第4話 明星、筆の代金をご破算にしてもらう

 月桂の店の戸口に、濃紫色の長い髪を一つに結い上げた女性が立っていた。

 年の頃は二十ぐらいで、くっきりとした顔立ちの美人だ。

 裾がふわりとした薄紫の着物を纏い、外出用の薄い被風ひふを羽織っている。風に揺れるそれは蜻蛉かげろうの羽のように軽やかで透けている。

 そして腰には鮮やかな菫色の飾り帯が結ばれ、月桂も腰に帯びている『色命数士しきめいすうし』の証である『佩玉はいぎょく』が揺れていた。

 紐に結ばれている玉の種類は、『紫五位』を表す紫水晶だった。


「これは紫音しおん殿」


「月桂筆匠ひつしょう、お邪魔します。先日、本殿ほんでん――『伽藍がらん』より依頼させてもらった『鉱石筆』の納品、そろそろできるかなと思いまして来たんですが――」


 紫音が徐に言葉を途切れさせて、月桂の後ろに立つ青年を見つめる。


明星めいせい!? あんたここにいたの! 久遠くおんが血相変えて探し回っていたわよ?」


「紫音殿。失礼だが、彼をご存知なのですか?」


「ええ。私と一緒で、『伽藍がらん』で色命数士しきめいすうしの講師をしているんです。それよりなんで明星がここに? 二日前から姿を消して、探していたんですよ」


 紫音はずかずかと歩を進めた。明星は記憶が完全に戻ったのだろう。紫音の顔を訝し気に見つめている。


「ちょっとドジを踏んだだけ。あ、俺は月桂さんの店に居候するから、しばらく戻らないって、久遠に伝えといてくれない?」


「はぁーー!? それってどういう意味よ」


 明星は悲し気な表情をして肩をすくめた。唇をキュッと噛み締め、視線を地に落とす。動きに合わせて白金色の前髪が伏せた瞳の上に流れる。


「月桂さんの筆をたっくさん、壊しちゃったんだ。だからお詫びに月桂さんの仕事を手伝う」


「筆を壊したって……」


 紫音の目がほうきとちりとりを持っている月桂に注がれた。

 そこで月桂は事情をかいつまんで話した。


「それはご迷惑をおかけしました。私からもお詫びいたします」


 紫音の手が素早く伸びて腰の所で揺れていた明星の三つ編みを掴んだ。

 呼び鈴のようにぐいと引っ張って、無理矢理頭を下げさせる。


「い……痛たたたっ!」


「あんたって、どうしてそう力加減が下手くそなのよ! どんだけ大きな力があるか知らないけど、制御できないんじゃ宝の持ち腐れ。肝心な時にいなくなって、『伽藍がらん』じゃあんたがぶちまけた『九黒クコク』の気を片付けるのに大変だったんだからね」


「ええっ! 俺のせい? 俺だって大変だったんだ。『九黒クコク』の気を抑えて『零白レイハク』の結界を張ったら弾かれちゃって、地下水路に落ちたんだ。月桂さんが水路にいる俺を見つけてくれなかったら、溺れ死んでたかも」


「何それ……」

 

 紫音が絶句する横で、月桂は口を開いた。

 

「えっ。明星……お主、『零白レイハク』の力で『九黒クコク』を抑えることができるのか?」


「ちょっとだけどね」


「月桂さん。こう見えても奴は『すべて』の色命数しきめいすうを使えるんですよ。信じられないでしょ? こんなにぽーっとした顔してるのに!」


 月桂は口を尖らせている紫音の顔をまじまじと見つめ、やおら明星の右手を掴んだ。


「な、何!?」


「明星、お主に頼みたいことがある! ちょっと一緒に来てくれ。あ、紫音殿。『鉱石筆』は組み立てるだけだから、明日必ず『伽藍がらん』へ納品に行きます。よろしいでしょうか」


「え、ええ……いいですけど」


「ありがとうございます。あと、明星を貸してくれませんか? 今日だけでいいので!」



 ◇

 


「どうしたの? 月桂さん。急に……」


 自分でも気持ちの高まりが抑えきれない。

 けれどどうしても確かめたいことがあった。


 月桂は明星の手を掴んだまま庭へと出た。そして筆の材料として植えている、竹林を抜けた場所で足を止めた。


「ここは……」


 立ち止まると明星がはっと息を飲む音が聞こえた。


「感じるか?」

「……感じるも何も。これは一体……」


 月桂は明星が凝視する足元の土を靴先で触れた。それは氷の上を歩いているかのようにとても冷たい。

 そして驚きなのはその色だ。黒一色。木桶二杯分ぐらいの量だが、墨をぶちまけたかのような漆黒である。


「生き物にとって健康を……命を吸い取る存在『九黒クコク』の気に冒された、『西陵せいりょう』の土だ。勿論、地中に水晶を埋めて術を施し、結界を張って『九黒クコク』の気は外に漏れないようにしてある」


 月桂はようやく明星から手を離した。

 明星は眉間を寄せ、黒い小石の塊を見下ろしている。


「西陵っていえば……この水城みずきからみて西の地域だね。きいたことがある。岩山や小石ばかりで、植物が育たない不毛の土地だとか」


 月桂は静かに頷いた。


「私は『西陵』の出身だ。これでも昔は、湖と緑が生い茂る美しい土地だったそうだ。なぜこんな風になってしまったのか理由はわからない。でも私は『土』に含まれる『九黒クコク』の気を取り除くことができれば、西陵の地は蘇るのではないかと考えている。


 だから水城みずきの都に来て、『色命数士しきめいすうし』になるべく、本殿の『伽藍がらん』で修行した。結局『緑四位』の術しか会得できなかったが、『四緑シリョク』は植物の成長や、衰えた生命に活力を与える力だ」


「なるほど……つまり月桂さんは、俺に『九黒クコク』の気を吸い取れと言うんだね」


 明星の声がとても冷たく響いた。月桂は頭を垂れた。


「そうだ。身勝手な願いだというのはわかっている。けれど私は試したい。この『九黒クコク』に冒された土を、植物が育つ、命あるものに戻すことはできないかと。お主を水路で見つけた時、まだ硬いつぼみだった竜金花リュウキンカの花が咲いていた。まるでお主の命の力で咲いたみたいに……」


「いいよ」


 月桂は我に返った。

 明星は月桂にちょっと困ったような視線を向けた。


「だけど、結構『九黒クコク』の濃度が高いから……いい結果じゃなくてもがっかりしないでね?」


「それは構わない。私はただ……見たいのだ。この土が蘇るかもしれない可能性を!」


「わかった。じゃ、『色符いろふ』を二枚くれる? 俺のは川に落ちたせいで無くしてしまったから」


「ああ」


 月桂から『色符』を受け取り、明星は右の人差し指を唇に当てて瞳を閉じた。

 彼が記憶を失っていた時とは比べ物にならないほどの、強い『生気』を感じる。

 それは風のように舞い上がると、ふわりと明星の白金の髪を揺らした。

 月桂の目には、まるで彼自身が白い炎を上げる蝋燭のように見えた。


「最初にして最後に訪れるのは――無。何もない所から命の光は生まれる」


 明星の人差し指が白い光を灯す。


「『零白レイハク』はすべての色の上に出でてそれを生かす」


 明星は白い光が灯る指先を『色符』へ押し付け、『レイ』を表す円を描いた。

 術が発動して『色符』が発光する。それを持ったまま、明星は二枚目の『色符』を上にした。見開かれた湖水のような碧い瞳と同じ光が、明星の人差し指に宿っている。


「我願う」


 冒頭の祝詞を紡ぎながら、明星は白紙の『色符』に指を滑らせ『色命数』を書いていく。


「三つ、水脈流れゆく。四つ、緑の深遠、泉のごとく湧き出でて……七つ、大地に命潤す雨とならん!」


 『色符』の上で数字の【三】が青い光。【四】が緑の光を放ち浮き上がる。

 それらはぐるりと渦を巻いて合わさると、『七碧ナナヘキ』の色命数へと変化した。

 

 明星は跪いて足元の黒土へ二枚の『色符』を置いた。両手で押さえつけ、ただひたすら、自らの生気を送り続ける。


 最初は何も変化がないように感じたが、黒っぽい土の色が、徐々に黄色を帯びて輝き始めたのだ。

 だが術を行っている明星の顔も血の気が引いて、ますます白くなっていく。

 それを見た月桂は我に返った。自分が彼に何をさせようとしているのか。

 彼の命の炎を消しかねない己の愚行に気付いて。


「……明星、もういい!」


「もうちょっとだけ。あと少しで、ここの分の『九黒クコク』の気は消える……! あ、やっぱ月桂さん。力を貸して」


「えっ」


「『九黒クコク』の気が重い。引きずられそう。『四緑シリョク』の力を土に送り込んで。そうしたら俺は、『九黒クコク』を全力で吹き飛ばすから!」


「わかった。無理はするな」

「大丈夫。信じて」


 月桂は袖口から『色符』を取り出し、髪に挿していた『命数筆めいすうふで』を引き抜いた。確かに明星の言う通り、『零白レイハク』の光が『九黒クコク』の気を土から押しのけつつある。

 同時に明星は命を司る『七碧ナナヘキ』も召喚した。生気のない土に活力を与えようとしているのだ。


「我願う。一つ、日輪巡り、三つ、水脈と合わさりて、四つ、萌える緑とならん!」


 『四緑シリョク』の力を呼び出した『色符』を明星のそれに重ねて、月桂は両手を押し付けた。すると、そこを中心に一際強い、まばゆい光が周囲へと広がっていった。

 そして『色符』自体が、膨らみ切った風船のように弾け飛んだ。


「……くっ!」


 『九黒クコク』と『零白レイハク』は相克そうこく関係にあり、直接力をぶつけると反発する。

 風圧にのけぞる明星の体を月桂は後ろから抱えて支えた。

 倒れる勢いに耐えかねてその場に尻をつく。


「明星、明星、しっかりしろ!」


 力が抜けてぐったりとしたその体を支えて、月桂は自分の要求が高すぎたことを意識した。

 この土から『九黒クコク』の気を薄めようと、一年間、毎日、植物の成長を促す『四緑シリョク』の気を注いできた。


 だが月桂の力だけでは駄目だった。どんな色も吸収してしまう恐ろしい『九黒クコク』は、『四緑シリョク』の力を吸い込み更に色の濃さを深めてきたのだ。

 けれど今はっきりと分かった。どうすればよいのかが。


「うっ……」

「明星! 気付いたか」

「……なんて顔してるんですか……」


 自分の髪と同じくらい顔が白くなっているのに、明星は碧い目を覗かせて微笑している。月桂はそれを安堵の息を吐きながら見つめていた。

 明星の頭は月桂の膝の上に載っていた。後ろに倒れかけた彼を支えてそのまま座り込んでしまったからだ。


「よかった。大丈夫か」

「そんなわけないでしょう? また『九黒クコク』まみれだよ……」


 月桂の膝に頭を載せたまま、明星はふうと長めの息を吐いた。


「あ、それは。その、すまない。ここの土は私の力だけでは、どうしても『九黒クコク』の気を弱めることができなかったんだ……」


「ふふ。どう? 願いは叶った?」


 明星が小さく笑う。彼の右手は黄土色をした土をすくい上げていた。指先で触れるだけで跡が付くほど柔らかい。


「――土が、蘇った……」


 明星の手のひらから零れ落ちる土。さらさらとした細かい粒。

 それを見つめると目元に熱い塊がせり上がってきた。


「月桂さん……えっ……泣いてるの……?」

「いや……なんでも……ない……」


「泣いてるよ。ほら。俺の頬に月桂さんの涙が落ちてくるんだもの」


「……違う。その……お主は凄いな。『零白レイハク』で『九黒クコク』の気を弱め、『七碧ナナヘキ』で生気を送って土を甦らせた――ありがとう。礼を言う」


 頬に温かいものが触れて月桂は潤んだ瞳を瞬かせた。

 明星の右手が月桂の頬を包むように伸ばされていた。


「ううん。月桂さんが手伝ってくれたおかげ。でも、少しは役に立てたかな?」


 月桂はゆっくりとだが深く頷いた。


「……ああ。お主のお陰で、希望が見えた」

「そう。よかった。じゃあ……」


 明星がぴたぴたと月桂の頬を叩いた。


「これで壊した筆の代金、ご破算にしてもらえたり……する?」

「ご破算も何も。今日は何を食べたい? なんでも馳走するぞ」

「えっ! いいんですか?」


 月桂は袖で目元をこすった。涙は何とか収まったようだ。

 まさか人前で泣くとは。急に戸惑いと恥ずかしさが込み上げる。


「それなら、南天楼の桃まんが食べたいな」

「……桃まん?」


 意外な言葉に月桂は目を見開いた。二十を少し過ぎた青年が、子供がおやつに食べる桃まんを所望した。

 口元から息がこぼれる。吹き出しかけた息を右手の袖で咄嗟に押さえた。


「あっ、今、笑った?」

「い、いや……笑ってなどは」

「いや! 笑ってるじゃん。ひどい」


 がばっと明星が上半身を起き上がらせた。

 月桂の方へ向き直り、碧い目が上目づかいで見上げている。

 傷ついた子犬のように。

 月桂は両手を上げて頭を振った。


「ああ、違う。すまない! 南天楼といえば……巷の女性達がいつも甘味を食べている店だなと」


「……駄目?」


「そんなことない! 今日は食材を買いに行く日だから、これから一緒に行くか!」


 月桂は先に立ち上がった。自然と右手が出て明星へと差し出す。

 ほっそりとした指が、だがしっかりとそれは差し出された月桂の手を握りしめた。明星が立ち上がる。

 拗ねた表情は消え失せ、にこにこと顔をほころばせている。

 その笑顔の眩さに月桂は目を細めた。


「やったあ。思えば久しぶりなんだよね。水城みずきに帰ってきたのも。久遠くおんの奴、ホント人遣い荒いから」


「久遠って……伽藍がらんで『色命数士しきめいすうし』を束ねている、久遠導師の事か?」


「そうだよ。先月も湖藍こらん国の北の端だったかな……北麗ほくれいむらまで行かされて、帰ってきたばかりだったんだけど。伽藍がらんの地下で――」


 明星の白金の長い髪が、突如吹いた風で大きく靡いた。

 月桂も着物の袂に思わず手を添えて、吹いてきた風に身を構える。


「見つけたアル!」

「明星、久遠様がお呼びじゃ。参上せよ!」


 空から白と藤色の花びらが舞い降りてくる。

 突風が止むと、目の前に二人の少女が立っていた。

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