永き眠りの実

「何故もっと毅然としていられないのだ」


 めでたく結婚が認められ、婚儀の準備が進むうちに、スヘイドがペイリンを叱責する場面が増えた。そしてそれは、彼が彼女を永遠に失うまでずっと続いた。


 勿論スヘイドは、皇帝及び皇太子である自分の考えを、細部に至るまでペイリンに説明している。それなのに彼女はただ困惑するだけで夫となる男の望みの壮大さに感心するでもなく、遠いものでも見るかのような目で自分の顔を見るばかりだった。それがまた彼の苛立ちを誘う。


 もっとも、その頃のスヘイドは彼女にばかり構っていられなかった。


 すぐ側にいる妻に言葉を尽くして説明しても理解されないのに、遠く離れた地に住む者の方が皇帝家の思惑を察知するというのは皮肉なものだ。諸王の中には、皇都へ優秀な人材を送ることや、そこの法や歴史の書物、動植物や鉱物の標本を提出するのを拒む者が数多くいた。


 特定の領土を伝統的に守ってきた諸国の王にとって見れば、皇帝のやろうとすることは自分の家の庭を土足で踏みにじるような、そんな不快感を抱かせるものだった。


 強硬な王達は反乱を企てた。特に蛮族と結んで反旗を翻した東方の国々をねじ伏せるのは厄介だった。そう、この戦で父帝の甥、つまりゲルガンドの二人の兄が命を落としたのだ。


 草創期に比べれば些細なものとはいえ、この時の帝国にはあちこちで混乱が生じていた。


 ――だから、妻の異変に気がつかなかったとしても仕方がないではないか。


 そう自分に言い聞かせても、一人の男としての自分には何も慰めにはならないまま今に至っていることをスヘイドは知っている。


 皇太子妃となったペイリンがあまり笑わなくなったことには気付いていた。ただ、スヘイドは、皇后には威厳が必要なのだからそれでいいというくらいにしか捉えていなかった。日常の暮らしの中から詩を見出すという、スヘイドが愛した彼女の美しい癖もすっかり絶えた。それも仕方がない、とスヘイドは思っていた。皇帝が諸王を超越した存在であることを証するため迎える皇后なのだ。いつまでも夢見る娘のようでいてもらっては困る。


 帝国内の諸王の反発だけでなく、皇宮内でペイリン個人に対しても小さいが陰湿な嫌がらせがあったことも彼は薄々気付いてはいた。


 シャルメルの后、スヘイドの母がよくペイリンを茶会に呼んでいた。この母は遥か北方の王国テロイの出身だった。シャルメル帝を支えて長い間皇后として君臨し、その地位にふさわしい堂々たる風格を備えた女性であった。


 スヘイドは、自分の妃は今までのどの皇后よりも威厳に満ちたものであって欲しかった。かつて彼が愛したペイリンの慎ましやかな性質は、未だ賤しき廷臣の娘という出自を引きずっているようで、今の彼にとっては疎ましいものに感じられてならなかった。


「母上は立派な皇后だ、お前も見習ってくるがいい」


 時には涙を浮かべて渋るペイリンを叱りつけるようにして、その母后の茶会に送り出したものだ。


 その茶会には、皇族や高位の貴族の妻達も招かれていた。彼女達は皆、諸国の王族の血族であった。その茶会は現皇后を筆頭に、廷臣の娘であるペイリンの立后を喜ばぬ女達がその憤懣を抱えて集まる場であった。彼女たちは、高貴な身分に相応しく大層優雅に、そして実に陰湿なやり口でペイリンの心をさんざん鞭打ったのだった。


 この茶会で投げつけられる叱責、皮肉、侮蔑の言葉に繊細なペイリンがどれほど傷ついたことか。ペイリン自身も涙ながらに訴えていたけれども、彼はそれも立派な皇后になるのに必要な試練だと考え、彼女の嘆きをさほど重要なものだと思っていなかった。


 彼女に対する敵意は他の形でも現れた。彼女宛ての献上品として送られた箱に人間の生首が入っていたり、皇太子夫妻の周りで毒見役の侍従が何人も死んだり。スヘイドは、自分のやろうとしていることが革命的であると認識していたからさほど驚かなかった。だから、そのたびにいちいち涙するペイリンの方のふがいなさが苛立たしかった。


 ――だが、最後に妻を破滅に追い込んだのこの私なのだ。


 今ならスヘイドにも分かる。彼女の破綻に最も責任があるのは自分だ。どんなに辛くても、自分が彼女を支えていれば――彼女の繊細で優しい美質を発揮できるような暮らしを送らせてやっていれば――。あんな悲劇は起こらなかったのだ。


 彼女づきの侍女からその知らせを聞いたとき、彼は僅かに眉を曇らせた。そういえば、最近泣き言も不安も自分に訴えてこなくなった。だが、しかし……。


 未だその侍女の言うことがよくわからないまま、スヘイドはペイリンの部屋と向かった。扉を開けて中に入る。しかし、彼女は窓辺に座ったまま扉の方を少しも見ようとしない。スヘイドは部屋の入り口で立ち竦む。


 部屋に居たのは紛うことなき狂女だった。髪も結わず寝間着に部屋の敷布を肩に纏っただけの格好で、窓辺に座っている。そして窓辺に止まった黒い鳥を相手に、まるで相手が人の言葉を理解し、彼女に返事でもしているかのように彼女はか細く抑揚もない声で喋り続ける。


「……でも、もう私には何もわからないの。どこにも美しいものはない。この世界の人々は私を敵だと思っているわ……」


 カタカタカタ。黒い鳥が嘴を鳴らす。


「ええ、そうね。そうしてしまった方がいいのでしょうね。でも……」


 カタカタカタカタカタ……。


 黒い鳥に説き伏せられてでもいるかのように、ペイリンは項垂れ、時折頷いてみせる。


「ペイリンッ!」


 スヘイドはやっと妻の名を呼んだ。妻はゆっくりと振り向く。そのぼんやりとした表情に彼は絶句した。彼女の瞳には何の輝きも無かった。ただくすんだガラス球のような虚ろな目で彼女は彼を、まるで知らない他人をみるかのように無言で眺めていた。


 彼の前を昔日の幻影が通り過ぎていく――彼が来訪するとバネで弾かれたように彼の許へ飛んできた彼女の姿。暖かい笑顔でいっぱいの顔。そして彼が何か言う前に、今日一日どんな美を発見したのか目を輝かせて話すお喋りな口。あれはいつごろの話だ。いつからそんな彼女は消えてしまったのだ。


「皇太子殿下。お妃さまはお子様を身篭っておいでです」


 最も年齢のいった、老婆に近い侍女が彼に小声で耳打ちした。


「身篭った当初というのは、心が乱れがちになるものでございます。じきにお鎮まり下さいましょう」


 事実、お腹が膨らむにつれて母親としての自覚が促されるのか彼女も常軌を逸するような行動をすることが少なくなった。


 しかし、どんなに正気を取り戻したかのようにみえる時でも、窓辺に訪れるあの黒い鳥が人語を解するのだという主張を彼女は曲げることはなかった。もしかしたら夫である自分よりも、彼女はあの黒い鳥を近しく思っていたのかも知れないとスヘイドは今になってそう思う。


 ともあれ彼女はリザを無事出産した。スヘイドが喜んだのは何より赤子の瞳と髪が真っ黒なことだった。


「これはいい。黒い髪と瞳はまさしくトゥオグル帝の血をひくものの証。この子の帝位は安泰だ」


 そうスヘイドは言った。実際にはリザ皇女の帝位は未だに安泰とは言えなかったのだが。それでも、その時のスヘイドはこう言って妻の出産の疲れをねぎらったつもりだった。けれど、ペイリンは無表情であらぬ方向を眺めているだけだった。


 リザ皇女は皇帝家の御子か廷臣の娘か――。リザ皇女をどう扱うべきなのか貴族達の間で議論となった。もちろんシャルメルはきっぱりと断じた。リザ皇女こそ次の皇太子であり未来の皇帝である、と。


 皇帝の宣言を以ってしても、リザの幼い頃は、今よりもっと彼女の皇位継承にたいして冷ややかな空気が流れていた。


 一方ペイリンは出産の疲れが取れ、ひとまず健康を取り戻したように見えた。スヘイドは、娘が皇位につくためには、両親の自分達が未来の皇帝の親に相応しい威厳を示さなければならないのだとペイリンに説いて聞かせた。それなのに彼女はスヘイドの言葉には何の関心も示さず、自室で幼いリザとひっそり過ごす日が続いた。


「母親のそなたがそのようでどうする。部屋に篭ってばかりおらず、外宮に出て母娘で堂々とした姿を臣下達に見せてやらねばリザはますます侮られることになろう。リザのためだというのに、何故そなたはそれが出来ないのだ」


 スヘイドは度々叱りつけた。ペイリンはリザを胸に抱きしめたままただ俯くだけで、何の反論もしてこなかった。


 その頃、彼の胸の内にはある疑問が浮かぶようになった。「一体どうして自分はこんなつまらない女を、自分の子の母として選んでしまったのだろう」という疑問が――。


 ――私は本当にひどいことを。


 胸の内にしまっておいたつもりだった。けれどもペイリンが気付かなかったわけが無い。かつて傍近くの若い男の恋情とその美しさを、おののきながらもしっかりと感じ取ってくれた鋭敏な女性なのだから。今の夫となった男の蔑意の篭った視線に、苛立たしげな溜息に、顔を逸らす様子に、彼女は彼の胸中を思い知り深く傷ついていたのは確かだと思う。


 その日のことをスヘイドは今でもありありと思い出せる。常の如く部屋に篭りきりのペイリンをそのままに、スヘイドはリザだけを連れ出し二人で昼食をとった。その後リザをリザの部屋に侍女をつけて向かわせ、自分は自分の執務室に戻った時だった。ペイリンの居室に現れるあの黒い鳥が、その日に限って執務室の窓の外に止まっていた。珍しいこともあるものだ、と彼は暫くその黒い鳥を眺めていた。その時。慌しく自室に飛び込んできたのだ、あの禍々しい知らせが。


 ペイリンのその姿を最初に見つけたのは昼食を運びに来た侍女だという。ペイリンは朝遅く起き、その後もずっと自室に篭ってばかりで、遅めの昼食を自室へと運ばせていた。


「スヘイド様。お妃様が、ペイリン様が……」


 彼は無我夢中でペイリンの部屋に向かった。自分や周囲がどんな格好でどんな風だったか動転していて全く覚えていない。記憶にあるのは、彼がペイリンの部屋に入ると、それまで彼女のベッドに屈みこんでいた宮廷医が彼に向き直り、礼をとった後で彼に説明を始めた頃からだ。


「脈もございませんし、瞳孔も開いております。もうペイリン様の魂は海へ還る途につかれたのです。お悔やみ申し上げます、皇太子殿下。なお……お亡くなりになった原因ですが……、ブリョの実をお食べになったための中毒死だと思われます」


 衝撃を受け止めかねて考えのまとまらないスヘイドの耳に、その実の名前は異物のように耳に触った。


「……ブリョの実……」

「おそれながら皇太子殿下はご存知ないかもしれません。この国に育つ植物ではございませんから。ただブリョであるのは確かです。ほら、そこのテーブルの上にブリョの実が成っていたらしい枝と葉、それから実を包んでいた皮が残っておりますでしょう? このブリョの実というのは猛毒でございます。ただ口にした本人はさほど苦しむことはありません。眠るように死ぬことが出来るので……その……」


 宮廷医は言いよどむ。


「だから何だ」

「その……あの……、ブリョの実というのは自ら死を願う者が用いることが多いのです。それゆえ『永き眠りの実』などとも呼ばれることもございます」

「……その、ブリョというのはどこでなら生えているのだ……」


 掠れた声でスヘイドは訊ねた。


「…………」


 宮廷医は返答に窮していたが、度重なるごとにはっきりとした詰問になるスヘイドの口調に耐えかねて答えた。


「……北方のテロイ国で主に産出致します」

「テロイ……」


 そこはスヘイドの母、現在の皇后の出身国だった。母が妻に毒を盛ったのか。でも何故……。まさか母は、あくまで臣下の血をひく皇帝など認めたくないからという理由で妻を……。もし……、もしそうなら妻の娘も……。


 ――まさか!


 部屋を駆け出そうとしたスヘイドを、ホイガが押し留めた。姉の死を聞かされて彼もペイリンの部屋に、スヘイドの気付かぬ間に来ていたようだった。


「落ち着いてくださいませ、皇太子殿下。リザ様はご無事でございます。私が先ほど確認致しました。私の部下が今お部屋でお守り申し上げております。どうぞご安心を」

「そうか……」


 ならば母が殺したという根拠は薄まる。でも、どうしてそのような実がペイリンの手元にあったのだ。そしてなぜペイリンは枝についたままの実を、ご丁寧に自分で皮を剥いて口にしたのか。あたかも、それが安らかな死を約束してくれることを知っていたかのように。誰が教えた。誰が与えた。


 疑問と怒りと、そして深い嘆きがスヘイドの胸の底から吹き上がる。


「教えてくれ、ペイリン」


 彼は彼女の遺骸を振り返った。その瞬間彼は我を忘れた。彼は安らかな顔の亡き妻の体にとりすがり、慟哭した。彼がこれほど取り乱したのは後にも先にもこの時だけだった。

 

 ペイリンは手紙――にしては短すぎるものの――を残していた。上質な羊皮紙に丁寧な挨拶の添えられた、美しい筆跡の文章。しかし、その短く形式的な文面の中で彼女自身の心中を読み取ることのできるのはただ一行だった。


 ――どうかリザを幸せに。お願い申し上げます。

 

 そうだ。リザの幸福はペイリンが死を選ぶに当たって唯一遺した願いなのだ。あの慎ましやかなペイリンがたった一つ最期に遺した望み。私は絶対にリザを幸せにしなければならない。


 ――リザが幸福になれるのなら。


 リザは両親の恋物語を聞くのを本当に楽しみにしてきた。自分も素敵な恋人を、という少女らしい夢を持っている。父としても、あの甘い幸せをわが娘にも体験させてやりたい。今の自分も、ペイリンと幸せだった頃の思い出と、彼女の忘れ形見のリザを支えに生きているのだから。


 今後も皇帝の命としてリザの婚約者を選ぶことはできよう。けれども、リザ自身がその者に恋をするとは限らない。いや、ゲルガンドほどの男の後ではどのような男も見劣りしよう。


 そしてゲルガンドは私の轍は踏むまい。平凡で退屈な人生しかなく、皇帝家の革命という思想に浮かれて妻を顧みなかった自分とは違い、彼は誰からも賞賛されてきた男だ。彼が妻を忘れるほど何かを渇望するとは思えない。彼がリザに恋をするとは限らないが、幼い妻と、その少女らしい夢を大切に守ってやってはくれるだろう。

 

 時刻は夜更けを過ぎていたが、それには構わず、スヘイド帝は侍女に今からホイガを呼ぶように命じた。

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