悲劇の皇妃

 ――どうかリザを幸せに。お願い申し上げます。

 

スヘイドの脳裏に優美な女文字が浮かぶ。最愛の妻が彼に最後に遺した手紙。その手紙はその言葉で締めくくられていた。


 娘を自室から送り出した彼は、溜息を一つついてから文机に足を向けた。机上の隅に、細かい細工の施された象牙の小箱がある。彼はその蓋を開けて、中から古びた羊皮紙を取り出した。縛ってある紐を解き、巻かれた紙を開くと懐かしい妻の筆跡が現れる。スヘイドは一瞬瞑目し、胸を衝く悲しみと後悔に深々と嘆息した。


 その優美で繊細な筆の運びが示すとおり、スヘイドの妻、ペイリンは美しくそして心優しい女性だった。ペイリンとリザの顔立ちはよく似ている。ただリザの瞳と髪が黒いのに対し、妻の方は瞳も髪もごく淡い色で、全体の風貌もどこか儚げなところがあった。


 「森の国」の皇都で、皇帝に直接仕える貴族を「廷臣」と呼ぶ。廷臣の子女は、皇宮に参内して皇帝達の身辺の世話をする。


 その中でマルレイ家のペイリンは大変な美少女だった。しかし本人は、美しく生まれついたことさえ恥じるかのように、人の影にひっそりと隠れて穏やかに過ごしたいと願う、そんな慎ましやかな少女だった。そして、皇太子だったスヘイドが彼女に興味を持ったのもその外見の美しさだけではなく、時折交わす会話にあらわれる彼女の心の美しさだった。


 この可憐な女性は繊細な感受性を持つ詩人だった。重苦しく閉鎖的な皇宮の中での単調な生活にあっても、彼女はそこかしこに美や不思議を見出した。


 朝、曙光が部屋の中に満ちていく荘厳な様子。日が暮れて空が菫色から紺、群青そして黒へと移り変わる神秘的な姿。窓外の景色に見られる季節の微妙な移ろい。梢の上で繰り広げられる小鳥達のささやかながら懸命な営み。


 彼女は、自分と同じ退屈な皇宮の中に居ながら、全く違う世界をその瞳に映して過ごしているようだった。スヘイドは彼女の何気ない言葉に豊かな発見をよくしたものだ。


 皇太子としての自分の重苦しい生活の中、スヘイドは彼女と他愛のない話をする時間が本当に楽しかった。そのうち彼の中では、その時間は単なる息抜き以上のものとなった。息抜きどころか、彼女とそんな時間を過ごすために自分のつまらない生活があるのだとさえ思うようになったのだった。


 皇帝などつまらないものだ。スヘイドのこの考えは昔も今も変わらない。そして本来の自分自身もつまらない人間なのだと思っている。皇宮から一歩も外に出ずに育ち、武芸も学芸も嗜み程度にしか身につけていない。


 皇宮の貴族達の中には、自分を平凡な人間だと軽んじ従兄弟のゲルガンドこそ皇帝に相応しいと思っている者がいることを、彼は知っている。だが、そうだろうか? ゲルガンドとて自分と同じように将来の皇帝としてこの皇宮の中で自分と同じように育っていれば、私のように平凡でつまらない人間になるというものではないのか。


 それでも自分には、凡庸ではない自分になれる時間があったのだ。そう、それこそペイリンと過ごす時間だった。スヘイドは再び甘い思い出の中に沈んでいく。

 

 美や不思議に敏感な彼女は若き皇太子の変化にすぐ気付いた。初めて恋をする若い青年の物憂げな様、熱っぽい瞳、情熱と怖れの間を不器用に揺れ動く姿。当時彼女の傍にあって、これほど不思議で美しく詩的なものは無かっただろう。彼女の心はすぐ応えてくれた。彼と同じようにぎこちないものではあったけれども。


 初めて彼が自分の気持ちを伝えたとき、彼女の淡い色の瞳は激しく揺れ動いた。彼がそれを言うと、彼女は頬を染め「それは私の心の震えなのでございましょう」と小さな声で返した。この日からこの二人は若い恋人同士となった。互いの瞳に互いの姿を映しているとき、彼らはこの世界でただ一人、かけがえのないたった一人の大切な存在になれたのだった。


 彼女を正妃とするために五年以上掛かった。ペイリン自身は正妃になどなりたがらなかった。自分は愛妾でもよいのです、とまで言っていた。それでも彼は彼女を自分の妻として公の立場に置きたかった。


 しかしながら皇帝の妻は、帝国領内の王家から迎えるのが慣例だった。領土と民とを持つ各国の王族に比べれば、皇帝の私的な臣下である廷臣は比べ物にならないほど格が低い。そんな身分の低い出自の女性をゆくゆくは皇后として頂く――このことに対する反発は彼が思っていた以上に大きく、そしてその問題の根は予想以上に深かった。


 まずマルレイ家を除く貴族達の猛反対があった。廷臣の娘が皇后などそんな例は過去にない。ペイリンが皇后になるなら、廷臣の中でマルレイ家だけが特別な地位に成り上がることになる。そのようなことは到底納得いかない。彼らは彼らの立場から見ればごくまっとうな憤りの声を上げたのだった。


 そして帝国領内の諸王国も、濃淡に多少の差はあれ総じて不快感を露に示した。今まで皇帝は諸王国の中から皇后を迎えてきた。皇族達も、各王家に妻として下向したり、王家の姫を妻に迎えたりしている。このように皇帝家と諸王国は婚姻関係で結びつくものとされている。


 しかし、皇太子はこの不文律を破ろうとしている。よりによって帝国中で最も高い位にある皇帝の妻に、王族の姫君達をさしおいて廷臣の娘などを据えようとしている。帝国は諸国の王をないがしろにするつもりか。次々に皇都に到着する諸王国からの使者はそう訴えた。


 事態はもう帝国の存立を揺るがす政治問題になりつつあった。それでもスヘイドは頑として譲らなかった。皆、皇帝をなんだと思っているのだ。彼には彼なりの怒りがあった。皇宮の中で「海の源流」の傍に控えて過ごすだけの人生に何の喜びがあるというのか。皆は自分を未来の皇帝として特別扱いするが、自分がこの世界で特別だと実感できるのはこの愛しい妻といるときだけだとは言うのに。


 スヘイド皇太子に結婚を許したのは思いがけない人物だった。スヘイドの父、第十六代皇帝シャルメルである。シャルメルとスヘイドは通常の親子よりもずっと年が離れていたせいもあって、それほど心通じるところがあったわけではない。それどころかいつも寡黙な父帝をスヘイドは敬遠していたところがあった。


 父帝より皇宮内の私的な謁見室に呼ばれた時、スヘイドはこれはペイリン立后に反対されるのだと考えた。


 彼は重苦しい気持ちで部屋に入ったが、その謁見室も老帝の厳しさを反映する雰囲気に満ちていた。

現在の皇宮は「石の国」より献上された最上質の石で造られている。しかしこれ以前は伝統的に「森の国」の主な建物は木で造られるもので、今も神官達の住居は木造だ。


 皇帝として目ぼしい業績を挙げぬまま老境を迎えたシャルメルは、近頃「古例に倣え」と盛んに言うようになった。そして石造りの皇宮の中でも、重要な場所には、黒い森から古い巨木を召し上げて、内装だけでも木を用いるようにしたのである。


 謁見室の古木を磨き上げた重厚な椅子の中に、それに負けないほど厳しい顔つきの老帝が座っていた。スヘイドは彼の椅子の前に跪いて礼をとる。


「父上様。ご健勝そうでなによりです」

「スヘイド。今日はお前に話したいことがある」

「何のことでしょう。もし……もしペイリンとの結婚のことでしたら私は意志を曲げるつもりはございません」


 勢い込んで一息でそう言い放ったスヘイドを見て、シャルメルの表情が崩れた。皺に埋もれた老皇帝のその表情が怒っているのか笑っているのか、スヘイドにはわからない。しばらくあってから、老帝は表情を整え、重々しく言葉を発した。


 ――皇帝は最早、覇道より離れたるものである。


 スヘイドには意味がわからない。その謎の言葉も、父の口からではなく部屋のどこかから湧き出てきたもののように感じられた。スヘイドは視線を部屋の中に彷徨わせ、困惑した顔で再び父帝を見た。


 老帝も今度はしっかりスヘイドに視線を絡ませ、言い聞かせるように言った。


「皇帝とは覇道を歩むべきものではない」

「あの……?」

「古の世には『河の信仰』を知るものが少なかった」

「え? ええ……」


 訳が分からず、スヘイドにはただ頷くことしかできない。


「『海の源流』の神官達から皇位を授けられても暫くは皇位の神威は十分伝わらず、トゥオグル帝以下上代の皇帝は版図を広げるためには武力や計略を用いざるを得なかった」

「あのう……」


 スヘイドが老帝へ話しかけようとする。老帝の話は先が全く見えない上、今までの話にも違和感が拭えない。通常ならば、聖祖トゥオグルをはじめとする上代の皇帝たちの武勇や計略に長けた様は、英雄譚として褒め称えられるものだ。それなのに父の言いようは……。


「おそれながら父上、今の仰りようでは古の皇帝の業績を貶しているかのようにも聞こえてしまいます」

「貶めるつもりはない。当時は仕方なかったのだから。古代には『河の信仰』という真実は知られていなかった。故に皇帝自らが剣を振るって血の穢れを直接浴びたり、諸国の王族と婚姻関係を結ぶという計略を用いなければならなかった」


 スヘイドは黙る。今まで歴代の帝の業績は賞賛されてばかりだった。けれども言われていれば、父帝の指摘も一理ある。『海の源流』を守る神官達に位を授けられた皇帝が、自らの手を汚したり、他王と誼を通じるのに腐心したりというのは、皇位の神聖さを鑑みれば相応しい行動とは言えない。


 スヘイドが床に視線を落とし自分の考えを纏める様をシャルメルはしばらく眺め、そして頃合を見計らって続けた。


「しかし。今や時代が変わろうとしている――」


 スヘイドは顔を上げた。そして老帝を無言で見詰める。


「帝国は既にこの世界の主要な国々を支配下におさめた。辺境に取るに足りない蛮族が少々残っているが、このようなものは傍系の者に始末させれば良い。事実、皇帝自身の親征など十一代皇帝の頃よりずっと絶えている」


 それに――。シャルメルの言葉が次第に熱を帯び始める。


「『河の信仰』は帝国中に普く行き渡っている。各国の王からは国の公の信仰を改める旨誓約書を出させている。古臭い迷信が残ることもあろうが、もはや『河の信仰』の敵ではない」


 老帝は肘掛の上に置かれた両の拳を固く握る。


「今こそ――今こそ、皇帝は本来の姿に立ち戻らなければならない」


 そして皺だらけの顔を紅潮させながら、興奮気味にまくし立てる。


「皇帝は『河の信仰』の説く真理の力により皇帝となるのだ。我らの歴史にある皇帝の御業はその真理が未だ広く知られていなかったがために、やむなく採られたもの」


 老帝は口を引き結んで続ける。


「神官達から皇位を受けた皇帝は神聖な存在だ。今回、お前の結婚のことで、王族達が自分たちの格がどうのと騒いでいるが、全く笑止」


 ――結婚。老帝の言う「本来の皇帝の姿を、新しく取り戻す」という主張に聞き入っていて危うく忘れかけていたけれども、スヘイドにとって目下の大事はそれだ。食い入るような目でスヘイドは父帝の言葉を待つ。


「どの王とて最初は蛮族上がりではないか。わが帝国の支配下に入り、『河の信仰』を得て少しは文明的になりはしたが。大体、そもそも『河の信仰』が本当に帝国の領民一人一人の心中に染み渡れば、この信仰の中で敬わなければならないのは皇帝ただ一人であることが自ずと明らかになるだろう」


 シャルメルはスヘイドを見て再び表情を崩した。今度は微笑みかけているのだ、ということはスヘイドにもわかった。


「今までは帝国の版図を拡げ、『河の信仰』の真理を広めるために、諸国王に阿るような計略もなされてきた。しかし、もういいだろう。時代は変わった。我らがなすべきことは、皇帝本来の姿を取り戻すことなのだ。皇帝とは神聖で穢れなく諸王家など超越した存在だ。その支配は『河の信仰』の真理により正当性を得る。スヘイドよ」

「はい」

「王族の血などもうこれ以上皇帝家に入れてやる必要などない。皇妃、すなわち次の皇帝の母后は皇帝自身が選ぶべきだ。王族の娘から迎えなければならぬだと? なぜ神聖なる皇帝がそんな決まりに従わなければならぬのだ? お前はペイリンを妻とするがよい。そして子が生まれたら宮中で大切に育てよ。外に出して穢れを受けるようなことはあってはならぬ」

 

 ――それが自分とペイリンの結婚を認める理由か。


 スヘイドの心の底から、喜びと驚きと嫉妬がないまぜになった感情が湧き起こる。


 勿論ペイリンを妻にできる喜びは大きい。しかし、その自分の宿願さえ父帝の思い描く壮大な構想の一部に過ぎない。


 スヘイドは父帝をごく平凡な人間だと思っていた。ここ何代かの皇帝と同じく特に大きく領土を拡大するわけでもなく、慣例に従い王族から妻を娶り、その治世に特別なことなど何もないまま老いていく。そして自分の人生もまたそんな平凡な皇帝として終わるのだと思っていた。


 ところが父帝は胸にこのような壮大で革命的な――これまでの歴史と捉え方を塗り替えるような思想を抱いていたとは。スヘイドは急に、ペイリンとの結婚しか頭になかった自分が小人物に思えた。そして、知らぬ間にこれ程の構想を企てていた父に取り残されたというような寂しい気持ちと、同じ皇位に臨む者としての嫉妬心とがこみ上げてきたのだった。


 シャルメルは、スヘイドに芽生えた嫉妬を煽るかのように更なる構想を語って聞かせる。


「私はこれを頭の中の構想だけで終わらせようとは思っておらん」


 シャルメルはにやりと笑う。


「私が帝国領内から広く文物を集めているのは知っているだろう。それに文字のわかる者、知恵の回る者、好奇心の旺盛な者も」


 確かにシャルメルは帝国中の知識を蒐集していた。それらを展示する為、研究する為、それらに携わる者の住まいの為ということで、大会堂の更に下流にかなりの数の建物群を建設しようとしている。スヘイドも、皇宮内の他の者も、これを単なるシャルメル帝の趣味だとぐらいにしか受け止めていなかった。


 だが、シャルメル帝は、これは自分の革命の一環なのだと言い始める。


「今の私の主張を現実にするためには、皇帝の神聖さを論理的に裏付ける精緻な理論が必要だ。それから皇帝は、諸国王の報告を待たずとも帝国領内の万物について把握しておくべきだ。皇帝家は今頭脳と情報を必要としている。歴史、地理、法律、動植物から鉱物にいたるまで帝国内の万物を知り尽くし、それらを整理し、その知識を皇帝の下に集約する必要がある。そのための施設を私は建造しているのだ」


 スヘイドは感嘆の息を洩らす。諸国王の頭越しに直接帝国領を統治する、そのような中央集権的な帝国という構想を父帝は既に現実のものにしようとしている。父帝はすでに自身を歴史に残す事業に取り掛かっているのだ。


 ではこの自分は――。シャルメルに無くて自分にあるもの、それは若さだ。父帝の年齢では自身の革命を全てなし終えることは適わないだろう。端緒を切り開いたのはシャルメルでも、実現するのはこの自分だ。


 スヘイドは目を光らせ、胸を張って力強く宣言してみせた。


「では、私は父上の描く皇帝像を初めて実現する皇帝となりましょう。王族ではなく、自分自身が選んだ妻を皇后にすることによって」


 シャルメルは満足げに頷いた。以来、この父子は皇帝家の歴史を塗り替えるという壮大な目的の元で固く結ばれることとなったのだった。


 スヘイドの結婚にかける意気込みは強かった。もはやこの結婚は自分個人の希望なのではなく、皇帝の新しい、そして本来の姿を実現するためのものなのだから。


 しかし――。父が死に、妻を失い、娘の成長だけを楽しみに過ごすようになった現在のスヘイドは振り返って思う。これをきっかけに妻ペイリンと自分との間から愛情と信頼が失われ始めたのではないだろうか、と――。

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