第18話 月桂、ついに身を固める?


「どう。少しは気分が良くなった?」


 月桂は水を湿らせた白い手巾しゅきんを明星から受け取った。


「……ありがとう」


 冷や汗にまみれた首筋にそれをあてがう。

 ひんやりとした感覚にほうと息を漏らす。


「月桂さん、本当に高い所が苦手だったんだね」


 気まずそうに眉根を寄せ、明星が月桂の隣の石に腰を下ろした。

 細かい埃まじりの風が、白金の長い髪を一つの三つ編みにゆるく編んだ明星のそれをそよがせる。


「ここは?」

「西陵の入口だと思うんだけど、よくわからない。それに月桂さんがぐったりしちゃったから、休むために適当な崖の上に不時着したんだ。どこだかわかる?」


 明星の言葉を受けて月桂は頬が火照るのを感じた。『五紫ゴシ』の術で空を飛んでいた時の記憶は正直ない。意識を飛ばした月桂に、明星はさぞびっくりしただろう。


 恥ずかしい……。

 手巾で顔を覆って再び噴き出した汗を拭ってから、月桂はようやく四方を見渡した。山、山、山。どこまでいっても続く『岩石』の山。

 緑色など一つもない。切り立った崖で連なる荒々しいその風景は、十年ぶりに訪れた故郷、『西陵』そのものだ。


 月桂は右手を差し上げ、北を指差した。

 剣のように直立する山々の中で、一つだけ緩やかな傾斜がついた裾野をもつそれがある。岩肌も少し黄土色を帯びていて、まばらに木が生えているのかうっすらとした緑色をしている。


「あれが澄金山すいきんざんだ。私の故郷はあの山の麓にある。今いる崖を降りて歩けば、数時間でたどり着けるだろう」

「そうなんだ。思ったより近くまで来てたんだね。よかった」


 腰かけていた岩から明星が降りて、ふっと月桂の顔を覗き込んだ。


「顔色も戻ったようだね。さっきまで真っ白だったけど」

「心配かけてすまない。もう……大丈夫だ」


 月桂もまた背中を預けていた岩から離れて、ゆっくりと立ち上がった。

 なるべく下は見ないようにしながら。

 明星が不時着したといっていたけれど、その言葉が本当なら、今自分は切り立った崖の一番高い所にいる。

 高い所にいるとは考えない方がいい。

 再び額に浮かんだ汗を拳で拭ったその時だった。


「歩いて行くんなら下まで降りるね。何、あっという間だから」

「えっ……!」


 明星の手が伸びてきて素早く月桂の腰を掴んだ。


「明……星ッ……!」


 月桂の目は、『五紫ゴシ』の色命数術が発動する時の光を捉えていた。


「ちょっとの辛抱だからね~」

「う、うわぁああああ!!」


 月桂の腰を掴んだ明星が『色符いろふ』を空に放り投げ、同時に崖から身を空へ躍らせた。小脇に月桂を抱えたまま。

 月桂の視界は再び暗転した。



 ◇



 一度ならずまでも。

 明星に強引に空を飛ばされた事がちょっと気に障る。

 ずん。ずん。ずん。

 大股で月桂は見知った故郷へ続く道を歩く。

 ずん。ずん。ずん。


「月桂さぁん! ちょ、ちょっと待って……」


 後方から明星の半ば泣きそうな声が聞こえる。

 立ち止まって振り返ると、岩の間からよろよろと明星が顔を覗かせた所だった。


「な、なんでそんなに早く歩けるのっ!?」


 月桂は黙ったまま明星が追い付いてくるのを待った。心の中でこれは無断で崖を飛び降りた時のお礼だと思いながら。


 青い空と黒い大地。草木一本生えず、ごつごつとした岩肌で覆われた巨石の林。

切り立った崖の間にできた細い古道は、大地を踏みしめる度に小石が乾いた音を立てる。澄金山を目指して登りの山道をかれこれ二時間歩きどおしだ。流石に月桂も足の疲れを感じてきた。


「や、やあっと追いついた。月桂さん、ひょっとして?」


 乾いた風に黒髪を舞わせて月桂は首を横に振った。


「いや、

「嘘だ……怒ってる」

「怒ってない。明星、ほら。むらの入口が見えてきたぞ」

「あっ!」


 明星の声が喜色に弾んだ。目的地が近づいて嬉しいのは月桂も同じだ。けれど明星の声が明るくなったのには理由があった。


「神樹さんだよ!」


 片手を上げて明星が手を振る。

 月桂にも茶色がかった長い髪を頭頂で一つに束ねた弟の姿が見えた。


「早かったな」


 神樹の声には驚嘆が含まれていた。

 それもそうだろう。西陵への道のりは、馬に乗っても丸一日かかるのだ。

 現に神樹だって馬で帰ってきたばかりのせいか、顔には疲労感が漂っている。


「空を飛んできたんだ~」


 両手を広げ、白い袖をひらひらと揺らして明星が得意げに言う。


「空……! 冗談だろ?」


 神樹が疑問に思うのは無理もない。

 冗談だろ? のセリフの後ろには、月桂が高い所が苦手なのに空を飛ぶなどありえない、という意味だ。

 ちらりと神樹がこちらを見た。驚きの表情から、それは妙ににやついた笑みに変わっている。ぎりっと奥歯を月桂は噛み締めた。


「明星の言う通りだ。『五紫ゴシ』の風に乗って……約半日で来ることができた」


「へえ……本当にすごいな。明星。(小声で)あの兄者を空に飛ばすなんて」

「えへへ……(小声で)無理矢理ね」


「まあ、この辺は日暮れると熊や狼、虎も出て危ないからな。明るいうちに着いてよかった」

「神樹、婆様ばばさまは?」

「元気だぜ。兄者が帰るのをとても楽しみにしている。『伽藍がらん』で待ってるぜ」

「わあ、西陵にも『伽藍』があるの?」

「ああ。水城みずきほどの立派なものじゃないがな。ついて来いよ。案内する」




 ◇




 月桂は十年ぶりに故郷を訪れた。

 それは垂直に切り立った崖が壁のようにぐるりと取り囲んだ中にあった。

 岩石の間に荷馬車が通れるぐらいの穴が開いていて、そこをくぐりぬけると、きゃっきゃと子供たちがはしゃぐ声が聞こえてきた。

 足元の土は乾いているが、ここでは下草が生えている。月桂の背を越すぐらいの大木も、数えるほどだが岩々の間から枝を伸ばしている。

 荒涼とした西陵の風景を見てきたせいか、単なる雑草にも癒しを感じる。


「月桂さん。この中は少しだけど緑があるんだね」

「ああ。四方を囲む崖が防風璧になっているんだ。だから『九黒クコク』の気を帯びた風も少しは防げるし、鳥が草木の種を落としたものが発芽して、貴重な緑となっている」


「ふうん……」


 人々は灰色を帯びた岩や石を積み上げた平屋に住んでいた。外に共用のかまどがあり、白い煙がうっすらと上がっている。

 その前の広場で赤い腹かけだけつけた赤子を抱く若い女性。母親にまとわりつく幼い子供達。畑で収穫してきた豆を選別している老婆たちがいた。


「あれっ? 女の人達ばっかり?」


 明星の疑問の声に、先頭を歩く神樹が振り返って答えた。


「ああ。男共はみんな、行商に出ているのさ。春までの農閑期はな。あるいは、商人と同行して用心棒をやっている」


 神樹の後をついて歩くと、崖の下にできた大きな洞窟の前に来た。洞窟の岩肌には長細い八色の布が飾られている。これは色命数を表しているので、ここが西陵の『伽藍』だった。

 

 その洞窟の前の開けた場所では、多くの西陵の住人達(女性)が集まっていた。

 黒を基調とした衣装に鮮やかな水色の布が差し色で飾られている。金の耳飾りに、色石がはめられた首飾りをつけている。そして絹布で作った牡丹を思わせる美しい花を飾った帽子を被っている。月桂にとって懐かしい、西陵の民族衣装だ。それらを身に纏った女性達が、月桂に気付いて一斉にざわめいた。


「月桂さま……お帰りなさい!」

「月桂様!」

「すっかりご立派になられて」

「お帰りなさい!」

「おかえりなさい」


 とて、とて、とて。

 五、六才ぐらいの黒い民族衣装姿の女児が月桂に近づいて、月桂の頭に桃花で作った花冠を載せようとした。月桂はその場に膝をついた。


「よいしょっと!」


 月桂の頭に花冠を載せる女児。


「え、俺も?」

「どうぞ受け取ってくださいな」


 明星の頭にも白髪のおばあさんが桃花で作った首飾りをかけようとする。

 月桂は黙って頷いた。明星は戸惑いながらも、おばあさんに花の首飾りをかけてもらって、ぎこちなく笑みを浮かべる。


「月桂様がお戻りになられて……本当にめでたい。しかも綺麗な『お嫁さん』まで連れてこられてのう……長生きはするもんじゃ……」


 おばあさんが涙ぐんでいた。隣の若い女性もうっとりと明星を眺めている。


「しかも、ついに西陵に緑をもたらす術を持ち帰られたのですね。そして奥方様のお美しいこと……」

「お綺麗な御髪。まるで日の光のよう……。月桂様は夜の月。あなた様は日輪かしら」


「……ええっ? な、何それ?」

「皆さん、ええと、明星は――」


 月桂は内心舌打ちした。きっと神樹が変な事を住人たちに言ったのだ。

 詰め寄る女性達の合間で神樹の姿を探す。その時だ。


「月桂、戻ったか」


 奥の洞窟の方から背の高い黒髪の女性が出てきた。

 鷹のような鋭い目つき。惹きつけられる琥珀色の瞳。周囲の女性達が一斉に月桂から離れて、黒髪の女性のために道を空けた。

 月桂は拱手こうしゅして頭を下げた。


婆様ばばさま、長くこの地を空けて申し訳ございませんでした」

「婆様? えっ、あの人そう呼ぶには若いよ? 失礼なんじゃない?」

「話せばちょっと長くなる」


 小声で月桂は返事をした。

 明星が言う通り、『婆様』と呼ばれるには程遠い外見をしている美女だ。見た目は三十代ぐらいではないだろうか。


 山吹色と白色の長衣を重ね着し、腰まで長く伸ばされた漆黒の髪は艶々とした輝きに満ちている。

 耳の横で結い上げた頭には水晶に金細工を施した『命数筆めいすうふで』が金の飾り板がついたかんざしと共に挿してあった。

 切れ長の瞳を輝かせ、『婆様』は両手を広げて親愛がこもった笑みを浮かべた。


「月桂、ついに『嫁』を迎えたそうだな。実にめでたい! 今宵はお前の帰還も祝って宴を催そうぞ」


「婆様! いや違います。明星はこう見えても男性です。私の友で、西陵の地から『九黒クコク』の気を取り除くため、力を貸してくれる水城みずきの『伽藍』の名代で参りました。『白零位しろぜろい』の導師なのです」


「……何……?」


 月桂の隣で、にへら~と脱力した笑みを明星が浮かべている。

 つんつんと、明星の袖を女児が引っ張った。


じゃないの? 綺麗な?」

「ごめんね~。こう見えてもお兄ちゃんなんだ。俺」

「お兄ちゃんならなおさら、私のお花受け取って!」

「あ、私のもっ!!」


 数名の女児が百合や野菊などの野花を明星に押し付けるようにして渡した。

 明星の両手には、あっという間に抱えきれないほどの花で覆われていた。


「わああ。気持ちはうれしいんだけど、もう持てない。月桂さん~どうしてみんなお花を俺にくれるの?」

「あ、ああ……。西陵では……その……」


 月桂は咳払いした。


「私ももう少し若ければ、あの者に求婚するんだが」

「婆様、本気ですか?」


「月桂の嫁なら仕方がない。諦める」

「ですから、嫁ではなく『友人』と言っているではないですか!」


「おや? 神樹はお前が嫁を連れて戻ってくると言っていたぞ」

「それは、神樹の勘違いです!」


「ふふ……月桂、お前は恥ずかしがり屋だったな。よい。仔細は中で聞こう。神樹、皆を解散させよ。ああ、月桂が戻った祝いは行うから、皆、宴の準備をしておくれ」


「婆様、承知いたしました」


 意味ありげな笑みを浮かべて神樹が返事をした。


「月桂さん~このどうしよう」


 明星の途方に暮れた声が聞こえる。まるで花で作った衣装を着たみたいに、明星の首から下がそれで埋もれている。女性達がクスクス笑っている。


「明星、西陵では緑が貴重だからな。その辺に捨て置くと、女性陣の怒りを買って今夜、ごちそうがお預けになるぞ」


「ええっ~神樹さん、そんな意地悪言わないでよ……」


「神樹、桶に入れて宴の席に飾っておいてくれ。それでいいですよね、皆さん」


 民族衣装に身を包んだ女性達がにこやかに微笑んだ。


「月桂様がそう仰るのなら」

「とってもお花が似合いのお方ですわ。このまま飾っておきたい~」

「見て見て! お兄ちゃんがお花を持つと、きらきら光るよ。きれい~」



 きゃあきゃあ。

 女性達の黄色い声を聞きながら、月桂は溜息をついた。

 西陵は娯楽が少ない。女性達も夫や恋人たちが農閑期の出稼ぎに出ていて寂しさを抱えている。神樹が明星を月桂の嫁、とみんなに言いふらしたのも、彼女たちの閉塞感を和らげようとするものだったのだろう。


 言っていい冗談と、悪い冗談があるがな。

 そう思いつつも月桂もまた、唇に笑みを浮かべていた。


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