第二章 命を吸う筆
第6話 月桂の弟
「……よし、できたぞ」
翌日月桂は、
ちなみに『
優秀な色命数士は国家資格が与えられ、能力に沿って様々な任務をこなす。
月桂も有資格者なので、『本殿』で色命数士たちを取り仕切っている導師・
けれどここ二年は何もなく、月桂も本業が筆屋のつもりなので、『
「おう。出かけるのか」
低い男の声が戸口で聞こえた。
顔をそちらへ向けると、茶色がかった長髪を頭上で一つに束ねた若い男が、腕組みをして立っている。
「
男の名を呟くと、相手はくっきりとした眉をぴくりと動かし、茶目っ気のある赤褐色の瞳を不機嫌そうに細めた。
「元気そうだな、
「そっちもな。立ち寄ってくれてうれしいが、これから出かける所だ」
「ああ。知らせたいことがあって寄っただけだ。長居はしない」
「知らせたいこと?」
そのまま、月桂が筆を作るための作業場へと歩き、空いた椅子に腰を下ろす。
無造作に結われた髪が、肉付きの良い背中の上でばさっと揺れた。
二十五歳の神樹は、月桂と一つ違いの弟だった。
月桂は故郷に緑を蘇らせる方法を得るため、『色命数士』になる道を選んだ。
一方、弟の神樹は武芸に秀で、恵まれた体格と剣技を生かし、今も西陵で、わずかに緑が残った場所に住まう人々を、大型の獣や山賊などから守る傭兵となっていた。
時には国外へ出て、旅人や商人達の護衛をして生計を立てている。
彼が月桂の店に姿を現したのは一年ぶりのことだった。
「『
「なんだって!?」
「先日
「なんだと?」
「通路には『八色の燈台へ続く道』という文句が刻まれた石碑があった。覚えているか、兄者? 死んだ母さんが――ほとんど熱に浮かされた様子で呟いていたけどさ……『
「ああ……覚えている」
月桂は頷いた。
「母さんの言っていたことが本当だとすると、西陵の地下から、『八色の燈台の間』に行ける道があった。そして、その場所は
神樹は疲れた表情で、傍らに立つ月桂を見上げた。
「意見をききたい」
「意見とは?」
「俺には『
月桂は口元に右手を添えて腕を組んだ。
「……確かに。通路が開かぬよう、『
「その理由はわかったぜ。実際に俺達は、『八色の燈台の間』への扉を開けたんだ」
神樹の口調と表情が重苦しいものに変わった。
月桂はただそれを見つめるばかりだった。
ひゅっと息を吸い、神樹が口を再び開く。
「最初に中に入ったのは、穴掘りの
後ろにいた俺達は異変に気付き、倒れた工夫達を引っ張り出して慌てて扉を閉めた。けれど、俺達も次第に意識が薄らいでいったんだ。体が酷く寒くて怠くて、水分が抜かれたみたいに喉がカラカラになっていた。気づいた時、俺達は地上にいた。体が動くものが外へ助けを呼びに行ってくれたおかげだった。下手をすると俺もあそこで死んでたよ」
「神樹。ひょっとしてそれは……」
「ああ。どうやら『八色の燈台の間』には、相当濃い『
「黒いモヤ……視覚化するほど濃い『
月桂はぞっとした。
明星や『
現場で対処した明星が、一時的に記憶喪失になるほどである。色命数士は最初に自己防衛――『
更に明星はすべての色の上に立つことが出来る、最強の『
月桂は無意識のうちに自らの両手が小刻みに震えていることに気付いた。
これほどの濃い『
「他に死んだ者はいるのか? ケガをした者は?」
「いない。幸いなことにな。それで……死んだ二人の
「そうか……私からも遺族に見舞金の手配をしよう。すまないな」
「兄者」
神樹がすっと椅子から立ち上がった。
「兄者が探している『
「ああ……死んだ母から私はそう聞いた。すべての命は『
「じゃあ、なんで都に通じる祭事の間に、『
「わからない。何らかの理由で……死んだ者の
「じゃあ、西陵の土はずっと『
そうだ。西陵の大地が命を失ったのも、あの『
神樹が詰め寄った。大地のように揺るがない意思を宿す
その象徴が『土』であるのが皮肉だが、一度決めたことは簡単に投げ出さない、意思の強さが現れている。
弟の言う事はきっと真実だろう。それ故に月桂は俯いた。
だが無言の月桂に、神樹は苛立ちを感じたようだ。
「兄者。俺は『
「……神樹?」
弟の瞳は意味ありげな光を宿し、唇は上向きにあげられている。
「さっき庭を見てきたぜ。西陵の土が、いつのまにか『普通の土』になっていた。やっぱ『
「それは……駄目だ」
「何だって? だって、兄者がここに……
月桂は顔を上げて神樹の視線を正面から受け止めた。
爆発しそうな憤怒の念をぎりぎりの所で抑え込んでいる。
確かに。月桂が筆屋を営むことになったのは偶然でもあるのだが、目的があるとすれば神樹の言う通りだ。
そして――見つけた。
明星という稀有な能力を持つ優れた術者を。
彼の実力は見ての通りだ。西陵の土は高濃度の『
もしも月桂にその力があれば、自らの命が尽きるまで、存分に奮いたいと思うだろう。自分の命ならば。月桂は静かに首を横に振った。
「『色命数士』の力は無尽蔵ではない。命の源である『
『色命数士』が『色符』に生気を吸わせるのは、供物としての意味合いがある。
これは自然という命を利用するために支払う対価なのだ。
「それに……彼は己の生気を制御する術を持ち合わせていない。『
だん、と音を立てて机を神樹が叩いた。
「なんだよ。えらく『
「そうではない。『
「じゃあ、やっぱり『
神樹は月桂の肩を荒々しく押しのけて戸口へと向かった。
「神樹! 待て。あの遺跡に近づくのは危険だ!」
弟は無言で店を立ち去った。それが彼の苛立ちをすべて物語っていた。
誰よりも面倒見が良くて、西陵の人々は彼を頼りにしている。
一方月桂は、緑と水に恵まれた水郷――
「私だって……何とかしたいと思っているのだ。神樹……」
月桂はうなだれ、机の上に置いた布の包みに目を向けた。中には
月桂はしばしそれをじっと見つめた。
ふっと、屈託なく笑う明星の顔が脳裏に浮かんできた。
『じゃあ……壊した筆の代金、これでご破算になったり……する?』
『ご破算も何も。今日は何を食べたい? なんでも馳走するぞ』
『えっ! いいんですか? だったら
ああそうだ。
不意にじわりと笑いが込み上げてきた。
「明星と、約束したんだったな。南天楼の桃まん……買ってやると」
明星は突如現れた二人の女児(きっと色命数士)に連れ去られたが、久遠の命といっていたので、『
自分の我儘をきいてくれた礼をしたい。
まずは南天楼に寄って、桃まんを買っていこう。
それから『
「はあ……」
手を伸ばし、ぐっと結び目を掴んで筆の入った包みを持ち上げる。
月桂は戸締りをして外に出た。
ただなあ……。
月桂は晴れ渡った空を見上げた。
「南天楼か……。あの店、入った事ないんだよなあ」
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