第22話 明星、闇夜に星のごとく輝く

 視界を遮る黒いもやは更に濃さを深め、旅慣れない月桂は足元の石や岩に躓きかけた。

 その都度、月桂の腕を掴んで体を支えてくれたのは、一つ年下の弟――神樹だ。

 『九黒クコク』の気に襲われた西陵のむら。住民達を見捨てて自分だけ逃げてしまった。

 涙ながらにそう訴えた弟は、今は何とか自分を取り戻したように見える。しかし燃える熾火のような橙色の瞳には、悔恨の感情が沈んでいた。


 明星が張ってくれた『零白レイハク』の放つ結界――白い提灯を灯したようにも見える――それを明かり代わりにして、月桂達は注意深く山道を進んだ。

 生き物の気配がない。

 もちろん視界が悪いせいもあるが、その場の空気すらも息を潜めたような静けさが広がっている。

 足元は岩や小石ばかりで、それを踏みしめるざりざりとした足音だけが響いていた。


 そんな不気味な静寂に包まれたまま、月桂の目はついに西陵の入口を示す大きな崖を捉えた。

 水城みずきの南天楼(四階建て)に匹敵するぐらいの高さがあり、馬車一台通れる穴が開いていて、そこを抜けると邑の中に入れるのだ。


「気をつけろ。この先で黒いもやの塊みたいなのが動いて、俺の方へ一斉に襲い掛かってきたんだ」


 馬の手綱を引いた神樹が低い声で呟く。


「そうか。明星、気をつけよう」

「うん」


 言葉少なく明星が返事をした。

 快活な彼も緊張のせいだろうか、口数が減っていた。

 神樹の言う通り、邑の入口は中が見通せないほどの闇に覆われていた。そこから吹き付ける風も冷たさが増してきた。

 唯一の温かさは明星が張ってくれた背中の結界だ。羽毛布団を被ったようにほかほかとしている。

 これがなければ体温が保てず、すぐさま全身が凍えてしまうような冷気だった。


 周囲に油断なく気を配りながら、邑の中へ入って行く。

 月桂は密かに安堵した。結界の光に照らされたその風景は、夢の中で見たものと変わっていなかったからだ。

 灰色の平べったい石を積み上げた平屋が、白い道沿いに点々と建っている。

 だが道端に生えている草花がすべて真っ黒に染まって枯れていた。足で触れるとそれはばらばらになって黒い粉となり散っていった。


「西陵で、唯一草木が生える場所なのに……」


 月桂は俯き、嘆息した。

 信じたくなかった。

 今見ている風景の方が夢ではないのか。


 婆様ばばさま、婆様。言って下さい。

 月桂、お前は不吉な夢を見て不謹慎だよと。

 早く目をお覚まし――と。

 そう、叱って下さい。


 けれど耳を澄ましても聞こえるのは、ヒョウヒョウと哭く風ばかり。

 頬にまとわりつく髪を手で払いのけた時、明星が叫んだ。

 

「誰か倒れてる!」


 白い衣をひらめかせて、明星が先に駆け出した。


「明星!」


 慌てて月桂と神樹(馬を引きながら)もその後を追う。

 月桂の目にも家の戸口の前で倒れている、黒い民族衣装を着た女性に気付いた。

 外へ逃げ出そうとして間に合わず、倒れてしまったように見える。

 明星が女性に駆け寄り膝をつく。月桂は女性のまとう生気の量が、極限まで少なくなっていることに気付いた。

 三十代と思しき女性の顔は蒼白で、唇は黒に近いほど青ざめ体は冷え切っていた。


「大丈夫。まだ間に合うよ。月桂さん」


 明星の言葉に月桂は頷いた。同時にそれぞれ袖に手を伸ばし、『色符いろふ』を取り出す。


「いくぞ、明星」

「はい!」


 月桂は髪に挿していた『命数筆』を引き抜いた。

 ふっと頬を冷気がかすめた――『九黒クコク』の気。背筋がびくっと震える。

 それらが、いつのまにか月桂達をぐるりと取り巻いていた。幽かにその流れが目視できるぐらいの濃度だから、すぐに生気を吸われるほどではない。だが生きた人間がいる以上、生気に惹かれてじきに大量の『九黒』の気が集まってくるだろう。


「【二つ】――天まで上がれ。貪欲なる炎」


 月桂は一枚目の『色符』に色命数の【】を書いた。


「【三つ】――青き水龍となり出でよ、流れる大河」


 二枚目の『色符』に【】を書く。


 命数筆を口に咥え、月桂は右手に煌々と炎を上げる『二赤ニセキ』の色符。左手に水が滝のように流れ落ちる『三青サンジョウ』を持ち、顔の前で二枚の『色符』をぴたりと合わせた。


 『二赤ニセキ』の炎と『三青サンジョウ』の水は、一瞬でお互いの力と反発し、月桂を中心に水蒸気の爆風が吹いた。

 濛々と立ち上る白い水蒸気の煙に巻き込まれた『九黒クコク』の気は、四方へと吹き飛ばされた。


「祝詞省略! 『零白レイハク』っ!」


 明星が【】を書いて『色符』を空に投げる。

 真っ白な眩い光が四方へ尾を引いて流れると、それは細かな光の粒子となって、頭上から雪の結晶のように降り注ぐ。


「結界が出来たよ。『九黒』の気は入ってこれない」

「わかった!」


 月桂は倒れている女性の傍に膝を付き、急ぎ『四緑シリョク』の力を送る。

 一刻も早く生気を補わなければ、彼女の命の灯が消えてしまう。明星のように祝詞を省略したいが、ここはちゃんと手順を踏んで『九仙郷きゅうせんごう』の神々に祈りを捧げなければ、術が発動しないことがある。


「我願う。【一つ】日輪巡り、【三つ】水脈と合わさりて、【四つ】萌える緑とならん――『四緑シリョク』!」


 手にした『色符』に『四緑シリョク』の文字が薄緑色の光を纏って輝いた。

 月桂は『色符』を女性の胸元に押し当てた。同時に明星の祝詞の声が声高に上空で凛と響いた。


「我願う。【三つ】青き母なる海よ、【四つ】萌ゆる新緑の森。共に命育む場とならん――『七碧ナナヘキ』!」


 薄絹で覆われたような結界の中を、清々しくも甘い花の香が流れていった。

 息を吸い込むと四肢に力が漲るような、新たな生気が注がれていくのがわかる。

 呼吸が楽になった。


「ゴホッ……!」


 真っ白な肌をしていた女性の頬にじんわりと赤味がさしてきた。咳き込むとぱっと黒い粉がその口から吐き出されたが、花薫る『七碧ナナヘキ』の碧い風に触れると、白い光と化して消えていった。


 女性の呼吸が少しずつだが、深く、ゆっくりとしたものに変わっていく。

 胸の上に置かれた『色符』――月桂の『四緑シリョク』の力が、女性に生気を与えているのだ。


「兄者、この人も頼む」


 神樹がまた別の女性を結界の中へ運び入れていた。

 栗毛の馬の背にも小さな子供を二人載せている。

 月桂は強くうなずいた。


「わかった。ここに寝かせてくれ。順番に生気を補っていく」


 神樹は家の中に入って、息がある住人を見つけては、結界の中へと運び入れた。月桂は一人一人に『四緑シリョク』の力を込めた『色符』を置いて生気を送り続けた。

 農閑期で男は出稼ぎに出ている。

 ここにいるのはほとんど女性と子供達だけだ。

 神樹が運び入れた住人は、はや十人になっていた。


 みし。みし。


「……」


 耳慣れぬ音が聞こえた気がした。月桂は額に浮いた汗を袖で拭った。

 明星が張った『零白レイハク』の結界はきらきらと白く光りながら、『九黒クコク』の気が入るのを防いでいる。

 しかし気のせいだろうか。先程よりも、目視できる『九黒』の濃度が増しているようなのだが。


 みしっ。みしっ。


「なんだよ、あの不気味な音――」


 音に気付いた神樹が顔を上げた。


「結界が――」

「えっ? どうした、明星」


 明星は袖口を探り、新しい『色符』に再び【零】を書いて、結界に力を送る所だった。


「『九黒クコク』が密集して結界を破ろうとしているんだ。上を見て。タコの触手みたいな形をしてて、結界にぶつかってる」


 月桂は明星が言う通り、幕のような結界に黒くて長い触手のようなものが振り下ろされるのを見た。結界に黒い触手が触れると、みしっと軋む音がした。


「大丈夫か?」


 心配そうに神樹が明星に訊ねる。


「結界はいいんだが、防戦一方じゃねえか。『九黒クコク』の気を消す方法はないのか?」


 明星が再び頭上に『色符』を投げつけた。

 結界の中から外の『九黒クコク』を睨みつけながら。


「『零白レイハク』は『九黒クコク』の力にできるが、滅ぼすことはできないんだ」

「なんだよそれ!」

「だけど……神樹さんの言う通り。ずっと結界を張って、ここにとどまることはできない」


 月桂は立ち上がって両腕を組んだ。


「やばい。月桂さん。『九黒クコク』が俺達の生気に惹かれて集まりだした」


 月桂は漆黒のもやを見つめていた。ゆらゆらと煙のような形をしつつ、あちらこちらから流れてきて、川のようにその質量が増加していく……。


「兄者! こんな時に何、ぼーっとしているんだよ。ここから逃げないと、明星の結界の力が消えた途端、『九黒クコク』に命を吸われちまうんだぞ」


「明星。お前に頼みがある」

「月桂さん?」


 月桂は目視できる『九黒クコク』の気の流れをじっと追う。

 他より密度がずっとがある。ここから五十歩ほど先にある崖の上。暗くてよく見えないが、赤い屋根が張り出した建物がある。西陵の伽藍がらんだ。あそこにもっともっと九黒クコク』の塊が漂っている……。


「何をすればいいの?」


 明星が近寄ってきた。


「前を見てくれ。あそこ……崖から突き出た赤い屋根が見えるだろう。西陵の伽藍だ。あの中に入って、お前の生命の泉のごとく溢れ出る「生気」の存在を、『九黒クコク』に知らしめて欲しい」


「つまり……囮になれと?」


 明星の碧い瞳が理解の色を示した。おっとりした性格だが頭の回転が速い。


「そうだ。婆様が……いや、西陵の伽藍の導師が生きているなら、あの中へ住人達を避難させているはずだ。そして『九黒クコク』の気は、彼らの命に引き寄せられている」


「わかった。伽藍の中の『九黒クコク』の気をすべて俺に引きつければいいんだね」


「あ、兄者、正気か? 明星がすごい術者でも、一人で行かせるなんてあんまりだろう!」

「大丈夫。私に考えがある」

「じゃ、行ってくる」

「ちょ……ちょっと待て明星!」


 神樹が慌てて明星の袖をむずと掴んだ。


「馬鹿! 簡単に返事をするな! 伽藍の中にどれだけの『九黒クコク』の気が満ちているかわからんだろうがっ」


「ならば余計に急がねば。明星、行ってくれ。婆様たちがもたない」

「神樹さん」


 明星が神樹の手をそっと掴んだ。


「えっ」


 まるで月の女神が微笑むように、穏やかな笑みを浮かべた明星がそこにいた。


「心配してくれてありがとう。でも自分の身はちゃんと守れるし、月桂さんの事を信じているから。じゃ……行ってくるね」


 明星は一枚の『色符』を袖から取り出し、指先で『五紫ゴシ』の色命数を書いた。

 風が明星の足元へと滑り込む。その気流に乗って明星の体は金色の矢のごとく宙へと飛び上がった。

 地上から約二間(3.6m)の高さにある、赤い欄干の部分から伽藍の内部へと入り込む。

 

「あ、兄者……あれを」


 神樹の声が少し震えている。弟が驚くのは無理もない。『九黒クコク』のもやが形を取り始めていた。人間の手のように。

 それは一本、二本と数を増していった。


 『零白レイハク』の結界に避難している月桂たちの命を欲するように、靄は百本以上の手となって、上方から覆い被さってくる。


 『九黒クコク』の指先が白い光を放つ結界に触れる度に、白い蒸気が上がった。

 『零白レイハク』と『九黒クコク』の力がぶつかって小規模の爆発が生じている。同時に『九黒』は『零白』の力をいる。

 それを見て、月桂は『色符』を取り出し『一黄イチオウ』の色命数を書いて頭上へと放った。


「兄者も『零白レイハク』の結界が張れるのか?」

「『零白』の力を使えるのは明星だけだ。私は防御を司る『一黄イチオウ』で結界をしたにすぎない。それもあまりもたないがな」


 月桂は唇を噛んだ。

 持久戦というには分が悪い。

 月桂は『零白』の力を結界に流すことができない。

 結界にヒビが入れば修復はできないのだ。

 伽藍の中に飛び込んだ明星はまだ出てこない。


 まだか。

 額からつうと汗が流れ落ちる。

 みしり。みしり。

 『九黒』と『零白』のぶつかる音が最初は頭上だけだったのに、今はそこら中から聞こえる。白い水蒸気のような煙があちこちで上がり始めた。


 明星。

 お前を信じている。

 結界が壊れないうちに、すべての『九黒クコク』の気を連れて来てくれ。

 

「月桂さーん! これでいいの~?」

「明星!」


 月桂は顔を上げた。

 闇の中で蠢く蝙蝠のように。真っ黒な塊を後方に引き連れながら、星のごとく白い光を纏った明星の姿が上空に現れた。


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