第11話  神樹、月桂に頼み事をする

 月桂は久遠に暇を告げて『東翼とうよく』の建物を後にした。

 気持ちもだが足取りは重かった。

 久遠の問いかけに即答できなかった。

 まさか、『命生メイセイの都』の再召喚には、現世のすべての命が代償になるとは。

 そんな事――思ってもみなかった。

 けれど久遠と『命生の都』について話せたのは、月桂にとって有意義な事であった。

 久遠もまた、『命生の都』が今は機能しておらず、死した魂魄が『九黒クコク』の気と化し、年月が過ぎゆくままに『伽藍がらん』の地下で汚泥のように溜まっている現状を認知していたからだ。


 月桂は溜息をついた。

 問題は二つある。

 滞っている命の流れを元に戻すべく、新たな『命生の都』を召喚しなくてはならない。


 召喚の儀を行うには、『八色の燈台の間』に行かなければならないが、その部屋は致死量の『九黒クコク』の気が渦巻いていて、生者は入ることすら叶わない。

 そして仮に『九黒クコク』の気を取り除けたとしても、『命生の都』を新たに作り直すため、この世のが必要となる。


「私個人の力でどうにかできることじゃない……」


 わかってはいる。

 けれどそれでいいのだろうか。他に今、自分にできることはないのだろうか。


「月桂筆匠ひつしょうさま、お待ち下さい!」

「……えっ……?」


 背後から声をかけられ月桂は自身の思惑より目覚めた。月桂を呼び止めたのは、足首まである長い丈の、青い深衣しんいをまとった年嵩の男だった。髪を結い黒い頭巾を被っている。


「お帰りですか? 『鉱石筆』の代金をお渡しするように申し付けられております。お納めください」

「あ、ああ。忘れていた。ありがとうございます」


 男性は事務方の人間だった。彼が差し出した盆をみやり、月桂は眉をひそめた。

 平べったい鈍色の光を放つ豆銀貨が十枚載っている。


「これは……多すぎます」


 半分の五枚を受け取って事務方へ返すと、彼は大きく首を横に振った。


「この額でお支払いするようにと、久遠導師の仰せです。受け取って頂かなければ、私が導師に怒られます」


 成程。久遠の名前を聞いて月桂は納得した。彼は明星を助けたお礼がしたいと言っていた。だから謝礼金を上乗せしてくれたのだ。


「そうですか。ならば、今後もどうかご贔屓にして頂けるよう、久遠殿にお伝え頂けますか」

「かしこまりました」


 月桂はやむを得ず残りの豆銀貨も拝領し、袖の中へと仕舞った。

 事務方に差し出された筆を取り、受領の署名を帳簿に書きつける。

 そして伽藍の外へと続く、黒と白の玉砂利が敷かれた道を眺めて、太陽が南中を過ぎていることに気付いた。


「もう昼を過ぎましたね。そうだ、明星は帰ってきましたか? いるなら、会いたいのですが」

「えっ、明星さんですか。まだお戻りではないですね」


 事務方のはっきり断言した口調に、月桂は内心怒りを感じた。


「確かめもせず、あなたは何故それがわかるのですか?」


 年嵩の事務方は、肩をすくめながら薄く笑みを浮かべた。


「先程、紫音様がお怒りになりながら来られたからです。紫音様の次に、明星さんの授業があったらしいのですが、時間になっても鍛錬場へ来ていないそうで。それで、帰ってきたかどうか私にお尋ねになられたのです」


「そう……ですか」

「何かご伝言でも? 私でよければお預かりいたしましょうか」

「いや、いいです。また伽藍へ来る用がありますから。それでは失礼します」

「お疲れさまでした」


 事務方の男性に見送られて、月桂は店へ帰ることにした。



 ◇



「おや。こいつは随分と派手にやらかしたものだな」


 店の前の石畳が、打ち水をしたようにびっしょりと濡れている。

 月桂は坪庭に置かれている睡蓮鉢にちらと視線を投げた。

 すると仄暗い水底から小さな影が現れ、丸い睡蓮の葉の間から、薄桃色の塊が浮き上がった。

 人の唇を思わせる艶やかなそれを震わせて、小さな胡麻のような瞳が月桂をじっと見つめている。

 透き通った胸鰭むなびれを器用にぱたぱたと動かし、顔を覗かせた魚に月桂は声をかけた。


桃唇タオチュン、私の留守中に誰か来たのかな?」


 ぴしゃん! ぴしゃん! ぴしゃん!

 月桂の問いかけに応えるかのように、唇をすぼめて桃唇タオチュンが水鉄砲を飛ばした。


「一回……二回……三回……三人もか?」


 ぱちぱち。

 瞬きして桃唇タオチュンが返事をする。


「兄者。クチビル魚と戯れている場合じゃないぜ」


 月桂は睡蓮鉢から視線を上げて声の主を見た。

 弟の神樹しんじゅだった。


 茶色がかった長髪を頭頂でひと結びにくくった彼は、見覚えのある白と桃色の薄紙で包まれた巾着のようなものと、一枚の紙を手にして立っていた。弟の無事な姿に月桂は安堵した。あんなかたちで飛び出したものだから、すぐ西陵せいりょうへ行ってしまったかと思っていたのだ。


「神樹、よかった。まだ水城みずきにいたのだな」

「えっ……? あっ……まあな……」


 神樹が一瞬戸惑うように視線を月桂から逸らした。だがすぐに眉を吊り上げ月桂を正面から睨みつけた。


「俺の事はどうでもいいんだよ。それよりも、この人! 店に来ていたぜ。兄者の知り合いだろ?」


 月桂の顔の前に突き出された一枚の紙と、巾着のような包み。

 月桂は戸惑いつつも神樹からそれらを受け取った。


 まずは巾着のような包み。こちらは見覚えがある。月桂も苦労して買いに行った南天楼の桃まんだ。残念ながらもうすでに冷え切ってしまっている。

 けれどなぜそれがここに?

 疑問に思いながらも、今度は紙を広げてみる。


 そこには力強くも繊細な筆さばきで描かれた人物の横顔が描かれていた。長い髪を緩く三つ編みにして肩に流している。慈愛に満ちた生き生きとした表情で、観ているこちらも何だか顔がほころんでくるような画であった。


「……明星?」

「ああ、やっぱり兄者の知り合いの術者だな。あの美人……」

「美人?」

「い、いいやなんでもない。いや、なんでもある!」


 神樹が慌てたように意味不明な言葉を口走っている。


「落ち着け。一体何があった? この絵の人物は、確かに私の知り合いだ」

「……攫われたぞ。怪しげな銀髪の男に」

「なんだと? それは一体いつの事だ」

「もう二時間ぐらい前の事だよ。何か、兄者に会いに来たと銀髪の男に言ってたぜ」


 月桂は思案した。

 明星が店を訪れたのは間違いない。そして居合わせた銀髪の男に声をかけられた。


「神樹、お前もその場にいたのだな」

「えっ? いや、っていうか……見ていたっていうか……ええい、まあちょっと兄者の庭を眺めてたんだよ! そうしたら話し声が聞こえてきたから一部始終を見てただけだ」


 月桂は何となく察した。店を飛び出しても弟は離れがたく、庭でしばし頭を冷やしていたということを。

 それには触れず、月桂は明星が描かれた毛筆画を見やった。


「銀髪の男か。それにこの画風……描いた人間に心当たりがなくもない。そして……」


 月桂ははっと息を飲んだ。

 毛筆画からぞわぞわとする気配を感じたのだ。

 それは命を吸い取る『九黒クコク』の気に近い。指の腹で墨の部分に触れてみると、ちくりとした痛みと氷のような冷気を感じる。


「兄者どうした。急に黙り込んで」

「これは……『命精筆めいせいふで』で描かれた絵だ」


「『命精筆』? なんだよ、それ?」

「神樹、この絵を見てどう思う?」


 弟の顔が急に火が付いたように赤くなった。戸惑うように瞬きの回数が増えていく。


「す、すげぇよな……びじょ……いや、まるで生きているみたいだぜ。頬とか唇とか触りたくなるというか……」


「そうだろう。『命精筆めいせいふで』は絵の対象となった人間の生気を吸い取るのだ。だから、まるで生きた人間がその場にいるような絵として描かれる」


 月桂は明星が描かれた絵を二つ折りにして袖にしまった。


「『命精筆』か。厄介だな」

「厄介って……確かに。命を吸い取る筆なのか?」


「ああ。『命精筆』は、色命数士が使う『命数筆めいすうふで』の中にできる『命石いのちいし』を利用して作られる。ただ『命石』は、『命数筆』を三十年以上使用しないと術者の生気が結晶化しないため、滅多に市場に出回る代物ではない。神樹、私はこの絵を描いた人物に心当たりがある。だが今は、どこに住んでいるのか知らないのだ」


「へっへっへっ……そこは神樹様におまかせよ。安心してくれ。ちゃんと後をつけて、屋敷の場所を確かめた」

「本当か! それはいい。早く案内してくれ。明星の命が危ない」


 だが神樹は無言で月桂を見つめるばかりだった。


「どうした。何故黙っている?」

「兄者。場所を案内してやってもいいんだが。俺も頼みがあるんだ」


「何だ。私にできることならなんでも協力する」


「そうか……それなら言うんだけどよ。一度、西陵に戻ってきてくれないか? 西陵の土を元に戻す手段を得るまで、故郷に帰らないっていう兄者の誓いは知っている。だけどこの十年で、岩石砂漠は広がっていくばかりだし、婆様ばばさま達の体の具合も少しずつ悪くなっているんだ。兄者の目で、今の西陵の様子を見て欲しい。そして、できるなら……あのの術者を助けたら、西陵の土を元に戻すために力を借りられないかな……?」


 弟の素直な物言いに耳を傾けていた月桂だが、ある部分で顔を上げた。


「美人? 明星は確かに綺麗な顔をしているが、男だぞ?」

「えっ? うそ……男だって?」


 月桂は呆然とする神樹の肩を右手の拳で小突いた。


「わかった。西陵には一度戻る。まずは明星を助けるために、あの男の屋敷まで案内してくれ」

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