第21話 月桂、夢幻の狭間にて

 

「夢……だというのか?  あの大きな『月餅』も?」


「『月餅』? あ、昨日買おうって迷ってた、南天楼の『まん丸☆月餅』のこと? 西陵に持って行くには重いかなって、結局やめたんだよね。あ、月桂さんひょっとして食べたかった? 俺も本当は食べたかったんだ。やっぱり買えばよかったなあ!」


「ああもう。なんだよそれは、。ええと、しっかりしてくれよ、


 神樹が手を伸ばして月桂の着物の袂を掴んだ。ぐっと神樹の顔が近づいてくる。

 目が笑っていない。まるで好物のおかずを月桂に取られたかのように、眉を吊り上げ橙色の瞳を凄ませている。


「寝ぼけている暇はないぜ。あんたは本当に、高い所がだめだからなあ……。ほら、ちょっと薄暗いけど、澄金すいきん山が正面に見えるだろう? ここは西陵の入口から三里(約1.2km)離れた間道だ。それにしても、まさか空飛んでくるとは思わなかったが、明星が不時着していてくれてよかったぜ。俺はあやうく兄者達を通り越す所だった」


 月桂は眉間を指で押さえた。

 なんとなくだか、状況が見えてきた。

 西陵に着いて婆様ばばさま達とお茶を飲んでいたのは、どうやら夢だったらしい。

 夢か。と意識して、少しだけほっとした。

 西陵の住人たちは明星を見て、何故か月桂が『嫁』を連れて帰ってきたと思っていたからだ。


 そしてあの声――。

『月桂。目をお覚まし!』

 夢の中で呼びかけてきた、聞き覚えのある声。

 柔らかな中にも叱咤するようなそれは、まぎれもなく『婆様』――花琳かりんのものだった。


「――すまん」

「いや、いい。俺だっていろいろあって……混乱してたから……」


 神樹が月桂の襟から手を離し、咳払いして地面に座り込むと胡坐をかいた。

 月桂は弟を見上げながら覚束ない記憶を辿る。


「ええと。つまり私は気を失って、西陵に着いた夢を見ていたんだな」

「そう言う事になると思う」

「ついでに言うと、『まん丸☆月餅』が本当は食べたかったっていう願望があったんでしょ、月桂さん」


 明星がにやにやと薄笑いを浮かべている。


「願望って……いや、ない」

「ええ? 本当に? ほら……夢って、心の底の願望が現れるって言わない?」

「それは……いや、ない」


 月桂はカッと頬に熱が集まるのを感じた。

 そんな。夢に願望が現れるのだとしたら――。

 確かに、家族で食卓を囲んだり、懐かしい故郷のお茶を飲んだりしたいというのは思っている。それ以上に強烈だったのは、西陵の女性陣が、明星を見て月桂の『嫁』呼ばわりしていたことだ。


「なんかいい夢見てたと思うんだよね……」


 疑うように明星が月桂の顔を上から覗き込んでいる。

 その手には依然、白い光を放つ『色符いろふ』が握られていた。

 そこからは月桂たちを守るように、温かくも澄んだ清浄の気に満ちた『零白レイハク』の力が感じられた。


「ん? 結界を張っているのか? 周囲の薄暗さは『九黒クコク』の気のせいか」


「あ、月桂さん誤魔化す? まあいいや。そうだよ。ここまで『五紫ゴシ』の風に乗ってきたけど、あの山――澄金すいきん山に真っ黒いもやがかかっていて……普通じゃない『九黒クコク』の気が取り巻いていることに気付いた。ここも『九黒クコク』の力が漂っているから、結界を張って月桂さんが起きるのを待っていたんだ。そうしたら、西陵の方から神樹さんが馬を飛ばして来たのが見えて――」


「西陵から?」


 月桂は嫌な予感がして不安げに神樹を見つめた。


「兄者……むらはもう……」


 神樹の声がかすれて語尾が震えていた。膝の上に置かれた両手が、ぎゅっと強く強く握りしめられる。橙色を帯びた瞳が今は力なく伏せられ、溢れる感情を堪えるように、口元を噛み締めている。

 月桂は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


「まさか」


 吐息と共に信じられない思いが体中を駆け巡る。

 ひりつく喉の痛み。風はざらついた砂を運ぶ。『九黒クコク』の気で闇色に霞む澄金山。その麓にある、我が故郷――。


「西陵が、『九黒クコク』に


 嗚咽と共に神樹の瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。


「兄者、兄者……!!」


 泣きじゃくる弟の頭を、月桂は無言で引き寄せると胸に抱えた。


「まだ誰か生きているかもしれねえ! でも俺は。中まで入ることができなかった! あの黒い靄……一斉に俺めがけて襲い掛かろうとした……俺は、馬の首を巡らせて、ひたすら道を戻った。俺はむらを……皆を、見捨てて逃げたんだ!」


「神樹、自分を責めるな」

「でも……!」

「お前が無事でよかった。でないと、私達も『九黒クコク』の気に飲まれていたかもしれない」


 月桂は神樹の頭を抱く手に力を込めた。

 信じられない。

 信じ、たくない。

 あれが幻になったというのか?

 かまどから上がる白い煙。その前の広場で遊ぶ幼い子供達。

 春、唯一花開く桃花の木。咲いた花で花冠を作ってくれたおばあさん。

 揃いの黒と水色の民族衣装で出迎えてくれた女性達。


「こんなことになるのなら、俺も色命数士の修行……ちゃんとやっとけばよかった。そうすれば、少しは」


「状況はわかった。神樹、明星、行くぞ。私のせいで、貴重な時間を消費してしまった。大丈夫。きっと婆様ばばさまが皆を『九黒クコク』の気から守ってくれているはずだ」


「兄者……」


 涙に頬を濡らした弟を見ながら、月桂は口元を引き締め力強く頷いて見せた。


「明星。これから西陵へ向かうぞ。我々に防御結界を張り続けることは可能か?」


「任せて。じゃあ、月桂さんと神樹さん。ええとそれから……神樹さんのお馬さんにも必要だね」


 明星は左の袖口に手を入れて『色符いろふ』を三枚取り出した。ふわっと『色符』が宙に浮き、明星の目の前で一列に並ぶと静止した。

 明星は薄く笑みを浮かべて右手の人差し指をさし上げる。

 まるで蝋燭の炎を掲げるように金の光がその先に満ちた。


「『零白レイハク』はすべての色の上に出でて、混じる事あたわず。故に光り続ける」


 祝詞を紡ぐと、明星は右の人差し指で【零】の色命数を『色符』に書きつけた。それは金色の光を放ち、すうっと勝手に動き出すと、月桂たちの背中へペタリと貼り付いた。(神樹の馬は腰の部分に貼り付いた)


「よし。これで『九黒クコク』の気の中にいても、生気を吸われることはないよ」

「ありがとう、明星」


 月桂は立ち上がり、更に薄暗さを感じる岩山の峰を睨みつけた。

 まだ間に合う。

 婆様が、夢の中で無事を伝えてくれたから。

 あと少しだけ辛抱して下さい。

 今、そちらに参ります。

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