第15話 明星、決意する
月桂と明星、そして神樹は
外はすっかり日が暮れて、藍色の夜空に三日月が昇ろうとしているのが見える。
辺りは小さな新芽が生え出した柳の木が、石を積み上げて作られた細い水路に沿うように植えられている。その風景を見て月桂は口を開いた。
「……ここは
「馬保橋?」
「ああ。それなりに裕福な商家が住んでいる地域だ。私の店から見て、東の方にある地区だ。それにしてもあの変人。まさかこんな近くに住んでいたとは……知らなかったな」
月桂は苦々しく呟いた。無意識のうちに後頭部で結い上げた髪の根元を指で掻く。
いらつきをを感じると、
「そんなに近いの?」
いつもの瑠璃と白の深衣を纏った明星が訊ねた。白金の眩しい髪も一つの三つ編みにして右肩に流している。
「近い。船に乗ったらすぐだ」
危ない所だったが、間に合ってよかった。
月桂は明星を一瞥して唇に安堵の笑みを浮かべた。
鳳庵の『
しかし意識はぼんやりしていたのか、明星は鳳庵の絵の題材にされた格好――上半身は素肌のまま、月桂が貸した白い長衣姿だけで外に出ようとした。
春の夜はそんな薄着で出歩くと風邪をひいてしまう。
月桂は明星の服をこっそり隠していた鳳庵から取り返し(そして再び説教した)、足元に縋り付く白い孔雀を振りほどいて屋敷を後にした。
孔雀といえば、明星との別れが辛いのか、門の前で細く悲し気な声で鳴いていた。明星はその声を聞いて、一旦孔雀の傍へと駆け寄った。そしてすり寄ってきた孔雀の首を抱くように胸に引き寄せ、そっと何かを囁いた。
すると白い孔雀の体が柔らかで癒しに満ちた碧い光――明星の内から溢れる生気の色『
「兄者、このまま歩いて帰るのか? それとも船に乗るのか?」
月桂はいつの間にか足を止めていた。それをまさに考えていた所だった。
「ああ……そこの桟橋から船に乗ろうと思う。半時ぐらいで、店に一番近い乗り場に着く」
月桂は右手を上げて指差した。黄色い提灯が灯された石の桟橋があり、十人ほどが乗れる小さな
艀は無人で、船頭が桟橋の石に腰を下ろして客待ちをしていた。
「じゃあ、俺はここでお暇するかな」
「えっ。神樹さん、行っちゃうの? なんなら一緒に晩御飯食べない? 助けてくれたお礼に奢りますよ」
明星の右手には真新しい白い
「気にしなくていいって言っただろう? ただ……
「失礼な。鉄砲玉のように出ていくのはお前の方だぞ、神樹」
月桂はむっとして言い返した。
「はは。どうだか。じゃあ、明星。あんたは俺達の故郷――西陵の地が緑を取り戻すための大事な人材なんだ。兄者が『
明星の碧い瞳が一瞬戸惑うように瞬いた。だがそこに覗いた不安を隠すように、明星は瞳を半ば伏せて神樹に小さく頷いた。
「あ……ああ。そうだね。俺、月桂さんが筆を作ってくれたら、必ずそれを使いこなしてみせるよ」
神樹は手を伸ばし、明星の頭をぽんぽんと二度軽く叩いた。
「頼りにしてるぜ。じゃ、俺は先に西陵へ帰る。兄者も近いうちに……来てくれるよな?」
月桂は頷いた。
「お前との約束は覚えている。明日支度が整い次第、私も西陵へ向かう。
「わかった。じゃあな」
神樹は月桂と明星の顔を交互に見つめてから、右手の路地の方へと歩いて行った。
「明星、お前はどうする? 『伽藍』に帰るなら送っていくぞ」
「えっ。ああ……どうしようかな」
腕組みをした明星が眉間を寄せてしかめっ面になった。
まるで迷っているかのように。
意外だった。
「きっと
「……久遠もだけど、
月桂は『伽藍』に帰りづらい明星の心境を何となく察した。
明星は今日の午後から色命数士の修行者たちへ、紫音の後、授業を行うはずであった。けれど鳳庵に拉致されたせいで、時間までに『伽藍』へ戻ることができなかったのだ。
そういえば、『伽藍』の事務方の男性が言っていた。
明星が戻ってこないので、紫音がとても怒っていたと。
「お前のせいじゃない。今日は
「……月桂さぁん……」
明星は今にも泣きそうな顔をしていた。やおらがばっと月桂の左腕にしがみつく。
「め、明星?」
咄嗟に月桂は明星の肩に手を置いた。白い着物越しから仄かに体温が伝わってくる。体を冷やしてしまったのか、そのぬくもりは微かであった。月桂は暫し明星の肩を抱いていた。
「どうした」
小声で呼びかけると、月桂の肩に額を押し当て縋り付いていた明星が顔を上げた。
「ううん。ちょっと孔雀さんを思い出して……寂しくなっただけ」
「ああ……あの白い孔雀か。随分とお前にべったりだったな」
「孔雀さん、俺の事を心配して、ずっとそばについててくれてたんだ」
「そうか……ひょっとしたら、お前が自分の子供みたいに見えたんじゃないか? 髪も白っぽいしな」
「ええっ? それは流石にないでしょ」
明星がそっと月桂の袖から手を離した。
唇を尖らせて月桂を訝し気に見つめている。
「じゃあ今夜はうちに泊まるんだな?」
「月桂さんがいいというなら……」
「だから、いいと言っているだろう? 遠慮するな」
「あっ……」
月桂は手巾で覆われていない明星の左手を掴んだ。
内心は心配だったのだ。鳳庵の命精筆に、どれだけの量の生気を奪われたのかはわからない。できれば今夜は早めに体を休めた方がいいと思ったのだ。
いつになく明星は情緒不安定になっているような気がする。
だから月桂に縋り付いたのだろう。
月桂は明星の手を引いて桟橋まで行き、船頭に乗りたい旨を告げた。
あまり人通りがない時間らしく、船頭は二人が乗り込むと、艀を桟橋から離し、月桂の店がある西の方へと漕ぎ出した。
川沿いの民家からは、ちらちらと黄色い明かりが窓から漏れていた。水路の闇を帯びた水面は穏やかで、時折さらさらと水のせせらぎが聞こえてくる。川を渡る風は日が落ちたせいでひやりとしていた。
「月桂さんは……よく船に乗るの?」
肩と肩が触れ合う近い距離。事実、明星は月桂の左肩に頭を寄りかからせている。
重いと思ったが敢えて月桂は口をつぐむ。明星は自覚していないが、思っていた以上に体が疲れているのだろう。
「ああ。
「あんの……お子様達。二人揃うと凶悪なんだ。いっつも俺の事、久遠に言われて見張っているし。あれ? 月桂さん、あの二人を知ってたの?」
「いや。今日、紫音殿に頼まれていた『鉱石筆』を納めに行った時、久遠導師に紹介されたのだ。まさか『
「強さと言えば、月桂さんの『四緑』の術も凄いよ。あっという間に絵師さんを
「色命数術で緑を召喚するのはたやすい。だが、一から大地に緑をもたらすことが……これほど困難だとは思わなかった」
月桂はため息交じりに呟いた。
「それは……西陵の土地のこと?」
明星の声色が不安げに揺れている。月桂の肩に預けていた、月の光を受けて白く輝く頭が動いてこちらを見上げていた。
月桂は唇に苦いものを感じていた。かつての自らの
「ああ……色命数士になって二年が過ぎた頃だ。『伽藍』の訓練所があるだろう。あの場所全体を木々で覆って森にしてしまったのだ。これは久遠導師に怒られたが、同時に能力を認めてもらうきっかけとなった。だから私は得意げになっていた。
西陵に緑を、私自身の力でもたらすことができるかもしれない。そう思ったら実行せずにはいられなかった。外出許可をとって、私はこっそりと、西陵の近くまで行った。時間の都合で西陵の入口までしか行けなかったのだ。
そして術を使い大地に大木を生やした。嬉しかった。木は天へ向かいすくすくと伸びていくつもの葉を茂らせたが、長くは持たなかった。成長したと思った木はあっという間にしぼんでやせ細り、最後は黒い灰となって消えていった。私の『
「そんな……」
喘ぐように漏れた明星の声に、あの時に感じた自らの失望感が蘇ってきた。
月桂は右腕をぐっと握りしめた。
「私が求めるものは『色命数術』では得られないと悟った。根本的な問題……西陵の大地へ流れる『
「月桂さん……」
俯いた月桂は、明星が右手を握りしめるのを感じた。
「月桂さんはずっと一人で、西陵が緑を取り戻すために頑張ってきたんだね」
「頑張るというか……探していただけだ。でもその甲斐あって、明星。お前に会うことができた。私一人の力ではどうにもならない。西陵の土地から『
「月桂さん」
いつになく強い口調で明星が言った。
「なんだ?」
「考えてたんだけど……俺も一緒に西陵へ行っていいかな?」
「えっ?」
その時、船が少し横に大きく揺れた。
月桂は船縁を掴んで上半身を支えた。
「おおっとお客人、すまないね。流れに櫂が持ってかれそうになっちまった」
後方から詫びる船頭の声がした。
だが月桂の耳にそれはほとんど入っていなかった。
「明星、どうして? 何故お前が西陵に行きたいだなんて……」
明星は伏せていた顔を上げ、月桂を決意がこもった瞳で見つめていた。
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