第12話 月桂、対決する

 眠りたいような。だがこのまますんなりと、意識を手放してもいいのだろうか。

 うつつと夢想の狭間におかれているような。ふわふわとした感覚が体を支配している。半ば瞼を伏せて明星は臥床ベッドに横たわっていた。


 二人が十分横になれる広い臥床で、寝返りをうっても床に落ちないように、手すりを兼ねた木の飾り枠で囲われている。

 臥床の正面は弧を描くように円形になっていて、天井からは鳳仙紫フォンシェンツー色の薄い布が垂れ下がり、後方の丸窓から入る涼やかな風のせいでふわりと揺れている。

 金糸で飾られた絹の敷布団も心地良く、まるで親鳥の羽毛に包まれている雛のような気分だ。


 ――そのまま、眠っていればいいんだよ。

 男とも女とも、どちらとも言えない見知らぬ声が脳裏に響く。


 だらりと投げ出した手に、ふと温かなものを感じる。

 指先は動くが持ち上がらない。

 何故か、そうしようとする気力が全く湧かない。

 けれど指には先程から何かがもぐりこもうとする気配がある。

 辛うじて視線でそちらを見やると、真っ白な孔雀がそばにいて、ぐりぐりと頭を明星の手の中に入れようとしていた。


「ふっ……」


 思わず笑みがこぼれた。何故孔雀がいるのか知らないが、明星は掌に頭を入れてきたそれを指でそっと包み込む。首の後ろをかくように触れてみると、孔雀がもっとといわんばかりにすり寄ってきた。


 しばし孔雀を眺めていた明星だが、うすぼんやりした視界の中で、人がいることにようやく気付いた。

 臥床から少し離れた所に誰かがいる。

 床に座って俯き、一心不乱に手を動かしている。

 どうやら何か絵のようなものを描いているみたいだ。


 銀髪を背中でひと結びにし、黒い頭巾を被せた人物は、紅く炎のようにきらめく筆を手にしていた。その筆を床に置いた大きな紙に滑らせるたびに、白や黄色。青や紫など。色命数術を使う時に放たれる、生気の光が瞬くのだった。


「……眠い……」


 明星は重くなってきた瞼を閉じた。

 つんつん。

 孔雀のくちばしが明星の手のひらを突っついている。

 後で。後で、ちゃんと遊んであげるから――。

 今は少し……眠りたいな。


 


 ◇



「明星っ……!」

「ばっ、馬鹿か! 落ち着けよ、兄者あにじゃ


 月桂は右手を掴んだ神樹しんじゅを睨みつけた。


「あの生気の流出を見て落ち着いていられるか! 定命の者ならとっくに命を失っていてもおかしくない」

「だからって飛び出してどうするんだよ!」


 神樹の腕力には叶わない。月桂は弟の腕を振り払えないまま、引きずられるようにして、庭の歪な太湖石へ身を寄せた。


 


 神樹が明星を連れ去った男の居場所を突き止めた。だが水城みずきの街に疎い弟の記憶はあてにならず、散々迷って、結局は月桂が明星の「生気」を感じることにより、その場所に行くことができた。大層な資産家なのだろう。大きな屋敷を取り囲む生垣の間から入り込むと、そこは更に広大な庭園が続いていた。


「こちらだ」


 明星の生気が徐々に弱まっていくのを感じる。

 月桂はいつになく焦っていた。

 それは明星を連れ去った人物に心当たりがあることと、何よりも人の生気を吸い取る『命精筆めいせいふで』の存在だった。


 庭を迷いながら歩いて、ひょうたんの形をした池と赤い橋がある所に出た。池には紅と金色の鯉が優雅に泳ぎ、複雑な形をした太湖石という、ごつごつした灰色の岩が並べられている。ひょうたん池を遠方に臨む形で平屋の離れがあり、その扉は涼を得るためか開かれていた。


 庭木の影に隠れながら、月桂と神樹は離れの方へ近づいた。

 春先の日没は、徐々に日が長くなっているといっても早い。周囲は黄昏始めようとしていた。

 軒先は薄桃色の四角い角灯ランタンが飾られていて、ゆらりとした蝋燭の火が灯されている。

 岩陰に身を潜めてそっと部屋の中を覗き込むと、月桂は目の前の光景に思わず息を飲んだ。


 天井からは巻物に描かれた絵画が何枚も垂れ下がっている。

 その奥には鳳仙紫フォンシェンツー色の薄い布がかけられた天蓋つきの豪華な臥床ベッドがあり、まるで昼寝でもしているかのように、明星がこちらに顔を向けて横たわっている。


 金の刺繍で飾られた緋色の敷布団の上に寝ている彼は、上半身は何も身に纏っておらず、普段編まれている髪が解かれて、白く輝く川のように首筋や腕に流れ落ちていた。


 そして臥床のそばには長い見事な飾り羽を畳んだ真っ白い孔雀が二羽いて、一羽が心配そうにつんつんと、明星の手のひらをくちばしで突いている。

 布団の上に投げ出された明星の手から、ぱっと黄金の光が舞った。

 それは蛍のようにすうっと宙を飛んで、明星を見下ろしている人物が持つ、紅い不気味な光を放つ筆先へと吸い込まれていった。


「……なんと素晴らしい……これほどの生気の持ち主だったとは。これで、私の絵も完成する……」


 水色の道服の男が臥床に横たわる明星の顔を覗き込む。端正な横顔だが、一見冷たそうな印象を与えるにも関わらず、歓喜のせいか歪んだ笑みを浮かべている。動きに合わせて一つ結びにした銀の髪が背中でさらりと流れた。


「私の絵には生きている『』が必要なのだ。ひとつの色を得るのも数人分の生気が必要なのに。君は凄いな。一体何人分……いや、ではないな。千人以上の生気を宿している。理想的だ……」


 男はゆったりした袖に手を伸ばし、おもむろに小刀を取り出した。

 明星が重そうな瞼を開いて男の顔を凝視している。


「一番尊い命の色を知っているか。ホンだよ。君自身の中に流れる『ホン』は、さぞ美しくて甘美な色なのだろうね……」


 つうと明星の掌に刃を滑らせる。ぷくりと盛り上がった赤い雫は、まさに命の色。

 溢れてきたそれを筆に含ませて、絵師の男が深く嘆息した。


「常人の命の色は、外に漏れた瞬間に腐り濁っていく。それなのにこの赤ときたら! 透き通る夕日の色。秋の燃える紅葉の真紅。私の求める生命ミィンだ! 素晴らしい!」



 ◇




「どうみても、なんだが……それより、あいつヤバいぞ」

「もう我慢がならん。私が奴の注意を惹きつける。神樹、お前は明星を助けろ」

「えっ、あ、了解!」


 月桂は潜んでいた庭石の影から飛び出した。髪に挿している『命数筆めいすうふで』を引き抜いて、袂から『色符いろふ』を取り出した。


「我願う。赤き貪欲なる炎よ。蛇となりて絡みつけ!」


 月桂は『命数筆』にたまった己の生気で『色符』に数字の【二】を書いた。

 それはぼっと燃え上がり『二赤ニセキ』の色命数しきめいすうを赤々と照らした。

 月桂は床に広げられた男の描きかけの絵に、『二赤ニセキ』の力が宿った『色符』を投げつけた。


「なっ……! なんということをするんだ!」


 月桂に気付いた男が、慌てて炎にまみれた絵に向かって駆け寄る。手近な布を掴んでばたばたと火を消す。


「色命数術の炎はそう簡単には消えぬぞ。明星は返してもらう!」


 月桂の言う通り、布で叩いたくらいで炎は消えない――はずだった。

 男はやおら布を足元に落とし、右手に持った赤光を放つ筆を炎へと近づけた。すると、筆に炎が吸い込まれていくではないか。

 月桂の放った『二赤ニセキ』の火は床を焦がしただけですべて筆へと吸い込まれていった。絵師の描きかけの絵も燃えることなく存在している。


「色命数術の炎――元は術者の生気なら。私ので吸い込むことができる」


 はらりと額に落ちた銀髪のひと房をかき上げて、絵師の男が唇を歪めた。


「月桂さん! 気をつけて。奴の筆は……命を吸い取る……!」


 神樹に脇を抱えられて、明星が月桂に向かって呼びかけた。

 明星は立てないのか、臥床に座って神樹に寄りかかっている。

 けれど口調はしっかりしている。

 月桂はそれに安堵しつつ、目の前の絵師の男に特別冷たい視線を向けた。


「知っている」

「ならば、お前も私の筆を試してみるかね?」


 道服の袖を舞わせて絵師が『命精筆めいせいふで』を持ち、月桂の姿を手にした布へ描こうとした。


「『四緑シリョク』」


 祝詞我願うは省略可能。得意とする色命数術を使う場合は。

 月桂は新たな『色符』を取り出し【四】を書いて床へと押し付けた。


「ぬおっ!?」


 絵師の足元から勢いよく緑色の蔓が飛び出した。それらは瞬く間に絵師の右手首に絡みついてぎりぎりと締め上げる。


「や、やめんか! 痛いっ! 手首が、手首が千切れる~」


 赤い『命精筆めいせいふで』が絵師の手からポトリと落ちる。

 月桂はさらに蔦を絵師へ絡みつかせた。

 体をぐるぐる巻きにして一切の行動の自由を奪う。

 絵師は沈黙していた。

 月桂の完勝だった。


 絵師の戦意が消失したのを確認し、注意して赤い光を放つ『命精筆』を拾い上げる。月桂の生気を察知して、吸い取ろうかとするかのように、筆先が怪しい光に満ちていく。筆の影響を受けないように、用意してきた特別製の布の袋に、月桂はそれを注意深く入れた。



 ◇



「流石、筆の事は月桂さん、詳しいなあ……」


 血の気が戻りつつある唇が、兄の名を呟いた。

 神樹は明星の体を支えてやりながら、再び心臓が跳ねるのを感じていた。

 明星と言う名前らしいが、本当に星が人の姿を纏ったのではないかと思う。

 神樹は色命数士ではないが、それでも彼から発せられる生気には、惹きつけられるものを感じた。


「あ、助けてくれて……ありがとう」


 明星が碧い瞳を戸惑うように瞬かせながら呟いた。

 神々が住まう『九仙郷きゅうせんごう』には生命の泉があるそうだが。まるでそこの水面の様に神秘的な碧だった。

 神樹は吸い込まれたように明星の顔を見つめていた。


「嘘だろう……こんなに綺麗なのに、男だなんて」

「えっ? あ、ああ……ごめんね」

「い、いや、俺の方こそ。あ、手、大丈夫か」


 神樹は明星の掌を伝う血に気付いた。あの絵師が小刀で傷つけたのだ。

 懐に手を伸ばして神樹は手巾しゅきんを取り出した。西陵へ帰る時のお土産のつもりで、水城で買ったものだった。


「これ新品だからな」


 神樹は明星の右手に手巾を巻き付け包帯代わりにした。


「いいんですか?」

「気にするなよ。何なら兄者に買い直してもらってもいいし」

「兄者って……あなたは月桂さんの弟?」

「ああ。一つ違いなんだけどな。そうだ……」


 神樹は声を潜めた。そっと明星にだけ聞こえるように囁く。


「なあ、あんたと兄者はその……デキているのか?」

「えっ?」


 ぽかんと口を開けたまま、明星が固まっている。

 神樹は黙ったままぽりぽりと髪を結んでいる部分を指で掻いた。


「すまん……、変な事聞いて悪かった」

「神樹、明星の具合はどうだ? 他に怪我はないか?」


 赤く光る不気味な筆を、兄の月桂が袋に仕舞いながら呼び掛けてきた。


「ああ、大丈夫みたいだぜ」

「……は……は……、はっくしょん!」


 明星が盛大にくしゃみをした。ぶるっと体を震わせて両手で肩を抱いている。

 無理もない。夜風が吹き込む窓の傍で、あの怪しげな絵師に上半身を剥かれていたのだ。

 明星のくしゃみに驚いたのか、足元でくつろいでいた孔雀たちも庭の方へ駆けて行ってしまった。


「明星、風邪をひくぞ。これを」


 月桂が深衣の上に着ていた白い長衣を脱いで、明星の肩に羽織らせる。


「ありがとう、月桂さん。はあ……あったかい……」


 明星を見つめる月桂の瞳は、先程までの怒りの色は失せて、優し気なそれに戻っていた。


 西陵にいた頃は……あんな風に、俺の事も気にしてくれてたな。

 神樹は明星が自分で立てる事を確認して、支えていた手を離した。

 そして月桂と共に、植物の蔓にぐるぐる巻きにされて床に倒れている、銀髪の絵師の方へ近づいた。

 月桂は両腕を組み、再び厳しいまなざしで絵師を見下ろしていた。


「私の友人を誘拐し、その命を脅かすなんて許さないぞ。かつての師匠といえどもな」


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