り付かせぬようにする。そこで戦死してしまえばそれでよし。もし軍功あらば……これは私など思いもよらぬ奇策でございましたが……」

「ゲルガンドの軍功を華々しく祝ってやれ、との仰せだろう」


 事実ゲルガンドが蛮族の襲来を撃退したりするたびに、シャルメルは盛大な祝勝会を開いてやっている。


「ええ。しかしその祝勝の宴では同時に、その戦闘がいかに凄惨で血生臭いものであったかも具に伝えられます」

「そう。あまりに生々しく報告させるので、リザを同席させるのも憚られたものだ」

「全く戦と言うのは血生臭いもの。表向きは、それほど激しい戦いに勝ったゲルガンド将軍を賞賛するための宴ですが、しかし皇帝はそうやって人々に印象づけておられるのです――ゲルガンド将軍は血の穢れにまみれた者であるということを。神聖な『海の源流』の守護者である皇帝の位に就くにはとうてい相応しくはないのだということを。ゲルガンドの功に報いてやりながら帝位からは遠ざける。まさに一石二鳥でございます」

「全くだ」


 シャルメル帝の描く「本来の」皇帝像は、確実に皇宮内に浸透しつつある。ゲルガンドを皇帝に、という声は今以上に高まることはあるまい。


「ただし。皇帝のお考えには一つだけ補うべきことがございます」

「ほう、それは?」

「ゲルガンド様が何の魅力もない男であれば我々も何も警戒など致しません」

「そうだな。威風堂々たる美丈夫で、軍務に関する知識も豊富でそれ以外の教養もある。武芸に優れているのは今更いうまでもない」

「ゲルガンド様のあの人柄なら、諸国を訪問しても友好的に迎え入れられることでしょう。まあ、遠征の目的は帝国領内の諸国と皇帝との親善を深めることにもあるわけですから、そういう人物でなければ困るわけですが。なれど……」

「なれど?」

「ゲルガンド将軍が特定の国と結びつき、力を得るようなことがあってはありません。リザ皇女こそ神聖なる皇帝だということをわきまえず、トゥオグル帝に似ているからなどと言う理由にかこつけてあの男を担ぎ出して抵抗するような国があってはなりません」

「うむ」

「ですから私がゲルガンド将軍の傍にいて、その動向を監視致します。少しでも皇帝家に背くようなことをすれば、すぐに皇都へ使者を放ちます。皇帝におかれては、皇軍の半数は常に皇都に留め置き、半数のみをゲルガンド将軍にお与え下さい。そして皇都から遠い国々に追いやってしまうのです。私という間諜と共に」


 軍吏となってしまえば、皇宮での栄達の道は閉ざされてしまう。けれどホイガは、姉の遺した娘のために自分の人生を擲つ覚悟があるのだ。スヘイドは暫く感激で言葉を詰まらせた後、こう言った。


「……よくわかった。ホイガ。お前は軍に入り、ゲルガンドの部下となれ。そして怪しい行状がないか報告せよ」

「かしこまりました」


 こうしてホイガはゲルガンドの軍で皇帝側の間諜を務めることとなったのだった。


 ――それが……。


 昨夜の皇帝の話を思い出しながら歩いているうち、ホイガは厩に到着した。馬番達はホイガの姿を認めると慌てて鞍を置き、出発の支度をし始める。彼らの動きを眺めならホイガは思う。


 ――たった一晩で、皇帝とリザ皇女に対する自分の役目はガラリと変わってしまったのだ。


「ねえ。ホイガ叔父様、お願い」


 リザ皇女は愛くるしい様子で彼にせがんだ。この少女は年々ペイリンに似ているようにも、また別人のようにも育ってきていた。瞳と髪の色を除けば、リザ皇女はペイリンに生き写しとも言える程よく似ていた。しかし、その物腰は全く違う。


 この少女は自信に満ちている。自分はこの世界で現皇帝に次いで尊い存在なのだ、自分の命令がかなえられないことなどないのだ、という自信に。「お願い」という言葉を口にしていても、それが実質「命令」であることを信じて疑っていない。


「私、ゲルガンド将軍を夫にしたいの」


 勿論ホイガは驚いた。驚愕した、と言っていい。そして当然のこととして反対した。なにしろ年齢が離れているし、今日お茶会に同席させた以外これまでろくに会った事も無い男が相手なのだから。


「でも。ホイガ叔父様」


 皇女は眉根を寄せて言い募る。


「お父様やホイガ叔父様がいなくなってしまったら私はどうしたらいいの? 二人がいなくなってしまると、私は独りだけよ。みんな敵ばかりのこの皇宮の中で……。ひとりぼっちになってしまう。嫌よ、そんなの!」

「ですが……。皇女様のご夫君ということでしたら、お父上様がもっと良い方を見つけて下さいますよ」

「ゲルガンド将軍よりも良い方ですって? 私はあの方がいいの。あの方以上に私の夫に相応しい方はいないわ!」


 ここでホイガは胸に微かな違和感を覚えた。姉ならここまで強く我を通すことはなかっただろう。よく似た顔立ちで、こうも性格が異なっているから何か奇妙な気がしてしまう。


 しかし、これでいいのだ。姉は自分の心を押し殺し、そしてそのまま命を絶ってしまったのだから。これくらい強い意志をお持ちな方がリザ皇女にとっていいことなのだ。


 ゲルガンドを夫にする。今まで思いもよらなかったが、冷静に考えれば確かにこれは名案だ。


 彼がゲルガンドに仕えてもう十年以上経つ。そしてホイガはこの男が思った以上に優れた人間であることを認めざるをえなかった。美しい容姿だけではなく、人の上に立つに相応しい威厳を若くして備えており、実際率いる帝国軍兵士たちからの人望も厚い。物事を熟慮する慎重さもあれば、機を見て事を起こす大胆さもある。この男を上回る器量の持ち主などそうそういないだろう。


 そう確信を深めれば深めるほど、ホイガは自分の役割の重みを感じた。この男から護らなければ――あの皇帝位を。姉ペイリンの娘の為に。小さい頃から自分に懐いてくれたこの愛らしい少女のために。いわれなき辱めを受けた姉に代わって、その娘を至高の存在につけ幸福にしてやるために。そのためにホイガはゲルガンドの周辺をいつも嗅ぎ回ってきたのだ。


 けれども、この男がリザの夫君になればその心配も杞憂に終わる。


 ゲルガンドは真面目で誠実な男だ。そして美しいだけでなく快活で明るい性格をしている。この男なら皇女を裏切るような不貞など絶対に働くことなく、皇女の側にあって皇女を楽しませるだろう。


 むしろゲルガンドをこのままにしていく方が危険だ。確かにスヘイドや自分が生きている間はともかく、二人ともいなくなってしまったら。


 それに、諸国王の中にはせっかく「河の信仰」がもたらされたというのに、皇帝は穢れ無き神聖なものだということが分からぬ者も多い。皇帝への忠誠というより、ゲルガンド個人の魅力で帝国と繋がっている国さえある。そう、先日訪問したワレギア王などその典型だ。


 未だ皇帝の神威が行き渡らぬまま、スヘイドと自分が居なくなり、どこかの王と結託したゲルガンドに武力で皇位をもぎ取られでもしたら。ホイガは頭の中で想像を広げる。


 命は助かったとしても、皇宮内の一室に幽閉されたり追放されたりしたら。皇帝になるべく誇り高く育ってきた皇女にとって屈辱的な事態が生じたら。そのようなことが起これば、今まで皇帝と自分が大事に皇女を守り育ててきた一切が失われてしまう。姉君の、あの何事にも控えめだったあの姉の最後の、たった一つの願いさえ踏みにじられてしまうのだ。


 だから――。


 ホイガの心は決まった。


 ――リザ皇女を幸福にするためなら。


 彼は馬の腹を蹴って、駆けさせた。手綱を引きどんどん加速させる。ゲルガンド邸がすぐそこにまで近付いてきた。

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