草原の国ワレギア
皇女の部屋の窓から皇都を囲む山脈が見える。その白い嶺を眺めながら、彼の心は遠く異国への旅に出る。
急峻な峰を越えるにはかなりの体力を必要とする。しかし、慣れてくれば、登るにつれて様々に移り変わる山麓の風景を楽しむことができるようになる。
山脈の稜線が描く壮大な造形美。手が届く程に近付く蒼穹の天。と思えば俄かに吹雪と変じる自然の獰猛さ。思いもかけぬところに現れる可憐な野の花に、素早く動く野鳥の影。
そして山を登る楽しみの続きに、異国を巡る旅の楽しみが待っている。
ゲルガンドは特に西方への旅を好んだ。「森の国」を囲む峰を越えて西に進むと、山裾から次第に乾燥した平原に出る。緑濃い「森の国」で育った彼は、からっとした風が吹き渡るこの地の解放感が好きだった。見渡す限りの茶色い地平線の中、土埃を立てながら方位磁石を頼りに隊列を勧めていく。
そのうち、山脈の伏流水が湧き出てできる湖を中心にしたいくつかの街と出会う。こういった街や、それらを纏めた国々の王城を訪ねながら彼の軍は更に西へと行軍していく。
進めば進むほどに異国情緒が深まっていくのが趣深い。見慣れぬ衣装、珍しい料理、不思議な香草の匂い。これらを楽しみながら最後に小さな砂漠を越えると「草原の国」、彼ら自身の言葉で言うならワレギア王国に到着する。
皇軍が帝国内を行軍する目的は二つある。一つは帝国領の辺境にまで出て、未だ帝国に従わぬ蛮族達を掃討し帝国の領土を護ることである。そして、もう一つは帝国内の諸国王を訪ね彼らと親睦を深めることである。
しかしこんな目的とは関係なく、ゲルガンドはワレギアを訪ねてその王ガルムフと会うのが愉しみだった。七歳年上で、豪放磊落なこの男をゲルガンドは実の兄のように慕っていた。
ワレギアの民は遊牧民である。狼や蛮族から羊などの家畜を守らねばならない彼らは、一様に猛々しい。女も時に放牧に出るから、皆馬を操るし女用の独特な剣を使う。そんな勇猛果敢な民に王として君臨するガルムフを手本に、帝国軍の将軍となったばかりのゲルガンドは人を率いることの基本を学ぶことが出来たのだった。
ガルムフの方もゲルガンドを親友として遇した。ワレギアは彼の父の代に、それまでの旧い信仰から「河の信仰」に改め帝国に帰順した。とはいっても、彼の父も彼も、蛮族から牧畜地を守るためには帝国に従っておいたほうが効率的だと判断したからそうしたに過ぎない。
それなのに、帝国府から定期的にやってくる役人達は揃ってガルムフにとって鼻持ちならない者ばかりだった。伝統的な、そしてこの土地を暮らすための知恵が一杯詰まったワレギアの風俗を頭から野蛮と決め付けて何かと見下す。誇り高く血気盛んだったガルムフは、ゲルガンドの知己を得るまで何度帝国に反旗を翻してやろうと思ったかわからない。
しかしゲルガンドは違った。彼は「河の信仰」を守る皇帝の血筋にあるにもかかわらず、帝国府の役人と違い、何の偏見もこだわりも無くワレギアの伝統に敬意を払う。無礼にならぬ程度に好奇心を持ってあれこれ訊ねてくるのもガルムフには好感が持てた。
お互いに相手の存在に好感を抱くと、そこから親しくなるのに時間は掛からなかった。二人とも狩りや武芸の試合が好きで上手かった。昼は二人で身体を思う存分動かして楽しみ、夜は酒宴で腹を割って話し合う。「森の国」の、特に皇宮の静かで畏まった雰囲気を堅苦しく感じるゲルガンドは、こういった日々が本当に愉快でたまらなかった。それで何度か酒席で「このままワレギアの民になってしまおうか」などと冗談を言ったこともある。
――そう、自分がそんな冗談を言っていたから、あんな話が出たのかもしれない。
ゲルガンドは、窓外からリザ皇女の顔に視線を移した。彼女はぱっと顔を輝かせると、微かに頬を染めながらより一層楽しげに喋り続ける。しかし、ゲルガンドは彼女を見ながら、皇女と一歳違いのワレギアの王女について思いを馳せていた。
ガルムフには二人の子どもがいた。十四歳のティードリーア王女と九歳のダルン王子である。ゲルガンドはこの姉弟を知っているが、母親には会ったことがない。美しいことは姉弟からみて容易に想像がつく。だが、ガルムフや二人の子どもとゲルガンドが同席している場に彼女が姿を現すことはなかった。
帝国府の役人の報告によると、彼女は王家に比肩するほど有力な部族の出だという。そしてその部族は古よりワレギアを支えてきた「精霊の信仰」の巫女を出す血筋らしい。ワレギアでは死者は自然に還り、草や木、風の精霊となる。そうやって子孫の草原の民を守ってきたのだと、そう信じられていた。
その部族の娘が王妃となったのは、まだガルムフが若い頃にその美しさに恋して妻に迎えたからだと聞く。しかし、その後ガルムフの父が旧い信仰を捨て新来の「河の信仰」に鞍替えしてしまった。そしてガルムフ自身も。
もっとも、ガルムフがゲルガンドに悪戯めいた目で明かしたことがあるように、その改宗は単に帝国を利用するための政治的なものに過ぎなかったのだが。しかし、以来夫婦の間には深い溝が出来たようだった。
この亀裂は単に王夫妻の間だけにとどまらない。ガルムフは多くを語らないが、帝国府の調べによるとこの国の旧教と新教の対立は深刻だった。特に有力部族には王家のこの決定を承服できない者が多かった。中には反乱を企てた者もいた。
先王もガルムフも反乱者に手厳しかった。王家が新教を選んだのは、外部の蛮族から自国を守るためだけでなく、王の選択に付いていけない国内の有力部族を叩いておくという理由もあったのだろう。そうゲルガンドは推察している。
そして血生臭い粛清は、血を流す報復を呼び寄せ、報復は更に報復を呼ぶ。関係者に緘口令が敷かれ、その死の説明をいくら取り繕おうとも、このところ新教と旧教の間で私刑や暗殺の応酬が繰り広げられていることは誰でも察知することができた。
ゲルガンドは帝国の領内のあちこちで似たような争いを見聞きしている。土着の旧い信仰と帝国のもたらす新しい信仰のせめぎあう様を。その度に彼は思うのだ。その争いの根深さを。
どの信仰もその地で暮らす生活と密着したものだ、と彼は思う。土着の信仰は、長い長い年月、彼らが現実に生活する世界に意味を与え、彼らの生活に秩序と安定を約束してやり、そして代々のその民の願いを反映して編み出されてきたのだ。そう簡単にあっさりと捨て去ることができるものではない。
ある日、彼はガルムフに言ったことがある。
「もう少し旧来の信仰にも気を配った方がよくないか? ここはラクロウ河からずっと離れている。『河の信仰』は河を眼前に暮らす民なら自然なこととして受け入れられるが、河など見たことのない草原の民には俄かに身近なものとは感じられないだろう」
「皇帝の従兄弟がそれを言うか」
ガルムフは笑いながらゲルガンドの杯に酒を注いだ。そして焚き火越しに地平線の彼方を見つめて呟いた。
「世界は変わる」
「……………」
「帝国の庇護の下、いろいろな国が交易によって結びつき豊かになっていこうとしている。ワレギアの羊や山羊、それから出来る毛織物も帝国府に買い上げられることで金銭に代わる。この金銭は貯めておいても腐らないし、何だってこの金銭で購うことができる。もうワレギアの民はこうやって金銭を稼いで他国の便利なものを買う暮らしに馴染み始めている。もう後戻りはできない。帝国とともに生きていくしかワレギアの道はない」
「……しかし……。ガルムフ、君の家族だって……」
「妻のことはあきらめている」
ガルムフは首を振りながらもきっぱりと言い切った。
「だが、君自身の幸せは……」
「あれと楽しく暮らした時もあった。しかし俺は王だ。自身の幸せより民の行く末の為に生きなければならない。ただ……」
ガルムフは顎の髭に手をやる。
「もっとも。自身と民の幸せ、この二つは必ずしも相反するものではない」
そう言った後、今度はゲルガンドの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「ゲルガンド、お前、ティードリーアを妻に迎える気はないか?」
「……ティードリーア姫とは年が随分離れていると思うが………」
ガルムフの唐突な提案にゲルガンドは戸惑う。けれどもガルムフの表情は真剣だった。それは娘を案じる父親の顔だった。
「十二歳差か。しかしティードリーアは同じ歳の娘に比べれば心はずっと大人だ。もっともそれは俺達両親のせいもあるだろうが……」
ティードリーアは優しい響きのその名に反して、少々お転婆なところのある娘だった。草原を馬で駆けたり、ワレギアに伝わる女物の剣を振るうことを好む活動的な少女だ。しかし、幼い頃から両親の不仲に胸を痛めて育ってきたせいか、じっくり話をしてみると複雑な葛藤を抱えているところが確かにある。
「両親のせいというより、彼女が王女として責任感が強いからではないか。さすが父王のよき薫陶を受けただけのことはある……」
ゲルガンドは自分を責めるガルムフを慰めながら、自分の所感を述べる。
二年ほど前、いつもと同じく、ゲルガンドを迎える宴に王妃が出席するか否かで国王夫妻が揉めたことがあった。ワレギアの生活は天幕と共に移動する牧畜中心で、王の居城といってもあまり大きくはない。諍いが起きれば不穏な雰囲気は客人のゲルガンドにも伝わってくる。
彼は、ガルムフに申し訳なく思いながら外に出た。そして、やはり庭の隅の大木に寄りかかっているティードリーアに会ったのだ。
「済まないな、ティードリーア姫。私は君のご両親に迷惑をかけてしまうようだ」
悄然としている彼女に彼は声を掛けた。彼女は慌てて姿勢を正した。
「そんなことはありません。父は貴方がおいでになるのを本当に楽しみにしています。私だって、こちらとは違う剣技を教えていただくのが楽しいです。貴方は父の友人として訪ねて下さるのに、母は少し帝国の方を警戒しすぎていて……。申し訳ありません」
大きな緑宝石のような瞳に憂いを浮かべながらも、彼女はゲルガンドを気遣う答えを返した。
「いや。貴女の母上のご実家は旧教に熱心だと聞いている。人にとって信仰は大切なものだ。そうやすやすと手放せるものではあるまい」
「新教の守護者たる皇帝の従兄弟にそういっていただけると……助かるのですが……」
彼女は軽く笑んだが、その微笑はすぐに消えてしまった。そして眉間を寄せて先ほどより一層憂いの色を深め、長い指をしっかり胸の前で組み合わせて彼女は呟くように言った。
「私の両親の諍いだけではありません。国中に争いの気配があります。新教と旧教と。お互いにお互いを罵り始めている……もし、血が流れる事態が生じれば、憎しみが憎しみを呼んでこの国は血まみれになってしまうことでしょう」
聡い娘だ、とゲルガンドは思った。いや、聡くならざるを得なかったのか。子どもというのは父親も母親も同じく慕う。旧教を守りこれまでどおり秩序だった生活を送りたい母親の願いも、新教の切り開く未来へ国を押し出してやらねばならない父王の義務も、この娘は双方十分に理解し受け止めている。そして、この対立は自分の家族だけでなく国全体の問題であり、いつかはこの国を悲劇の淵に押しやりかねないことも、この娘は分かっているのだ。
可哀想に。ゲルガンドはその時まだ十二歳だったティードリーアの顔を見つめた。普段は馬を駆って草原の中を走り回り、彼から教わった剣の技を試してみては屈託の無い笑顔を見せる活発な少女なのに。その一方でこの娘は、年々深刻さを増す夫婦の確執に心を痛め、国の悲劇を予感して苦しんでいる。
「君一人で何もかも解決しようと思わないことだよ、ティードリーア。父王も母王もそれに家臣たちも、この国の未来を考えるべき大人は大勢いるんだ。大丈夫だよ」
ゲルガンドは彼女の頭をなでてやった。ティードリーアははにかみ、その顔は年相応の少女のものに戻った。その落差に一層、彼女は不憫なほど聡明に育ったのだと彼は思ったのだった。
「そのとおりだ、ゲルガンド。あの娘は聡い」
ゲルガンドの二年前の回想を聞き終えたガルムフは溜息をついた。
「ダルンの方も十分賢いがまだ幼い。あれも国のことを心配はしているけれども、まだまだ父を頼りきっている年齢だからな。私がなんとかすると思っているだろう。だが、ティティの方は賢い上に強い。自分がしっかりして、王女として姉として何とかしなければと思い定めているようなところがある」
ティティというのはティードリーアの愛称だ。こう口にするときガルムフの目に娘への愛情が滲む。
「俺は帝国の中にこそワレギアの未来があると思っている。ティティがお前に嫁げば安心だ。しばらくワレギアは落ち着かないかもしれないが、嫁げばあれも自分の人生に忙しくなってワレギアを案じる暇はなくなるだろう。それに聡明なティティなら皇帝家の親族となっても上手くやっていけるだろうし、それはワレギアの国益に適う」
「……政略結婚というわけか」
ゲルガンドは少し眉を顰める。
「ティティは責任感が強い。どこにいても自身の使命を追求しようとする。それなら、旧いものとの血塗られた抗争より、新しい未来を切り開くことにその王女としての使命感を活かして欲しい。その方がずっと幸せだろう」
「…………」
確かにこの皇帝の従兄弟である自分の妻であれば彼女の将来は安泰だろう。皇帝とその周囲は近年、各国の王家を蛮族上がりと軽んずる傾向を見せているが、ティードリーアなら少々風当たりが強いくらい耐えられるだろう。むしろその聡明さで皇帝達の根拠無き偏見を正してみせるかもしれない。自分が彼女のような賢く強い妻を迎えるのは帝国全体にとってもいいことなのかもしれない。ゲルガンドの頭にそんな考えが浮かぶ。
ガルムフは黙っているゲルガンドに更に言葉を掛けた。
「それにお前は妻を大事にするに違いない。お前のような男ならティティをやってもいい」
しかし、ゲルガンドが彼の顔を見ると、そこには娘を嫁がせようとする父親の複雑な心境がありありと浮かんでいた。
「無理をするな、ガルムフ。君の顔に寂しさが滲んでいるぞ」
ゲルガンドが肩を叩くと、ガルムフは決まり悪そうに酒盃を仰いだ。
「まあまだティードリーア姫は十四歳だ。まだ早い。この話は考えておく。君はしばらく愛娘との時間を楽しんでおくんだな」
ガルムフも本音では娘を手放したくないのか、それ以上ティードリーアとの結婚の話は出なかった。
ただ、ティードリーアには何らかの話がいっていたようだった。いつものように無邪気に馬や剣の話で纏わりついてくることがこの時はなかった。それどころかゲルガンドと目が合うと、恥じらいながら顔を伏せるのだった。
――まだ十四歳。
しかしながら、彼女は少女期を脱して乙女の仲間入りをし始めている。それはゲルガンドにとって不快なことではなく、微笑ましいものだった。もう少し彼女が大人になったら妻に迎えてもいいかもしれない。彼女に与えられることのなかった暖かい家庭というものを、彼女と自分とで築いていく。それは親友のためでもあり、彼にも彼女にも楽しいことのように思われた。
「何を考えているのですっ!」
少女の金切り声にゲルガンドは我に返った。目の前でリザ皇女が立ち上がっていた。荒々しく立ち上がったせいか、卓の上では茶器がひっくり返っている。頬を紅潮させ、目を吊り上げて皇女はゲルガンドを睨みつけていた。
「失礼を致しました」
ゲルガンドも立ち上がり、右手で左胸を押さえて頭を下げた。身分の低いものが高貴な者に対してとる敬礼の仕草だ。確かに自分が悪いとゲルガンドは思った。皇女に対していうのではなく、たとえ相手がただの十三歳の少女だとしても話の途中に全く違うことに長々と気をとられてしまうというのは、相手に対して誠実ではない。
皇女はゲルガンドの礼を受けると、満足げに頷き再び椅子に腰をおろした。ご機嫌はなおったようで、侍女に新しくお茶を持ってくるようにいいつける。ゲルガンドはうんざりしたが、今の無礼を詫びるためにも更にしばらくこの皇女のお茶会につきあってやらねばならないと諦めた。
その時、若い男の声が二人に届いた。
「元帥はお疲れなのですよ」
二人がドアから入ってきた男に眼を向ける。皇女の母の弟、皇女にとっては叔父にあたる、そして帝国軍にあってはゲルガンドの軍吏を務めるホイガ侯爵だった。
ホイガは丁寧に二人に礼をとり、皇女に諭すように言った。
「今日はもう元帥にはお休みいただかないと。そうそう臣下をこきつかうものではありませんよ。皇女様」
皇女はお行儀良く叔父に従う。
「そうね。では今日はゆっくりお休みになって。ゲルガンド元帥」
ゲルガンドはこの時心からホイガに感謝した。この男が後々大きな厄災を自分の人生に持ち込んでこようとは、この時のゲルガンドには思いもよらないことだった。
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