第三章 月桂、故郷に帰る
第17話 旅は道連れ、世は情け
「いい天気だね。空が晴れ渡っていて絶好の旅行日和だよ。どうしたの? 月桂さん。何か顔色が悪くて引きつっているみたいだけど?」
「……気にするな。大丈夫だ」
月桂は明星の底抜けに明るい声を背後で聞きながら、店の戸締りをした。
忘れ物はないか頭の中で確認する。何しろ西陵へ戻るのは十年ぶりのことであった。しかもその道程は徒歩だと軽く三日かかる。途中、険しい山道が続く上に、休めそうな茶屋の場所も限られているからだ。
十年前に
「
「今日の昼には着くだろう。あいつは馬を使うからな」
一方弟の神樹は旅慣れていた。無事に水城に着いたと手紙を出すと、翌月には月桂が修行している『
月桂は黄緑色の布袋を肩から下げた。路銀や
一方明星も、月桂が貸した水色の布袋を肩から下げている。あの中には昨夜寄った南天楼で買った菓子が沢山詰められているのを月桂は知っている。
明星が甘味好きなのは久遠の影響かと思っていたけれど、どうやら彼が内に秘める『生気』と関係しているようだった。絵師・
「菓子が命の源……」
「えっ、月桂さん何か言った?」
「いや、別に」
がさごそと例の袋が腕に当たるのを気にしながら明星がこちらを見ている。
菓子さえあれば、彼は無敵なのだろうか。右手に桃まん。左手に胡麻団子。それらを食べながら、
その姿を想像すると、むずむずと笑いが込み上げるのを感じた。
まずい。突然笑い出せば明星が何事かと訝しむ。
声が出そうになって月桂は咄嗟に咳払いで誤魔化した。
「ごほん! ……ええと明星。
「あ! そうだった。忘れてた。月桂さん、実はもう書いてあるからすぐ出すよ」
明星は右の袖口に手を入れて短冊状の紙を取り出した。
『飛び文』は『色符』に伝言をしたため、生気で宛名書きをすると、その人の所まで勝手に飛んでいく手紙だった。
「ええと……宛名は久遠で」
通常なら『
彼の生気の量が膨大すぎるため、それに耐えられる『命数筆』が存在しないからだった。
明星は、右手の人差し指でさらりと久遠の名前を書いた。
月桂から見れば、その行為は驚愕に値する。生気はつまり、命の源である。体の奥深くに湧いている泉のようなもので、指先など、体の表面まで流れるようにするには、『命数筆』の存在が欠かせないのだ。下手をすれば生気を体外に出し過ぎて、命を失うこともある。だから
「よし、書けた」
明星は『飛び文』を空へと投げた。ぱっと白い光が煌いたかと思うと、それは『伽藍』のある北の方角へと流れ星のように飛び去って行った。
「待たせてごめんなさい。じゃ、そろそろ行きますか」
「ああ……」
月桂は控えめに同意した。
ごくり、と生唾を飲み下す。
明星が新しい『色符』を手にしていた。それはほんのりと薄い紫色の光を放っている。
「『
「ああ……それは、早くていいな」
月桂は頷きつつも、目は明星の持つ『色符』に釘付けになっていた。
ぞわぞわと二の腕の毛が逆立つ。
頭ではわかっているのだが、体がどうにも動こうとしない。
「あれ? 月桂さん、石像みたいに固まっちゃって。大丈夫、しっかり手を掴んで離さないからね」
びゅうっと湿気を帯びた風が上空から吹いてくる。
明星が月桂の右手を掴んで、左手に持った『色符』を天へ放り投げる。
「明星、実は、私は……」
「風の衣を纏いて万里を駆けよ――『
竜巻が足元から湧きおこった。くるくると上昇する風が月桂と明星の体を瞬く間に包み込んでいく。
地に足がついていない。空を飛んでいるのだから当然だが。月桂は明星の腰にしがみついたまま視線を下に向けた。
白い雲がうっすらとたなびいている。
月桂の店の位置はおろか、水城の街が豆粒のように小さくなっていた。
あっという間に街は後方へ過ぎ去り、緑の草原が大地を覆っている様が見える。
月桂は両目を閉じた。こんな高さから落ちたらただではすまない。いや死ぬ。どうせ死ぬなら地面に激突する前に失神して何も感じずに逝きたい。
「月桂さん、どうしたの? ほら、見て。水城の水路がきらきら光ってる。今日はいい天気でとても眺めがいいよ?」
「私は、高い所が苦手なのだ……!!」
月桂は絶叫した。
ひゅるひゅると風の鳴る音に心臓の鼓動もばくばくと跳ね上がる。
「だから『
「大丈夫だよ~鳥になったと思って、前を見ていれば平気だって」
「無理だぁあああ!」
月桂は叫びながらただひたすらに願っていた。
一刻も早く西陵に着くことを。
そして残念ながらいつ西陵に着いたのか、月桂の記憶は定かではなかった。
◇
~久遠へ~
これから月桂さんと一緒に西陵へ行くので、しばらくそっちに戻れません。
『
水城に帰ったらまた連絡するね。
(追伸)
お土産買ってくるから。
明星より
◇
「……という『飛び文』が届いたぞ。紫音?」
「土産にもよりますよね、久遠様?」
紫音は意味ありげに、蒸し直した桃まんを口に入れた。
昨日、月桂から土産にもらった桃まんだ。
ひょっとしたら明星が帰ってくるかもしれない。そう思って、紫音は食べるのをずっと我慢していたのだ。
「南天楼の桃まんは、やはり出来立ての方が美味いな」
「じゃあ、食べるのおやめになったらどうですか。私が残りをもらいますから」
「嫌だね。口をつけたから、これはもう私のものだよ」
明星に渡して欲しい。月桂から預かったもう一個の桃まんは、飛び文の内容を紫音に伝えるため、彼女の部屋を訪れた久遠の胃袋に、朝食として収められたのだった。
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