第23話 祈り

 月桂は明星の居場所を凝視した。


「あ、やばいかも」


 同じように明星の姿を目で追っていた神樹が呟く。

 白光の尾を引いた流星のように、生気の光を全身から発している明星の動きが、月桂たちが立てこもる結界の上空で止まった。

 じわじわと『九黒クコク』の触手が彼を取り囲む。


「兄者、このままだと明星が」


 月桂は周囲を見回した。空は息苦しく思えるほどの黒い闇に覆われている。

 が、それは『九黒クコク』の気が自分達を取り巻いているからだ。

 そして、それらはすべてここに集まってきている。

 すべて

 時は満ちた。


「明星! 受け取れっ!!」


 月桂は懐から一本の筆を取りだした。それは絹袋に入っていたが、月桂が取り去った瞬間に、赤い夕陽を思わせる光を放っていた。月桂は上空の明星に向かって赤光を放つ筆を投げた。筆は一直線に明星の元へ飛び、見事、彼の右手へ納まった。


「これは……絵師さんの『命精筆めいせいふで』!?」

「『九黒クコク』の気をそれで!」

「わかった! でもどうやって?」


 月桂はにやりと不敵に笑んだ。


「お前の好きな絵を描けばいい。空という、大きな場所きゃんばすにな!」

「よおし……じゃあ、これでもくらえっ!」


 明星が『命精筆めいせいふで』を握りしめて、宙にぐるりと大きな円を描いた。

 それこそ明星が張った『零白レイハク』の結界と同じくらいの、直径3間(5.4メートル)の巨大な円を。

 空を駆けて明星が『命精筆』で描いた円は、始点と終点が交わった途端、上空に向けて赤い光を放った。


 『九黒クコク』の触手が、明星を捕らえようと先端を伸ばす。

 が、その黒いもやは空に描かれた赤い輪の光の中へと吸い込まれていく。

 どくん。どくん。

 『九黒クコク』の気が吸い込まれる度に、明星が手にしていた『命精筆めいせいふで』が夕日のような赤い光を放って明滅する。


「こ、これでいいのかな?」


 明星が『五紫ゴシ』の術を解いて地に降り立った。


「上出来だ」


 月桂は腕組をして結界の内側から空を見上げた。

 明星が描いた丸は赤い月のように不気味な光を放って空に浮かんでいる。

 『九黒クコク』の気は触手の形が崩れ、再び小さな塵となり、さらさらとそこへ吸い込まれていった。


「空が……明るくなってきたな」


 神樹が立ち上がった。

 うっすらと青空が見えてきた。白い雲を頂く澄金山すいきんざんの峰も。

 元に戻りつつある空には、『九黒クコク』の気を吸い込んだ、赤い月のようなものがぽっかりと浮かんでいる。


「月桂さん。あれはどうすればいいの?」


 未だ、赤く明滅する筆先を見つめながら、明星が訊ねた。


「『命精筆めいせいふで』の筆先であれに触れてくれ。命石いのちいしが『九黒クコク』の気を吸い込んで、『九仙郷きゅうせんごう』へ送り返す」


 明星が再び『色符』に『五紫ゴシ』の色命数を書いて風を呼び、ふわっと宙に飛び上がった。


「気をつけろよ、明星! あの『気の塊』には筆先で触れるんだ」

「わかった!」


 白金の三つ編みを揺らし、明星が『九黒クコク』を吸い込んだ赤い輪の元へと飛ぶ。

 月桂は祈るような気持ちで見つめていた。


「どうか、『九仙郷きゅうせんごう』の神々よ……明星を守り給え……」


 白い長衣の裾をひらめかせ、明星が『命精筆めいせいふで』の先を赤い輪へ振りかざす。


 『命精筆めいせいふで』の筆と軸の間に入っている『命石』が、あの『九黒クコク』の気をすべて吸い込めますように。

 『命石』が砕けませんように……。


 ただひたすら、明星の背に向けて祈る。

 どうか。

 ――。


 明星が筆を持った手を伸ばし、ちょこんと、赤い輪の先端に触れる。

 すると赤い輪は一瞬びくんと収縮し、飴玉のように丸くなった。しかし次の瞬間、ぱあっと傘のように上空へ広がった。


「まずい! あの塊が地上に落ちると、大地が一瞬で死んでしまうぞ!」


 月桂は叫んだ。


「えっ! そうなの!?」


 明星が左の袖を振ると、『色符』が飛び出した。


「『五紫ゴシ』!」


 明星の左手から『五紫ゴシ』の風が吹いて、傘のように広がった赤黒い塊を下から上に押しやった。


「いい加減、吸い込まれろ!」


 明星は『命精筆めいせいふで』で再び赤黒い塊へと触れた。

 それは煙のように、すうっと筆先へと吸い込まれていく。


「……危ない所だった……」


 地上でその様子を見上げていた月桂は、安堵に胸を撫でおろした。

 同時に明星の反射能力の高さに舌を巻いていた。


 『命精筆めいせいふで』は、使用者の生気も実は同時に吸い取っている。

 元の持ち主の鳳庵師匠は、自分の生気を吸い取られないように、護符を作って身に着けていたはずだ。


 だが明星はそんなものを持っていない。けれど彼は色命数士しきめいすうしとして、恐るべきを秘めている。

 すべての気を遮断する『零白レイハク』の防御結界を張れるのだ。だからこそ、『命精筆めいせいふで』を扱える、稀有けうな存在なのだ。

 明星なくして、西陵の土地の蘇りは叶わない。


「吸い込め~もっと、吸い込め!」


 『九黒クコク』の気が閉じ込められた赤黒い塊は、あっという間に明星の持つ『命精筆めいせいふで』へと吸収されて消えていった。


「ふはははは~! どんなもんだ!」


 すべて『九黒クコク』の気を吸い取って、雲一つない青空を背にした明星が月桂を見下ろした。紅玉のように美しい赤い輝きを放つ『命精筆めいせいふで』を手にしたまま。


「すごい奴だな……」


 月桂の隣で手びさししながら空を見上げる神樹が呟いた。


「ああ。あの『命精筆めいせいふで』を完璧に使いこなしている」

「月桂さん~終わったよ」


 白金の長い髪を羽衣のように宙に舞わせ、天女のごとく明星が地上に降り立った。

 その顔は背負う青空と同じように晴れやかで清々しさに満ちていた。


「ありがとう。ここまで上手くいくとは思っていなかったが……流石だな。『白零位しろぜろい』の実力を見せてもら……」


 月桂ははっと息を飲んだ。

 明星が右手に持った『命精筆めいせいふで』から、ぴしっと何かが割れるような音がしたのだ。


「えっ……!」


 『命精筆めいせいふで』の筆先がぽろりととれて、月桂達の目の前で地面に落ちた。それはぽっと橙の炎が上がってあっという間に燃え尽きた。

 赤い漆塗りの筆軸は縦に引き裂かれ、紅の光を灯す小さな石が宙に浮かぶと、氷が解けるように蒸気が上がり消えてしまった。


「え、ええっと……こっ、これは……」


 明星の顔から色が抜けていった。

 口元がわなわなと小さく震えて、碧い瞳がせわしなく瞬きを繰り返す。


「俺……『命精筆めいせいふで』を、壊しちゃった……?」



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