第7話 月桂、南天楼で桃まんを買う
懇意の客から
街中に水路が通っている
東・中央・西と三本の大きな水路が南北に伸びている。それらは、国の行政機関が集まる街の北部の方で、一本の大きな水路になる。『
船頭が
「南天楼前に着いたよ~お疲れさん」
船頭が石で組んだ船着き場へ船を寄せた。運賃は乗船一回につき、白銅銭一枚(因みに銅銭十枚と同じ金額)と安い。
月桂は金を支払い、船から降りて南天楼の建物を見上げた。
もとい、見えた光景に一瞬気後れした。
川風にそよぐ柳の木の下で、色鮮やかな衣をまとった年若い女性たちが、お茶を飲みながら南天楼で買ったとみられる菓子を食べている。
外で気軽に食事ができるように、卓の上には日よけの赤い傘の花が咲き乱れ、夜はきっと優しい明かりを灯すのだろう。桃の形をした小さな提灯が飾られている。
卓は三人掛けの椅子が四組置かれているのだが、それらはすべて満席という繁盛ぶり。
「……」
月桂はぶるっと肩を震わせた。
風に乗って女性たちのおしゃべりや甲高い笑い声が聞こえてくる。
急に胸の鼓動が早さを増した。
暑くもないのに額には汗が浮き始めている。
南天楼を行き交う人々は、綺麗に髪を結い上げ着飾った若い女性ばかり。見た所、界隈にいる男は月桂だけである。
船着き場の階段を昇ってはみたものの、すぐに南天楼に行く勇気が出ない。
周りが女性ばかりというのは別にいいのだが、菓子を買いに来たと思われるのがどうも気恥ずかしい。
月桂とて、桃まんは幼い子供に与える、庶民的なおやつだというのを知っている。
だが月桂はついていた。なんと目的の桃まんは出入口の前の屋台で売られていた。
丁度蒸し上がったのだろう。桃型をしたそれは、本物の桃のようにお尻の部分が赤く色付けられて、湯気のせいか、つやつやとした光沢を放っている。
黒髪を耳の上で二つのお団子に結い、艶っぽい口元をした若い女性店員が、
「あらぁ~そこの格好良いお兄さぁん!」
「……」
「お・に・い・さ・ん、ってば!」
「ひっ!」
月桂は鉱石筆を包んだ袋を胸の前で抱え、その場で硬直した。
因みに屋台とは十歩ぐらい離れた場所に立っていた。
何故声をかける。
というか、そんな大声で呼ばなくても……。
月桂が眉間をしかめたその時。
「やっと目が合った! もう、そんなに見つめてたら恥ずかしいじゃない」
「えっ? ええっ?」
たじろぐ月桂を、店員は射抜くような真っすぐな視線で見つめ返す。
「たっぷり五分、桃まんをじっと見ていたわよ。私じゃないのが残念だけど」
「そ、そんなに……!?」
月桂は絶句した。
ちょっとだけ。商品があるかどうか。
それをさりげなく見ていたつもりだったのだが。
まさか五分とは。ありえない。
恥ずかしさに頭が真っ白になりかけた。すると袖がくいっと引っ張られる。
はっと顔を上げると、いつの間にか女性店員の方が月桂に近づいてきて、袖をつまんでいた。
「はいはい。しっかり近くで見て頂戴。美味しそうでしょう~? ぷるっぷるの桃まん、おひとついかが?」
「あ……あの、その」
くすくすと小さな笑い声が聞こえる。
道行く女性たちが連れ合いの友人たちと顔を見合わせて、月桂の方を見ていた。
頬に熱が集まるのを感じた。耳朶までもその熱は伝わっていった。
ええい、ままよ。
ここまできたら引き下がれない。何が何でも桃まんを買って帰るしかない。
そのために来たのだ。
月桂は覚悟を決めた。
「も、桃まんを……」
消え入りそうな、小さな小さな声だった。
けれど女性店員は、わかったわ、そう言いたげに満面の笑みを浮かべて深く頷く。
「はい、お客様。どの味にいたします?
月桂はしげしげと
「どちらの味が、人気なんですか?」
「そりゃあ、どちらもですわ。南天楼の桃まんは
「では……小豆と黄身、一つずつ……下さい」(あくまでも小さな声で)
「はぁい。お買上、ありがとうございますぅ!」(周囲に聞こえる大音響で)
桃まんを受け取ると同時に、そそくさと南天楼から遠ざかる。建物の影に身を寄せ、周囲に人の姿がないのがわかると、ようやく顔の火照りが収まってきた。
月桂は肺にたまっていた息を一気に吐いて深呼吸した。
大丈夫だ。もう、焦ったりしてはいない。落ち着いた。
そこでようやく桃まんが入った包みを見つめた。白と桃色の薄紙を合わせて、一つずつ巾着のように赤い紐で口を縛っている。提灯のようで可愛らしい。
桃まんは大人の女性の握りこぶしぐらいの大きさで、ずしりとした重みがあった。
中の餡がぎっしり詰まっているのが感じられる。
桃まんを二つ買ったのは、もちろん明星の分と、鉱石筆の発注をくれた紫音の分である。残念ながら月桂は、
「……疲れた……」
月桂はげっそりしながら、『
けれど内心は、少しだけ心が跳ねるような高揚を感じていた。
桃まんを買ってきたと言ったら、明星は喜んでくれるだろうか。
感謝の言葉とかそういうのがききたいわけではない。
彼が傍にいると、不思議と肩の力が抜けて、気持ちが穏やかになるのだ。
西陵の土から『
ずっと一人でやってきた。
誰かを頼ること。助けてもらえること。助け合うこと。
『相手』がいなければすべてできない。
それに気付かされたからだった。
◇
石畳の道をひたすら北を目指して歩く。時折水路を渡るためにかかる小さな石橋があったり、野菜や洗濯ものを洗うための、共同水場を通り抜ける。
『
まず最初に見えるのは通用門。白い門扉に瑠璃色の大屋根。瓦の上に置かれた看板は、天に昇る竜と七色の雲をあしらった見事な彫刻がされている。
門が開かれている時間帯は午前八時から午後六時まで。
通用門を通り抜けると、目の前には『
『西翼』は色命数士たちの修行の場と寄宿舎。
『大伽藍』は講堂として使われている集会場。
『東翼』は、高位の術者や、講師たちが事務仕事をするための私室がある。
それぞれの建物は金箔が張られた金色の瓦が葺かれており、
白壁と相まって日の光に反射し荘厳な雰囲気を醸し出している。
足元は黒と白の玉砂利が敷き詰められていた。
月桂も
ふと懐かしさに囚われる。
玉砂利の道は『大伽藍』に続く門の前で終わっている。そこをくぐると右手に外来客の受付をする事務所があった。月桂はそこで用件を伝えた。
「月桂
濃い紫がかった黒髪を結い上げた紫音が、左手で拳を作り、それを右手で包んで胸の前で組むと月桂を出迎えた。
昨日、月桂の店を訪れた時とは違い、その装いは実に勇ましい格好だ。
白い鉢巻きを額に締め、小袖の着物に緋の袴をつけている。
細い腰には『紫五位』を表す
月桂も同じように礼を返した。
「こちらこそ、大変お待たせしました。依頼の『鉱石筆』です。お納めください」
「拝見いたします」
紫音は筆の入った箱を受け取り、来客用の机が置かれている所まで運んで行った。
「相変わらず……お見事な出来です。すべて石英(水晶)で、十本、確かに受け取りました。お代の方は、事務所でお受け取り下さい。用意してあります」
月桂は頭を下げた。
「ありがとうございます。今回は水晶の指定でしたが、珍しいですね」
ふふっと紫音が笑みを浮かべた。
「この春、色命数士として初めて『鉱石筆』を使う者がいるのです。水晶はどの気も帯びていないですから、安全に術を行使することができます」
「なるほど……」
月桂は頷いた。
「それにしても……月桂筆匠。さっきからいい匂いがしますね」
ちらと紫音の目線が、月桂の持つ白と桃色の包みに注がれている。
「ああそうだ忘れていました。紫音殿、明星はいますか? 彼に南天楼の桃まんを頼まれまして、それで買ってきたんですが」
「なっ……! ななな、南天楼って言いました!?」
紫音の目がキラリと鋭く光った。まるで鼠を見つけた猫のように。
「えっ……ええ……」
「いやん! 本当ですか。南天楼の桃まん、昼までに買いに行かないと売り切れるほど人気なんですよ! 明星のヤツにあげるなんてもったいない!」
「し、紫音殿……安心して下さい。二つ買ってきましたから、二人で食べて下さい」
「えっ、ええーっ! 私の分までなんて……月桂さん、なんて良い方なんでしょう! 明星のヤツひどいんですよ。いっつも自分の分だけで、私に買ってきてくれたことがないんです」
月桂は桃まんの入った二つの包みを紫音に手渡した。
紫音はそれに頬ずりしている。
「はぁー。まだあったかーい……。全部私が食べちゃお……ではなく。冷めないうちに食べたいけど。これから授業をしなくちゃいけないから」
「授業、ですか」
「はい。月桂さんに作って頂いた筆を使ってね。ああそうだ。明星なんですけど、今留守にしています。大方、久遠に用事を言いつけられているんじゃないかと思うんですが」
「そう………ですか」
月桂はいつも以上に気落ちするのを感じた。
明星には改めて礼を言いたかったのだ。
彼が西陵の土を甦らせてくれなければ、きっと自分は諦めてしまう所だったから。
何故か今は彼のあの屈託のない笑顔が見たかった。
食べたいと言っていた、南天楼の桃まんを目にして喜ぶ顔が見たかった。
「まあ、すぐ帰ってくると思うんですけど。走ってたから。ああそうだ。月桂さん、待っている間、時間つぶしに私の授業……のぞいていかれませんか?」
紫音の申し出に月桂は思案した。
「そうですね……特に急ぎの用事はないのですが」
「おや、そこにいるのは月桂
柔らかな声が背後から聞こえた。
振り返ると長い黒髪と導師の金冠を頭上に載せた久遠が、手にした黒い漆塗りの扇子をぱちりと畳んで佇んでいた。
「あなたが『
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