第24話 飛花落葉
明星は未だ壊れた『
筆先が失われ、赤い漆塗りの軸は縦に深い亀裂が走っている。
「やはり……耐え切れなかったか」
「えっ」
月桂は明星の手に自らのそれを載せた。強張った明星の指から、壊れた『命精筆』を優しく取り上げる。
「師匠が言っていた事、覚えているか? この『命精筆』の中に入っている『
「な、なんで月桂さんがあやまるの!?」
「私は知っていたんだ。下手をすれば、筆が壊れてしまうかもしれないと。それがわかっていて、お前に危険な役目を押し付けてしまった……」
月桂は明星の両手を握りしめた。術を行使したせいか。いつもより明星の体温が低くて、それが彼の命を脅かしたような気がした。
すっと顔から血の気が失せていく。明星の手を握りしめた自分の指もどんどん冷たくなっていった。
「だから、お前のせいで筆が壊れたんじゃない」
「でも……でも……月桂さん。これがないと、何のために西陵に来たのかわからないよ?」
「そうだな。まあ、あの師匠の言う事が本当だったと確かめることができたじゃないか。『命精筆』が『
ぷっ、と明星が小さく笑った。
「月桂さん、それじゃあ確信がないまま、俺に『
「そういうことになるな」
気落ちしていた明星の顔が、少しだけ明るさを取り戻したように見えた。
「自信たっぷりだったよ。あの時の月桂さん」
「そ、そうかな?」
ぎゅっと明星が手を握り返してきた。
「月桂さんも怖かったよね……すごく手が冷たい」
月桂ははっとなった。
無我夢中だったのだ。『
けれどそれが無謀な賭けであったことを、暗に示唆されてしまった。
「ふふ。でも月桂さんのそういう思い切りのいい所、俺は好きだな。何というか、勇気が湧いてくるというか」
「明星……」
明星がふと月桂から視線を逸らして俯いた。
「でも『命精筆』は壊れてしまった。どうしたらいいんだろう。俺の髪があっても、肝心な『命石』が手に入らないと月桂さんは『命精筆』を作れない」
「それは……」
明星の懸念は最もだ。鳳庵の『命精筆』だけでは、西陵の地下――『八色の燈台の間』に溜まっている『
『命石』の入手方法は一つしかない。
鳳庵曰く、筆千本の中に一つあればいい方らしいが……。
可能性がないわけではない。
月桂が明星にそれを伝えようとした時だった。
「月桂様! 神樹様。
岩山をくり抜いて作られた『
西陵の女性たちの格好――黒い帽子に水色の飾り布をあしらったものを被り、銀糸で刺繍された黒い衣装をまとっている。髪は結い上げて帽子の中に入れていた。
「婆様は無事なんだな!」
「はい。でも、お体の具合が思わしくなくて……」
「なんだと!?」
語気荒く神樹が叫んだ。結った茶色の髪を跳ね上げる勢いで、『伽藍』の二階部分にあたる、赤い欄干が見える講堂を睨みつけている。
「あれだけの『
月桂は明星の方へ振り返った。
明星は黙ったまま月桂の視線を受け止めた。
「明星、筆の事は気にするな。手立ては必ずあるから。それより婆様の容態が心配だ。行ってくる」
「……行ってらっしゃい。俺は……他の人の容態を診てまわるよ」
「ああ。頼む」
月桂は神樹と共に『
奥から咳き込む女性の声がする。
「婆様!」
先程、月桂が明星に『
長い黒髪が床に流れ落ち、円柱にもたれるように座り込んでいる
金で桃花の枝を
「助かったよ、月桂。いつになったら故郷に戻ってくるんだろうって思ってたけど、やっぱりいて欲しい時に、ちゃんと来てくれるもんだねえ……」
「婆様。遅くなってすみませんでした!」
月桂は駆け寄った。雰囲気は夢の中で会った時と全く変わらない。
だが。
血の雫が数滴零れ落ちて床に赤い花を咲かせた。
「神樹、薬湯を作るから婆様を看ていてくれ」
「わかった」
「大丈夫……ここに、ここにいておくれ……月桂、ゴホッ!」
花琳の肩が大きく上下して、息を吸い込む音が聞こえた。
口元の血を手で拭い、気迫に満ちた瞳で月桂を見た。
「どうやら、私の命の灯が消える時が来たようだ」
「縁起でもないこと言わないで下さい!」
「そうだ。婆っちゃん、気を確かに!」
ふふっと花琳が笑みを浮かべた。
「大丈夫。自分の役目は……ちゃんと心得ているんだ。おや、あの子はどうしたんだい?」
花琳が何かを探すように首を欄干の外の方へと巡らせた。
「あの子?」
「ごほっ……あの『
「星明?」
「そう。『
「ああ、彼の名前は明星と言って、今世の『
「……明星……っていうのかい。なるほど……」
「婆様、その人がどうしたんだ? 婆様みたいに寿命を引き延ばして今世にいるのか?」
神樹の問いに花琳の顔は青ざめていた。
「どうだろうね……私には、もうどうすることもできない……」
花琳が大きく息を吸い込んで、ふうとそれを吐き出した。結い上げた黒髪は乱れて青白い顔に幾筋も貼り付いている。
花琳の右手が透き通った水晶で作られた『命数筆』に触れる。植物の蔓のように金で飾りつけされた筆の軸を握りしめて、
「月桂、これを持って行ってくれないか」
「婆様?」
月桂は手に押し付けられた『命数筆』を握りしめた。
冷たい水晶の塊のはずなのに、それは何故かほんのりと温かかった。
「『
「なんだって?」
「『
「それは何者なのですか! 婆様」
花琳の瞳が何かを憂えるように細められた。
「あやつを責めないでやっておくれ。だけど、『
花琳が再び咳き込んだ。
荒い息遣いをしながら、花琳の切れ長の目が一直線に月桂のそれを射た。
「月桂。あたしが死んだら……魂魄がどこに行くのか、必ず追いかけるんだよ……」
「婆様。縁起でもない!」
「……明星も……そこにいる。私の『命数筆』が、道案内をしてくれる……」
「明星って? 彼は今、外で他の人の介抱をしているはずですが」
「あの子は呼ばれたんだ……あやつに。月桂、神樹、二人共……仲良くするんだよ」
花琳は気だるげに瞼を閉ざした。同時に月桂にもたれかかっていた体から力が抜けるのが感じられた。
「婆様! おいっ! しっかりしてくれ! 婆様っ!」
神樹が花琳の体に取りすがる。琥珀色を帯びた茶の瞳から、みるみる涙が溢れ出て頬に流れ落ちていく。
だが月桂は見ていた。花琳の額から黄色っぽい光球がふわりと飛び出して、頭上でふわふわと漂うのを――。
『あたしが死んだら……魂魄がどこに行くのか、必ず追いかけるんだよ……』
月桂は手にした花琳の『命数筆』が同じように黄色く光るのを感じた。
そして宙に浮いている光球は、ふいっと『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます