第9話 久遠、月桂を招待する

「あなたが『伽藍がらん』に来るとは奇遇だね。明星が世話になったそうだから、お礼がしたいんだ。私に少し付き合ってくれないかな?」


 奇遇だと思ったのはこちらの方だ。滅多に人前に出ない、導師の久遠に呼び止められるとは。けれどこの好機を逃す手はない。月桂は久遠の方へ向き直り両手の先を揃えると頭を下げ拱手きょうしゅした。


「わかりました。実は私も……あなたにお話があるのですが」

「ほう。それはなんだろうね。まあ、ここで立ち話もなんだし……奥へ行こうか」


 久遠がついて来いという風に先に立って歩きだした。青みを帯びた、腰まで伸ばされた漆黒の髪が動きに合わせて靡く。月桂は紫音に軽く頭を下げた。


「紫音殿、すみません。折角授業……誘って下さったのに」


「いいえ。またの機会で大丈夫です。桃まん、ありがとうございました。明星にも渡しておきますね。今日帰ってこなかったら、二つとも私が食べちゃいますけど」


 おほほほほ。

 茶目っ気のある笑顔を浮かべ、紫音は両手に南天楼の桃まんが入った包みを持って、左手の『西翼せいよく』の方へ歩いて行った。


 月桂は内心思った。桃まんはおそらく二つとも、紫音に食べられてしまうだろう。

 まあいい。明星の分は今度会った時に買えばいい。


 月桂は先を行く久遠の後ろへついて行った。彼は反対の右手――『東翼とうよく』へと続く通路を歩いていく。白い壁が円形にくり抜かれた門の先には趣のある庭が見えた。


 月桂は少し緊張した。修行中の色命数士しきめいすうしの立場なら、上級の術者――しかも『導師』と呼ばれる彼らの私室を訪れることなど、特例がないかぎり許されないからだ。月桂は本当に、久遠に招かれたのだと察した。


 


 ◇




 『東翼』の奥の院。誰も立ち入らぬそこは、例えば人界離れた仙境のようだった。

 時刻は昼を迎えるはずだが、室内のせいか周囲は薄暗く、石灯籠に蝋燭が灯されている。


 久遠は幻想的な雰囲気を醸し出す小さな橋を渡り、池の中に作られた東屋あずまやへ月桂を招いた。ぼんやりとした灯の中で色とりどりの蓮が咲き乱れ、周囲には花の香りがほのかに満ちていた。

 

 八角形の屋根をした東屋あずまやには、見知った少女たちがいた。

 金髪と銀髪のお団子頭。昨日、月桂の庭へ不意に現れて、明星を『伽藍がらん』へ強制送還させた二人組だ。


「久遠様。お客様って、この筆屋の人アルか?」


 語尾に南部なまり(~アル)で話す金髪の少女。彼女の帯に揺れるのは『赤二位』の象徴である炎瑪瑙ほのおめのうの『佩玉はいぎょく』だ。 


「明星がやたら懐いていました……でもあなたの気は穏やかで森の中にいるみたい……だから、わかる気がする」


 冷静で堅苦しい口調の銀髪少女。彼女の『佩玉』は、『青三位』の象徴である藍宝石らんほうせきだ。思った通り、彼女達も『色命数士』のようだ。


 じいぃぃぃ……。

 二人が月桂に注目している。月桂はどうしたものかとその場で立ち尽くし目線をそらす。まるで菓子でもくれるんじゃないかと期待するかのような。そんな視線の圧力を感じた。


「月桂筆匠ひつしょう、こっちへ来て、座ってくれればいいよ。ああ、お茶でも出そうか」


 助け船を出すように、久遠が東屋の中にある黒檀の卓の前で手招きしている。すでに白い茶器が置かれているが、金髪の少女が久遠の衣の袖をくいっと引いた。


「お茶菓子、久遠様が食べてしまったから切らしているけど……いいアルか?」

「なっ……! なんだって!?」


 久遠が思っても見なかったと言わんばかりに席を立った。


「お客様が来るなら、仰って下さいませ。そうすればすぐ買いに行きましたのに」


 それを冷ややかな視線で見る銀髪の少女。


銀花ぎんか……相変わらず君は厳しいねぇ……でもお客様にお茶うけを出さないなんて、失礼じゃないか」


 金髪の少女――金花きんかが思いついたように大きく頷いた。


「そうだ! 明星ならいっぱいお菓子、部屋に隠しているアル! うう……でもまだ帰ってこないアルね。気配がしないアル」


 銀花が申し訳なさそうに眉間を寄せて月桂を見つめた。


「お客様、これから南天楼へ行って買ってきますから、少々お待ち下さい」


 月桂はふるふると首を横に振った。

 どうやら南天楼びいきの根源は、ここにあったようだ。

 明星も金花も銀花も、甘味好き(と思われる)、久遠の影響をかなり……いや強烈に受けているのだろう。

 

「久遠導師、お茶もお菓子も結構です。明星の件は大したことじゃありませんし、私も彼に助けてもらったのです」


「いや、大したことではすまされないよ!」


 久遠の金色の月を思わせる瞳が一瞬熱を帯びた。


「あの子に何かあれば……この世界にとって、大きな損失となるのだからね」

「えっ」


 月桂は意外な思いに囚われていた。言いたいことはあるのだが、今は目の前にいる、湖藍こらん国すべての『色命数士』の上に立つ者――久遠という男の姿をじっと見つめていた。


 この『本殿』で修行をしたのは十六才の時だった。今から十年も前の事だ。

 けれど久遠という男は、月桂の記憶の中の彼とその姿、印象が全く変わっていない。


 どこか気怠げな横顔。夜空を溶かしこんだような、漆黒の長い髪。

 穏やかな物言いでいつも本心を隠しているような。

 雲のように掴みどころのない存在であった。

 その彼がこうも感情に囚われて声を震わせているなど――意外もいいところだ。


「まあ、薄々は気付いているんだけどね。あなたの言いたいことは」


 久遠にすすめられて月桂は椅子に腰を下ろした。

 久遠も黒い長衣の袖を翻して席に着く。


「まずはお礼を言っておくよ。あの子――明星を助けてくれてありがとう」

「いえ……たまたまだったんです。うちの庭の水路に明星が流れ着いていただけで……」

「なんと、まあ!」


 久遠がぷっと噴き出す。くずっていた子供が急に機嫌を直し、それが笑いという感情で一杯になったかのようだ。


「あの子のやることは全く想定外だね……まさか、そんな偶然が……」

「ええ。見つけた私も驚きました。しかも明星が倒れていた所の竜金花リュウキンカが、彼の放つ並外れた『生気』のせいで、満開になっていましたから」


 息も絶え絶えに笑っていた久遠が、ぴたりと急に口を閉じた。


「明星の抱える生気の量は尋常ではない。色命数士なら皆それに気付く。あなたなら尚更……ね」

「だから、大切になさっているのですか。彼の事を」


「ふふ……『白零位』の導師となる資質を持つ者が現れたのは、二百年ぶりだろうね。ああそうだ。月桂――君だって、『四緑シリョク』の導師たる資質を備えた優秀な色命数士だ。この世の命の流れを守るべくある『伽藍がらん』としては、とても心強く思っているよ」


 月桂は小さく咳払いした。

 修行中は勿論、ほとんど彼と会話をしたことがない。

 そんな風に思われていた事に驚きが隠せなかった。


「おや。何か私は失礼な事を言ってしまったかな?」

「いいえ――その、私は『四緑シリョク』以外は平均的な術しか使えませんから。導師にそう思われていたなんて……」


 そっと久遠が席を立った。


「あなたの『佩玉はいぎょく』を……久しぶりに見せてもらえるかな」

「あ、はい……」


 月桂は飾り紐をたぐりよせ、風呂と寝る時以外は肌身離さず腰帯に通しているそれを久遠に見せた。

伽藍がらん』での修行を終えて正式に色命数士になった時。久遠自らが、これを授けてくれたのを、昨日のことのように覚えている。


 当時と変わらない――久遠の白魚のような指が、深い緑色の玉に触れる。金色の双眸を伏せて久遠は暫し沈黙した。彼の指に触れられた『翠玉すいぎょく』が、呼応するように淡い緑光を放つ。


「……まるで深い、深い森の中にいるような気を感じる。『翠玉』はちゃんとしているね」

「成長……?」


 ふふふと久遠が薄紅色の唇を歪めて笑みを浮かべた。


「おや? 忘れてしまったのかい。この『佩玉はいぎょく』は『四緑シリョク』の導師の資格がある者に、『伽藍がらん』が貸し与えるものだ。君が術者として成長すれば、この『翠玉すいぎょく』の質が上がっていく。言い換えれば、成長が見られない場合は資格を喪失し、『伽藍がらん』へ返却してもらう決まりだよ」

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