第3話 記憶喪失の青年、命の音を聴く
月桂は懐を探って、短冊の形をした白い紙を一枚取り出した。
「
「なるほど」
「いっておくが、術を行使できるのはお主だけだ。私は『
「えええーっ!!」
「何、記憶はなくとも体が覚えているだろう。ほら、『金針水晶』で作った特別な鉱石筆だ。この先端へ、自らの体内に宿る生気を集めてみろ」
「生気を集める……どうやって?」
「そうだな。まずは呼吸を整える所からかな。ちょっと後ろに回るぞ」
月桂は背後から青年が手にしている鉱石筆を握りしめた。
二人羽織のような恰好だ。
「げ、月桂さん。くすぐったい! それになんか急に心臓の動悸が早くなるんですけど」
慌てたような青年の声。
「落ち着け。意識を筆に集中するのだ」
「い、いや無理。その声聴くとどきどきする! 耳元で囁かないで!」
「あのなあ……落ち着けと言っているだろう。私の声でいちいち反応するな。ほら、気が動き始めている」
青年に話しかけながら、実は月桂もどぎまぎしていた。
手に触れたことで、彼の気脈がより身近に感じられる。
心臓の鼓動も直接耳に響いてくるようだった。
トクトクトク。
命の流れるあたたかな音が聞こえる――。
「息をしているか?」
「あ、はい」
青年の肩が上下に動く。
どうやら無意識のうちに息を止めていたようだ。
「よし、深い呼吸を続けるんだ。ほら……お主の生気が筆先に集まり始めた」
「ふーっ……」
月桂の言葉通り、青年が落ち着いて呼吸を繰り返す。
すると金針水晶の先端に金色の光が溢れて仄かに瞬き始める。
「いいぞ。生気が筆の三分の二まで集まってきた。さっ、『
「わかった」
淡かった金色の光がチカチカと瞬いて輝きを増していく。
「ほら、気が散ってしまう前に早く書け」
青年が左手に持った短冊に筆先を押し付けた途端。
パリン!
「あっ……!」
「なっ!」
鉱石筆の先端がいきなり砕け散って、溶けた金を思わせる光が周囲へ舞った。
「割れた……」
筆は先端が跡形もなく消え、軸の黒竹だけになっていた。
月桂は青年から離れた。
差し出された筆を受け取る。壊れた原因はすぐにわかった。
「お主の力に鉱石が耐え切れなかったようだな。ああ心配するな。筆はまだあるから。今度は一人でやってみるか?」
月桂は引き出しを探って、煙水晶がついた鉱石筆を取りだした。生気の容量を蓄える力はこちらの方が多いはず。
青年は筆を受け取ってうなずいた。
「あ、少し離れてもらってもいい?」
心持ち青年の頬が赤い。碧い瞳が虚空を上下している。
月桂が青年の命の音を聞き取ったように、彼もまた月桂のそれを聞いたはずだ。
命の音が奏でる調べを。
「そうだな。やり方はさっきと同じだ。やってみてくれ」
「わかった」
青年は瞳を鉱石筆に落とし、深い呼吸を始めた。
ぞわぞわと二の腕の毛が逆立つのが感じられる。
この青年の生気は月桂が思っているよりずっとずっと『強い』。
鉱石筆に金色の灯が灯った瞬間。
「アッ!」
それは力に耐えられず、再び木っ端微塵に弾け飛んだ。
◇
「月桂さん……本当に、本当にすみません!」
月桂は作業場に散らばった鉱石の欠片を
あれから10本の鉱石筆と5本の通常筆を使ってみたのだが、すべて青年の生気の力に耐え切れず、壊れてしまったのだ。
動物の毛や植物の繊維で作る通常筆も、青年が筆先に生気を集めた途端、勢いよく燃えて灰になってしまった。
「記憶を思い出したら、壊した筆は弁償しますからっ……! 時間がかかっても必ずっ!」
「いいから顔を上げて立ってくれ。お主のせいではない。私の筆が……私の腕が未熟だから。単にお主の力に耐えられなかっただけなのだ」
「でも……」
月桂の足元に縋り付く青年は瞳を潤ませて詫びの言葉を呟いている。
月桂は久々に心が浮つくのを感じた。この青年の登場で、
この店には彼が使える『
「筆づくりは奥が深いな。私も精進しないといけない。じゃあ、最後の手段。『色符』にはお主の指で書こう」
「指?」
「ああ。それだけ生気が溢れるなら、数式が発動するのに十分な量があるからできるはずだ。やってみてくれ」
「……わかった」
青年は左手に『
丸く引かれた円は【零】の文字を浮かび上がらせ、『色符』が金色に輝く。
「術が発動した。『色符』を額に当てて……」
月桂の言葉通りに青年が金色の光を帯びた『色符』を自らの額に当てる。
「よし、そのままじっとしていろ」
「なんだか額の周りが熱い……」
「それでいい。お主の体内にある『
月桂の合図で青年の額から『色符』がはらりと落ちて足元に転がった。
青年の生気の色で光り輝いていたそれは、今は真っ黒な石の塊のようになっていた。
月桂は『色符』を拾い上げ、くず入れにしている箱の中に入れた。これは後で燃やして灰は土に埋めることで自然に還る。
「はぁーすっきりした! 頭の中の霞がとれたみたいだ。全くひどい目にあった」
月桂が使用済みの『色符』を処分していると、青年が額に手を当てて、ほっとしたように息を吐いていた。
一本の三つ編みにまとめた長髪を掻き寄せる。それはくすんだ灰色が消え失せ、窓から差し込む陽光のように白金に輝いていた。
月桂はそれを眩し気に見つめた。
彼が水路のほとりで倒れている所を見つけた時の、命の光に満ちた姿を思い出す。
「ありがとう、月桂さん。まさか『
「やはりお主は並みの『
「筆を壊してしまったこと……本当にすみません。ああもう俺の馬鹿。筆が使えないことぐらい覚えていたら、月桂さんにこんな迷惑かけなかったのにっ!!」
「ええと。じゃあ、頭の中は大丈夫そうか?」
「はい。お陰様で」
青年は月桂に改まった様子で向き直った。
「俺の名前は
「メイ……セイ……?」
耳が捕らえたその名を聞いて、がつんと金槌で頭を殴られたような衝撃を感じた。
まさか。
懐かしい声が脳髄にその名を響かせる。
『……
「月桂さん?」
肩を掴まれた気配を感じ、いつの間にか俯かせていた顔を上げる。
湖水のような深くて碧い瞳が、水面に映る星の光を宿して月桂を見つめていた。
視線が合うとそれは細くなって笑みを浮かべた。
「そっちこそ大丈夫? 急に黙り込んだから、ちょっと驚いちゃったよ」
「あ、ああ……すまない。ぼうっとしてた。ええと
「はい」
「名は体を表すという。『白零位』に相応しい……いい名前だな」
「えっ、そ、そんな大層なものじゃないですよ。『
明星が照れたように白金色の髪に指を絡めたその時。
「今日は」
出入口の若草色の暖簾が持ち上げられて、店内に若い女性が入ってきた。
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