第20話 月桂、任重くして道遠し

 母親が病で死んでから、月桂と神樹はこの伽藍で寝起きし、花琳かりんに面倒を見てもらっていた。恐らく母・風凛ふうりんが、後事を頼んでいたのだろう。


 月桂は席を立って勝手知った奥の台所へと向かう。こちらも洞窟を手掘りで広げた空間の中にあり、採光用の小さな窓が開いている。青みを帯びた石卓の上には、花琳かりんが普段使っている茶器が、蓮の葉の形に作られた盆の上に載っている。長年愛用しているそれは茶の成分を吸い、かつ磨かれることで、飴色の見事な艶が出ている。


 月桂は湯を沸かすために、かまどから火箸で炭の欠片を取り出した。そして白い素焼きの風炉の底に入れ、水が入った茶瓶ちゃびん(ヤカンのようなもの)を載せた。

 湯が沸くのを待つ間に、茶葉の準備をする。


 西陵は澄金山すいきんざんを越えた隣国、香蘭こうらんからの商人が休憩するために立ち寄ることがあり、上質な茶葉を入手できる機会があった。

 岩石砂漠だの不毛の土地だのと言われるが、山に埋蔵されている地下資源は金や銀、宝石類などがあり、それら目当ての山師たちでにぎわっていた。

 最も、『九黒クコク』の気の影響で、人が立ち入れる範囲がどんどん狭まり、今は澄金山すいきんざん周辺しかなくなってしまったが。


 月桂は戸棚の一番上の引き戸を開け、まずは自分と明星のための茶碗を取り出した。そして見覚えのある保存用の鉄の箱のふたを開けて、茶葉の包みを一つ取る。

 商人達が運搬しやすいように、茶葉は銅銭より一回り大きい形で円筒形に固められ、湿気を防ぐため竹の皮で包んである。


 月桂は固い茶葉の塊を、石を加工して刃物状にしたものでほぐした。

 そうしている間に、お湯が沸くぷつぷつとした音が聞こえる。白い湯気が上がるまでもう少しだけ待つ。固められた茶葉を開かせるためには、できるだけ沸騰させたお湯が必要で、香りも良く出るのだ。

 

 月桂はほぐした茶葉を茶壺ちゃつぼ(急須)に入れた。ころんとした丸みを帯びた形で、月桂の手の中にすっぽりと納まる。子供の頃は大きく感じたものだと思いつつ、風炉にかけていた茶瓶の取っ手を掴み、沸いたお湯をなみなみと注ぐ。


 茶壺に入れた最初の湯はすぐに捨てる。

 茶葉を固めるために使った糊や汚れを落とすためだ。

 そして二回目のお湯を再び茶壺に注ぐ。

 ふうわりとした懐かしい香りが辺りに満ちる。

 鼻孔から吸い込んだ、若干黴臭さも残るその香りに、月桂はそっと目を閉じた。


 西陵にいるのだなあ……と。ふと思う。水城みずきでお茶を飲むことはあまりなかった。高価だったし、水郷にふさわしく、水自体がおいしいためだ。

 茶壺から漂ってきたお茶の香りは、忘れかけていた、子供の頃の遠い記憶を呼び覚ますようだった。


 一日の終わりに婆様ばばさまと神樹と月桂。

 三人で卓を囲んでお茶を飲むひと時があった。

 神樹はお茶を作るのをいつもめんどくさがった。だからこれは月桂の役目だった。

 昔と同じ作法でお茶を作ることが出来たと思う。

 香りが失われないうちに、婆様にお茶を飲んでもらいたい。

 月桂はいそいそと、明星と花琳かりんが座る卓へ戻った。


「お茶ができました」

「ありがとう」


 目を細めて花琳かりんが微笑む。両手を組んで顎をのせ、小首をかしげる彼女の笑みも……昔とちっとも変わらない。

 茶碗を卓へ置くと、明星がはっと我に返ったように両手を打った。


「あっ、婆様。お土産があるんです。南天楼の『月餅』。胡桃や木の実がぎっしり入ってて、お茶に合うからみんなで食べよう!」


 明星が肩から掛けていた水色の布袋の口を開き、中を漁りだした。


「ええと……これは胡麻団子。ちまき。杏子飴、じゃない……ええと……あった!」


 どおおおおん!

 丁寧に黒竹の皮で包まれた、丸い漬物石のような塊を明星が卓に置いた。

 彼の両手を横に並べたぐらいの、月餅にしては非常に大きいものである。


「中身を見てみるね~楽しみ~」


 ばりばりと竹の皮を剝がされて姿を現した月餅は、黄色くまんまるとしていて、幾重にも薄皮を重ねたふわふわとした外観だ。だが、明星がいつの間にか手にした小刀で半分に切ってみると、黄色の卵餡と胡桃、蓮の実や木の実などが、これでもかと詰まっているのが見えた。


「おやまあ。本物のお月さんを持ってきたみたいで美味しそうだね! 水城みずきの月餅なんて……食べるの、何十年ぶりだろうかね。これをあたしたちだけで食べるのは勿体ない。夜の宴の時に、みんなに振舞ってもらえないかねぇ」


 確かにそうだ。月桂は内心婆様の言葉に同意した。

 明星が持ってきた月餅は、切り分けたら余裕で三十人分ぐらいになるだろう。


「わかりました! もらったお花のお礼に、皆さんに食べてもらうことにするね。じゃあ……今はこの胡麻団子で!」


 明星が大きくうなずいて、今度は少し小さめの、竹の皮で包んだものを卓の上に置いた。


「この子ったら……どれだけ菓子を持っているんだい」


 口をぱかっと大きく開けて花琳かりんが笑った。


「明星は、菓子がないと生きていけないんですよ」


 月桂も茶を啜りながら、呆れたように呟いた。


「え、何? みんなお菓子、嫌いなの?」

「そういうわけじゃない。ただ……」


 戸惑う明星の顔を見るのが何だか面白かった。子供の頃の神樹みたいで。

 食事の時、神樹は好物のおかずがあったら、月桂の皿から容赦なくかっさらっていったものだ。

 そして喧嘩になって、二人を諫める婆様に「両成敗だよ」と、月桂にもげんこつを頭に落としていった。これは未だに理不尽だと思っている。


 『――月桂』

 

 やわらかい茶の香りが、思い出へと誘っていく。

 忘れかけていた、家族の団らん。みんなで食卓を囲む幸せ。


 十年前のあの頃。西陵の時は穏やかに過ぎていた。

 母、風凛ふうりんが亡くなった後も。

 彼女の志を継いで色命数士しきめいすうしとなり、西陵に緑をもたらしたい。

 そう願うようになったのは――。


『月桂。そろそろ目をお覚まし』


 目を覚ます? いや、醒めたくない。

 これが、ここが、のはずだ。


『そうだね。でも起きてくれなきゃ。都合が良かったから、お前の夢の中で事情を聴いたけど、伝えたいことがあるんだよ』


『月桂、いい加減に目をお覚まし!』




 ◇



「はっ!」


 月桂は雷鳴にも似た声を聞いて目を開いた。辺りは日が落ちたのか薄暗く、赤錆びた夕闇に覆われていた。


「ここは……」


 月桂はもぞもぞと体を起こした。何故か岩に背中を預ける形で座っていたからだ。

 ヒョオオオオ。

 風が耳元でいている。

 息を吸い込むとピリッとした不快感が喉に走った。


「ゴホッ……なんだこの風は。それに、寒い――」


 細かい砂が混ざっているのだろうか。吹き付ける風は木枯らしのような冷気を帯びていた。月桂は体温を奪われまいと両手で肩をかき抱いた。

 すると、前方の視界にチカチカと瞬く星のような白い光が見えた。

 否、明星だ。

 松明のように眩い光を放つ『色符』を右手に掲げ、月桂の方へと歩いてくる。

 ほっとしたような表情で、こちらを見つめていた。


「月桂さん、よかった。気づいた?」


 駆け寄った明星が月桂の前に膝をつく。


「ご、ごめんなさい。月桂さんが高い所が苦手だって、知らなかったから。気持ちよく空を飛んでいるかと思ってたら、月桂さんが白目剝いてたんで、西陵の少し手前で術を解いて降りたんだ」


「えっ? 私はまた気絶していたのか? さっきもその話を聞いたぞ」

って?」


 明星が小首をかしげる。

 真ん中で分けた白金の前髪が動きに合わせてさらりと流れた。


「ええとここは……まだ月桂さんの故郷じゃないって、神樹さんが」

「神樹?」

「……よお。お目覚めか、兄者」


 明星の後ろには、弟が栗毛の馬を連れて立っていた。手綱を手近な岩に括り付けると、ぶるっと鼻を鳴らした馬の口元から白い息が零れた。

 山の中のせいか、やはり寒い。

 月桂は暖をとるため、冷たくなった指先をこすり合わせた。


「お目覚めって……私は、私達は、西陵に着いて『伽藍』で婆様とお茶を飲んでいたはずなんだが」


 やれやれと言わんばかりに、神樹が両手を上げて肩をすくめた。


「にやにやと嬉しそうな顔して寝てたから、明星とどんな夢を見てるのかなって話してたんだが。呑気な夢を見ていやがったんだな」


「――夢? あれが?」


 月桂は自分の顔を覗き込む明星と神樹を、呆けたように見つめた。




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