第21話 月桂、夢幻の狭間にて
「夢……だというのか? あの大きな『月餅』も?」
「『月餅』? あ、昨日買おうって迷ってた、南天楼の『まん丸☆月餅』のこと? 西陵に持って行くには重いかなって、結局やめたんだよね。あ、月桂さんひょっとして食べたかった? 俺も本当は食べたかったんだ。やっぱり買えばよかったなあ!」
「ああもう。なんだよそれは、明星。ええと、しっかりしてくれよ、兄者」
神樹が手を伸ばして月桂の着物の袂を掴んだ。ぐっと神樹の顔が近づいてくる。
目が笑っていない。まるで好物のおかずを月桂に取られたかのように、眉を吊り上げ橙色の瞳を凄ませている。
「寝ぼけている暇はないぜ。あんたは本当に、高い所がだめだからなあ……。ほら、ちょっと薄暗いけど、
月桂は眉間を指で押さえた。
なんとなくだか、状況が見えてきた。
西陵に着いて
夢か。と意識して、少しだけほっとした。
西陵の住人たちは明星を見て、何故か月桂が『嫁』を連れて帰ってきたと思っていたからだ。
そしてあの声――。
『月桂。目をお覚まし!』
夢の中で呼びかけてきた、聞き覚えのある声。
柔らかな中にも叱咤するようなそれは、まぎれもなく『婆様』――
「――すまん」
「いや、いい。俺だっていろいろあって……混乱してたから……」
神樹が月桂の襟から手を離し、咳払いして地面に座り込むと胡坐をかいた。
月桂は弟を見上げながら覚束ない記憶を辿る。
「ええと。つまり私は気を失って、西陵に着いた夢を見ていたんだな」
「そう言う事になると思う」
「ついでに言うと、『まん丸☆月餅』が本当は食べたかったっていう願望があったんでしょ、月桂さん」
明星がにやにやと薄笑いを浮かべている。
「願望って……いや、ない」
「ええ? 本当に? ほら……夢って、心の底の願望が現れるって言わない?」
「それは……いや、ない」
月桂はカッと頬に熱が集まるのを感じた。
そんな。夢に願望が現れるのだとしたら――。
確かに、家族で食卓を囲んだり、懐かしい故郷のお茶を飲んだりしたいというのは思っている。それ以上に強烈だったのは、西陵の女性陣が、明星を見て月桂の『嫁』呼ばわりしていたことだ。
「なんかいい夢見てたと思うんだよね……」
疑うように明星が月桂の顔を上から覗き込んでいる。
その手には依然、白い光を放つ『
そこからは月桂たちを守るように、温かくも澄んだ清浄の気に満ちた『
「ん? 結界を張っているのか? 周囲の薄暗さは『
「あ、月桂さん誤魔化す? まあいいや。そうだよ。ここまで『
「西陵から?」
月桂は嫌な予感がして不安げに神樹を見つめた。
「兄者……
神樹の声がかすれて語尾が震えていた。膝の上に置かれた両手が、ぎゅっと強く強く握りしめられる。橙色を帯びた瞳が今は力なく伏せられ、溢れる感情を堪えるように、口元を噛み締めている。
月桂は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「まさか」
吐息と共に信じられない思いが体中を駆け巡る。
ひりつく喉の痛み。風はざらついた砂を運ぶ。『
「西陵が、『
嗚咽と共に神樹の瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。
「兄者、兄者……!!」
泣きじゃくる弟の頭を、月桂は無言で引き寄せると胸に抱えた。
「まだ誰か生きているかもしれねえ! でも俺は。中まで入ることができなかった! あの黒い靄……一斉に俺めがけて襲い掛かろうとした……俺は、馬の首を巡らせて、ひたすら道を戻った。俺は
「神樹、自分を責めるな」
「でも……!」
「お前が無事でよかった。でないと、私達も『
月桂は神樹の頭を抱く手に力を込めた。
信じられない。
信じ、たくない。
あれが幻になったというのか?
春、唯一花開く桃花の木。咲いた花で花冠を作ってくれたおばあさん。
揃いの黒と水色の民族衣装で出迎えてくれた女性達。
「こんなことになるのなら、俺も色命数士の修行……ちゃんとやっとけばよかった。そうすれば、少しは」
「状況はわかった。神樹、明星、行くぞ。私のせいで、貴重な時間を消費してしまった。大丈夫。きっと
「兄者……」
涙に頬を濡らした弟を見ながら、月桂は口元を引き締め力強く頷いて見せた。
「明星。これから西陵へ向かうぞ。我々に防御結界を張り続けることは可能か?」
「任せて。じゃあ、月桂さんと神樹さん。ええとそれから……神樹さんのお馬さんにも必要だね」
明星は左の袖口に手を入れて『
明星は薄く笑みを浮かべて右手の人差し指をさし上げる。
まるで蝋燭の炎を掲げるように金の光がその先に満ちた。
「『
祝詞を紡ぐと、明星は右の人差し指で【零】の色命数を『色符』に書きつけた。それは金色の光を放ち、すうっと勝手に動き出すと、月桂たちの背中へペタリと貼り付いた。(神樹の馬は腰の部分に貼り付いた)
「よし。これで『
「ありがとう、明星」
月桂は立ち上がり、更に薄暗さを感じる岩山の峰を睨みつけた。
まだ間に合う。
婆様が、夢の中で無事を伝えてくれたから。
あと少しだけ辛抱して下さい。
今、そちらに参ります。
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