第8話 明星、魚の釜中に遊ぶが如し


「あれ……月桂さん、ひょっとして留守?」


 筆屋『翠凰堂すいおうどう』は若草色の暖簾が出ておらず、木戸を引いても動かず、ガタガタと音がするだけだった。


 がくりと項垂れる白金の三つ編み頭――明星は、白と桃色の薄紙を赤い紐でくくった包みを手にして立ち尽くした。門前払いを喰らったかのように、木戸を呆けたように眺める。


 はっと意識が戻ったのは、手から伝わってきた、ほかほかとした温かさだった。

今日、残りあと一つで、ぎりぎり買えた南天楼の桃まんである。


 明星は久遠に言われた雑用としか思えない仕事(竹簡を王宮へ届ける)――それを手早く終わらせて、急いで南天楼へ走った。その甲斐あっての戦利品だったのだが……肝心の月桂が留守だった。


「月桂さん……いないのか。南天楼の桃まん、食べたことがないって言ってたから買ってきたのにな」


 桃まんが食べたいと言った時――月桂が妙に驚いた顔をしていたけれど、明星にとってあれほど美味しくて幸せになれる食べ物はないと思っている。どんなに辛いことがあっても、この桃まんの温かさと餡の甘みが、辛さを癒してくれるような。

 そんな優しい味なのだ。


「いないのか……いないんじゃあ、仕方ないけど……」


 明星は未練たらしく月桂の店の周りをうろついた。

 出入口の戸口の横には小さな坪庭。趣のある睡蓮鉢が一つあり、丸い葉っぱの睡蓮が植えられている。更にその奥は筆の材料として使うのか、竹林が続いている。


 ぴしゃん。

 水が跳ねる音がした。

 竹林の奥を眺めていた明星は反射的に振り返った。通りには誰もいない。

 月桂の店は表通りから外れた裏路地にある。辺りは竹林のざわざわという葉の音と、明星が引っかかっていた水路の支流が立てるさらさらとした水音のみである。


 ぴしゃん。

 今度は水音の正体をはっきりと見た。

 坪庭に置かれた睡蓮鉢から、ぴゆっと水鉄砲みたいに水が噴き出たではないか。


「な、何? 何?」


 足音を立てないように、そおっと、そおっと、近づく。

 あの睡蓮鉢に『何か』がいるのは間違いない。


 明星は自分の姿が水面に映らないよう、注意して覗き込んだ。水面は黒い鉢の色と睡蓮の葉のせいで暗く、どれぐらいの深さがあるのかわからない。だが底の方でゆらりと動く影が見えた。それはどんどん大きくなり、水面にすぅっと、桃色の塊のようなものが浮かんできた。


「も、桃まん……?」


 水面に浮かんだぷるぷるとした艶のあるそれは、桃まんではなく唇に似ていた。

 もとい、人の唇のようなものを持つ魚が顔を覗かせていたのだ。


「わぁ……何だこいつ……」


 魚の大きさは明星の親指ぐらいだが、何といっても強烈なのが、顔の正面にある、大きくて柔らかそうな唇なのだ。


 魚は覗き込む明星に気付いたのか、ぱちぱちと胡麻のようにつぶらな瞳を動かした。水面に顔だけ出して、小さなひれをパタパタと動かし、器用に立ち泳ぎをしている。


「面白い……クチビル魚だ」


 明星は、ふにゃりとした感触を楽しむべく、唇へ右手の指を伸ばした。


 ぷるぷるぷるっ!!


「うわぁっ!」


 明星は顔にかかった水に驚き、その場に尻もちをついた。

 クチビル魚がきゅっと唇をすぼめたかと思うと、明星めがけて水鉄砲を飛ばしたのだ。


「こいつぅ……」


 かけられた水が目の中に入った。

 明星はごしごしと袖口で顔を拭った。


「なんだよ、もう!」


 可愛いと思って水面を覗いたのに。

 ぴちゃん。

 クチビル魚はもういなかった。

 睡蓮鉢は何事もなかったかのように静まり返っている。


 明星は毒づきながら立ち上がった。

 はっと桃まんの事を思い出す。

 あった。地面に置いてしまった包みを拾い上げた時。


 さあっと竹林の葉を揺らして肌寒い風が通り抜けた。

 ざわざわとした音と木漏れ日が、ちらちらと石畳の上で踊っている。


「おや、あなたも筆を買いに来たお客さんですか」


 明星が顔を上げると、銀髪の長い髪を後ろで一つに結った男性が、同じように嘆息しながら立っている。黒い頭巾を被り、水色の道服の上から、薄絹の長衣を羽織っている。整った顔は色白で、まるで水墨画の幽玄の世界から抜け出たような雰囲気をまとっていた。年齢は少し高く、三十代半ばに見えた。


「えっと……ちょっと月桂さんと話がしたいなあって寄っただけなんです。午前中は用事があるって言ってたから、もう帰ってきてるかと思ったんだけど」


 男性は明星の言葉に目を細めて頷いた。


「成程。じゃあそろそろ……店主が帰ってきてもいい頃ですねぇ。なら待つ間ちょっとだけ、私に付き合ってもらえないでしょうか」


「ええっ? 俺ですか?」


「はい。付き合うと言っても、そこの睡蓮鉢の所で立っているだけでいいんです。私は絵描きでして。あなたの姿を描いてみたくなりましてね」


「いやいやいや! 俺なんか描いたところで……!」


「いえ。私は鳳庵ほうあんという絵師です。あなたの光り輝く、その生気に満ちた顔にとても惹かれてしまい……。店主が帰ってくるまででいいんです。お願いします」


 自称・絵師の鳳庵は深々と頭を垂れた。

 そして明星が、いや~ちょっと待ってと言おうとしたその刹那。

 帯に挿していた煙管のような矢立から筆を取りだした。

 赤い漆に金箔で、流水のような模様と竜が蒔絵細工で施された、美しい筆だ。

 絵師は懐から紙を出すと、滑らかに筆を走らせた。

 

「うわ……すごい」


 絵師は数度筆を紙に走らせただけのように見えるのに、そこには三つ編みを肩に流した明星の横顔が描かれている。墨の濃淡や筆のかすれ具合で、明星の白金の髪の質感や顔に落ちる影の表現が秀逸だ。


 絵師はにっこりと人懐こい笑みを浮かべて、明星の横顔を描いた紙を睡蓮鉢の縁に置いた。すると睡蓮鉢の水面がざわめいて、再びクチビル魚が顔を覗かせていた。


「あ、また出てきたな!」


 明星は睡蓮鉢の前にしゃがみこんだ。突然の水鉄砲を喰らう襲撃に備えながら、愛嬌のある魚の顔をじっと見つめる。


 背後で絵師が再び筆を動かす気配がした。

 あれほど上手い絵を描くのだから、絵師というのは本当だろう。

 けれどいつまでもここにいるほど、明星とて暇ではない。

 午後からは紫音の授業の後で、明星も新人の『色命数士しきめいすうし』たちに実技指導をするのだ。『伽藍がらん』に戻らなくてはならない。


「そろそろ俺……用事があるので行きます……ね」


 睡蓮鉢から立ち上がった途端、視界が急に夜のような暗さを帯びた。

 

「あ、れ……?」


 膝に力が入らなくて、平衡感覚が覚束ない。


 ぴしゃん。

 クチビル魚が水鉄砲を飛ばしている。

 銀色の髪の……絵師さん。

 あはは。顔に水かけられて、怒ってるよ。

 あの魚、今度出会ったら、ぷにぷにの唇に触りまくってやる。

 月桂さん、なんであんな面白い魚飼ってるんだろう。聞いてみなくちゃ。

 でも今は、どうしてだか、眠気が振り払えない。

 なんで眠いんだろうなあ……。


 明星が覚えているのはそこまでだった。




 ◇



 時は少しだけ遡る。


 勢いよく月桂の店を飛び出した神樹しんじゅだったが、実はまだ庭にいた。

 戸口を出て右の坪庭から竹林を抜けると、母屋がある庭に行くことができるのだ。

 神樹は月桂が密かに持ち込んでいる『西陵せいりょうの土』が、置いてあるところにいた。


 幻ではなかった。月桂が言う事は正しく、西陵の土は植物が育つ状態に戻すことができた。これは朗報である。西陵の地に住む人々の悲願が、ついに叶ったのである。


「兄者の奴。すっかり水城みずきの生活に馴染みやがってって思ったけど。俺たちの事、忘れていなかったんだな」


 神樹は茶色の土をすくい上げ、ふかふかの手触りを楽しんだ。

 西陵の大地が一日でも早く、こんな具合に戻ればいいのに。


「『伽藍がらん』の奴ら。本当に力を出し惜しみしやがって……」


 恨み言を言いつつも、神樹は内心納得している。月桂は生真面目な性格で嘘がつけない。その彼が言っていた。能力のある色命数士が一人いても、西陵を緑あふれる土地にするには力不足なのだと。


 神樹は懐から革の小袋を取り出した。元に戻った西陵の土を少しだけ入れて、口を紐で縛る。


「婆ちゃんや皆に見せてやろう。これが本当の土なんだって。西陵の土なんだよって」


 神樹は立ち上がった。高ぶった気持ちがすっと引いていく。

 土に触れたせいか。そして、兄・月桂の庭は実に緑が多くて心が落ち着く。


 故郷に緑がないせいか、兄は植物を愛した。このいおりは元々月桂が師事していた筆匠ひつしょうのものだったらしい。


 筆の材料になるため細竹が植わっているが、薬草園や芍薬などの季節の花は月桂が植えたものだった。


 そして『四緑シリョク』の色命数が使えるせいもあり、この庭の植物は他より瑞々しい緑と生気に溢れている。


 神樹は心に癒しを感じて月桂の庭から外に出た。

 思っていたより長く庭にいたはずだが、兄が来る気配は全くなかった。


「外出する予定があるって言ってたけど……少しは飛び出した弟の心配もしてくれたらいいのによ」


 思わず不満を漏らす。

 庭から店の出入口の方へ出ようとした時だった。

 神樹ははっとした。


 坪庭に置かれている睡蓮鉢に、白金の長い髪をゆるく三つ編みにして肩に流した人物が、しゃがみこんで水面を見つめていた。


 色白の肌のせいで碧い瞳が際立って見える。白い長衣に瑠璃色の帯を締め、金針水晶を紐に通した佩玉はいぎょくをつけている。


 それを見て『伽藍がらん』の色命数士だというのはすぐに分かった。

 でも神樹は術者の横顔を惹き込まれたように見つめていた。


「すげぇ……美人……」


 一瞬溜息が出てしまった。水城みずきの住人は田舎の西陵とは違って、色とりどりの華やかな衣装に身を包んでいる。でも目の前の佳人は白と青を基調とし、清涼な気に満ちていた。


「ちょっと待てよ……」


 神樹は怯んだ。

 このまま外に出ると陽の光を模したような、あの佳人と出くわしてしまう。

 早くなる鼓動を意識しながら、気付かれないように竹林の影に隠れて、そっと様子を覗き見する。


 睡蓮鉢を覗いていた佳人がゆらりと立ち上がったが、立ち眩みだろうか。

 額に手を当てたまま、ぐらりと上体が傾きその場に倒れた。


「ああっ!? どうした?」


 何事かと潜んでいた竹林の影から出掛けた時、黒い頭巾と水色の道服を着た男が、佳人の傍に膝をつき、腕を掴んで力の抜けた体を抱え上げる。

 ガラガラと轍の音を響かせて、一台の馬車が走ってきた。

 色命数士の佳人を抱えた黒い頭巾の男は、黒い馬がひく馬車に乗り込み、その場から走り去っていく。


「おいおいおい! これって誘拐じゃねぇのか!?」


 あの色命数士の佳人は、月桂と縁のある者だろう。

 もしもが西陵の土を元に戻してくれたのなら、その損失は甚大なものになる。


「俺はこれでも西陵一の俊足なんだぞ。どこまでもついていってやらぁ!」

 

 神樹は竹林の影から飛び出して、急いで馬車の後を追った。


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