第25話 導きの光

 ◇◇◇



『明星――』


 誰?


『お前は……に、帰る定めの者……』


 えっ? 何? よく聞こえない。


 耳元を唸り声にも似た風が通り過ぎていった。

 誰かが自分を呼んでいる。その声はどこか懐かしくもあり、けれど全く知らないものでもあった。

 明星は風に乗って呼びかける声に導かれるまま、いつしか西陵の邑から外に出ていた。空を覆っていた『九黒クコク』のもやが晴れたせいで、北にそびえる澄金山すいきんざんの緩やかな尾根がくっきりと見える。


「あっちか」


 山を見つめ、明星は服の袖口から『色符いろふ』を取り出した。

 それに指先で色命数しきめいすうの【五】を書きつけ、『五紫ゴシ』の起こす風に乗る。


「月桂さん、ごめんね。気になることがあるから、ちょっと調べてくる」


 明星は空を駆け、ほんの数刻で澄金山の麓へと降り立った。

 足元の草はすべて黒く変色しているが、原形を留めている。原因は『九黒』に生気を奪われたため。それもつい最近と思われる。それまでここはわずかではあるが、生きた緑があったのだ。そして周囲には落石と思われる巨岩があちこちに転がっている。その岩の間から、ぽっかりと口を開けている洞窟が見えた。


『……明星……』


「またか」


 頭痛にも似た痛みがこめかみに走り、明星は顔をしかめた。

 

「今日は十分すぎる程『九黒クコクになったんだよね。俺、葉っぱが腐った臭いがするって言われないかな。『神仙水しんせんすい』でみそぎをしたらよく落ちるんだけど、あれは苦行なんだよね」


 明星は両腕をさすって身震いした。

 水城みずきの都はあちこちで『命水めいすい』と呼ばれる泉が湧いている。目を奪われるほどの青く澄み切った水であるが、魚は住めず、水草も生えない。そこからくみ上げた水は『神仙水』と呼ばれ、外から取り込んでしまった負の気や穢れを落とすために使われる。

 だが飲料には適さない。

 浄化作用が強く、飲むと喉は焼け付き、内臓が爛れて死に至るのだ。


「神仙水はもう……皮膚がヒリヒリするから嫌なんだよね」


 はあと重いため息をつきながら、明星は洞窟の前に立って右手を左手の袖に入れていた。

 『色符』を取り出し、自らの生気でさっと『飛び文』を書く。

 宛名は久遠。

 書き終わると『飛び文』を頭上に放り投げ、次の『色符』を手にする。

 

『……明……星……』


 いくつものしわがれた声が重なったような。重い響きのそれがすると同時に、洞窟から黒い靄の塊が明星めがけて飛び掛かってきた。


 明星は『零白レイハク』の【レイ】を素早く指で書き、白く輝く『色符』を前に突き出した。


 グアアァァア……!

 『九黒クコク』の気が、唸り声のようなものを上げ、『零白レイハク』の結界に行く手を阻まれ後方へと押し返される。


零白レイハク』はすべての色の上に立つ。混じり合うこともあるが、すべての色を吸収し、塗りつぶす『九黒クコク』の上で、唯一光り輝くことができる色。


「俺には通用しないよ。さっさと正体を見せたらどうだ!」

 

 結界に押し返された『九黒クコク』の気が、岩だらけの足元でもぞもぞと蠢いている。西陵のむらを飲み込んだそれと同じくらいの質量かもしれない。霧でできた川のように、洞窟の入口からそれは明星に向かいどろどろと流れ続けている。

 明星の心中は穏やかではなかった。

 『九黒クコク』がどれだけ湧いて出てくるのか。湧き続けるのか。

 先程から明星を呼ぶ声も、はっきりと聞こえたり、聞こえなかったりする。

 そして呼び声を聞くほどに、何故かその元へ駆け付けなければならないという気がする。


「俺に『九黒クコク』の友だちはいないんだけどな。でも……このまま放っておいたら、どんどん湧いてくるよね……君達……」


 今何をするべきか。

 勿論、『九黒クコク』の気がこの洞窟から漏れ出ないように封じることだ。

 明星は右手を左の袖に入れた。


「ん……? んんっ!! 『色符』があと三枚しかない……しまったなあ」


 明星が色命数術を行使するのに、無限の生気を備えていても。

 術を発動させるには『色符』が必要なのだ。

 万物の元素が集まるとされる場所――『九仙郷きゅうせんごう』。色命数術の力は、『九仙郷』に住まうそれぞれの神々へ、術者の生気を『色符』に含ませて捧げることで発動する。


「三枚か。三枚で、何ができるかな……」


 笑える状況ではないのだが、明星は口元に笑みを浮かべていた。

 そうしている間にも、再び『九黒クコク』の靄が明星の周りを取り巻き始めていた。




 ◇◇◇



 伽藍がらんの前の広場では、意識を取り戻したむらの女性達がそれぞれ身を起こして、無事だった人に介抱されていた。

 明星の姿は――。

 周りを見回すよりも前に、月桂は彼の気配が邑のどこにもないことを察した。


『……行ってらっしゃい。俺は……他の人の容態を診てまわるよ』


 別れる前。明星が発した言葉には微妙な温度と間があった。それに引っかかるものを感じてはいた。けれど月桂は『命精筆めいせいふで』が壊れてしまったせいで、明星の気持ちが沈んでいると思ったのだ。だから婆様ばばさまの待つ伽藍へ一緒に来るよう、彼に声をかけるのをためらってしまったのだ。 

 『九黒クコク』に生気を奪われた女性達の容態を診ていれば、少しは陰鬱な気持ちが晴れるかもしれない。そう思ったのに。


 明星、一体どこへ行ったんだ。

 どこに行こうとしているんだ。

 お前が『西陵』へ行きたいと言ったのは。本当の目的は――。


『月桂。あたしが死んだら……魂魄がどこに行くのか、必ず追いかけるんだよ……』

『明星も……そこにいる。私の『命数筆めいすうふで』が、道案内をしてくれる……』


 月桂は空を見上げた。

 ついてこい。

 そう言わんばかりに、金色の丸い光球が北の方へと真っすぐに飛んでいく。

 婆様の『魂魄』だ。

 なんと儚い光なのだろう。西陵の澄み切った青空の中へ今にも消えそうで、不安げな明滅を繰り返している。


 婆様の魂の力が失われている――。

 何故?


 花琳かりん、自らの生を引き延ばし続けたせいだ。

 魂の力を依代よりしろに、寿命を引き延ばすという秘術の存在は、月桂もきいたことがある。

 だがそれを本当に行った色命数士はいないとされていた。

 秘術を用いた代償として術者の魂魄は命の色を失い、輪廻の輪から永遠に外れてしまうらしい。


 どうして。それほどまでにして、花琳は西陵の地を守ろうとしたのか。守らねばならなかったのか。たった一人で。


「あ……」


 月桂は立ち止まり、思わず天を仰いだ。

 視界が揺らいで目元に熱い塊が込み上げてくる。唇を噛み締めて嗚咽を堪える。

 両手で目を押さえる。けれど流れ落ちる涙が止まらない。

 それを拳で無理矢理振り払い、ちかちかと瞬く光球の行方を捜す。

 泣くのは後だ。

 今は婆様の遺言に従って、彼女が伝えようとした真実を見定めるのがやるべきことなのだ。

 

「月桂様……?」


 道ですれ違った女性が驚きの声を上げたが、月桂は軽く頭を下げて先を急いだ。

 魂魄の光は常人にはえない。

 命の色を視ることができる、『色命数士』でなければ。


 月桂は西陵の邑の外へ出た。

 足元の土は、月桂が自宅の庭へ持ち込んでいたそれと同じく真っ黒だった。履物で踏みしめるとカラカラと空虚な響きを立てる。耳障りなその音を立てながら歩き続けると、邑境のごつごつとした岩山まで来た。


 岩と岩の間にできた山頂へ向かう細道は二つに分かれている。左は旅人が踏み固めた白い道。右は黒く変色した植物が岩の間から見えている道なき小径。金色の光は小径の方へふいっと飛んでいく。


 月桂の鼻を枯れ葉が腐ったような、『九黒クコク』の気が発する独特の匂いがかすめた。

 婆様の魂魄を追いかけながら、月桂は考えていた。

 明星は、久遠導師に『九黒クコク』について調べるため、時々調査に行かされていたと話していた。


 『九黒クコク』の影響が一番大きな西陵の地。そこを明星が今まで訪れたことがないのは、おかしいと考えるべきだろう。

 月桂ははたと足を止めた。

 久遠が、明星を西陵に近づけさせたくなかったとしたら……?


 すいっ。

 気付くと花琳かりんの魂魄が明滅しながら月桂の顔の前で浮遊していた。

 気をつけろといわんばかりに。

 月桂は前方から吹き付ける冷気を帯びた風に身震いした。

 同じだ。先程『九黒クコク』の気に飲まれた西陵へ近づいた時と――。


「明星! いるのか?」


 月桂は岩山へ呼びかけた。姿が見えないが彼の気配を感じた。暖かな波動を帯びた『零白れいはく』の結界に気付いたのだ。

 周囲を見渡すと落石があったのか、大小さまざまな岩が転がっていた。

 月桂の背丈を遥かに超える大きさのそれが重なり合って、よく見ると人が入れそうな洞穴が開いている。


 ここはひょっとして……。

 月桂は神樹が言っていた澄金山の洞窟の話を思い出した。

 ここは西陵と東の香蘭こうらん国へ行くための街道だったのだ。ある日地震が起きて落石のせいで街道が塞がり通れなくなった。

 石を取り除く復旧作業中に、岩山に開いた洞窟を見つけ、中に入ってみると古い遺跡があったという。


「明星!」


 月桂の叫び声と同時に、隣でじっとしていた花琳かりんの魂魄が、突如岩山めがけ飛んでいく。

 幽かな灯だったそれがどんどんと光の強さが増して周囲を真昼のように照らす。

 月桂は前方で『零白』の結界がきらりと輝くのを目にした。


 いた。明星だ!

 ぽっかりと口が開いた洞窟からは、黒いもやのように視覚化した『九黒クコク』が、とめどめもなく流れている。月桂の方へ振り返った明星の前には、澄金山と同じくらいの『九黒クコク』の塊が迫っていた。

 月桂と視線が合った明星が鋭く叫んだ。


「月桂さん! 待ってたよ! 今持っている『色符いろふ』全部、『三青サンジョウ』の力を込めて俺に投げて!」




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