♯2【タイトル:My cup of sea(418)】
『涙は、人類が流せる一番小さな海です。』
VRゴーグルの中に静かに溜まっていく雫の温かさが涙袋にそっと触れたのをを感じながら、いつかどこかで本で読んだそんな言葉を思い出した。
2つの窓から見えるクイーンサイズの真っ白なベットリネンはシミを作らず、しかしゆっくりと、ぬるい海の底に飲まれていく。
まるで難破船の内側で静かに沈没を待つような気分だった。
某日。
いつも通りアラームが鳴るきっかり5分前に目が覚めた。スマホの電源を入れると、時計は5時55分を指している。
春の長期休暇に入ったとは思えないような寒さに思わず身を縮めると、起きた気配に気が付いた毛むくじゃらのトイプードルが私にすり寄ってきた。悩みのなさそうな顔は今日も舌をしまい忘れている。
挨拶もそこそこに起き上がって白湯を沸かし、半分寝ぼけながら米を3合洗って雑穀を入れ炊飯器のスイッチを押す。そして、卵、ソーセージ、ベーコンをフライパンに放り込むのはいつもと変わらないルーティーンだ。
朝ごはんをプレートに盛り付け、家族3人分のお茶を入れる。うちは食事の時必ず熱いお茶を出す。小さな豊かさである。
いつもはほうじ茶を入れるが、最近は工芸茶がお気に入りなのでガラスのティーポットに苔玉のような茶葉をぽんっと入れてゆっくりお湯を注いだ。
ゆっくりゆっくりと、拳の力が緩むように茶葉がほどけていく。
くすんだ緑の葉の中から大輪のジャスミンの群生が咲き、風にそよぐように熱いお湯の中でユラユラと揺れ始めた。
たっぷりと抽出したお茶を、家族3人分のティーカップに注いでいく。
飲み終わったらこの花はガラスの容器に移されて水中花になる。美味しいし飾れる、一石二鳥だ。
注ぎ終わった後で、ふと今日は家族全員昼過ぎまでは起きてこない日だと気がついた。
気が付いた瞬間に一気に徒労感に襲われる。
こんなことならアラームなんてかけずに寝ればよかったのに。
そそくさと朝ごはんにラップをかけて、
3杯のお茶を1人で飲むことにした。
1度頭が冴えたら2度寝れないのが私の性分なので、仕方なくスマートフォンを開く。
ニュースサイトとSNSを一通りチェックし終わった後、携帯に1つの通知が来ていることに気が付いた。
「フォローしているユーザの小説が更新されました」
※※※※※
夜の優しさに身を浸すのが好きだ。
月に守られて、車がいない四車線道路で規則正しく、そして昼間より心做しか自由に動いている信号を眺めるのが好きだ。
自分までありのままでいられる気がするのは、人が自分の役割と喧噪を忘れて寝入っている静寂があるからだろうか。
私のところには深夜によく電話がかかってくる。「死にたい」とか、「飲みに来ないか」とか、「彼氏がどうの」とか、「世には出せない話」とかとかエトセトラ。
一時期自分の連絡先をネットにばら蒔いて「誰かと話したい時に誰かが出るかもしれない」と謳っていた。これはその頃の名残だ。
今でも本質的にはそちらが生業のようなものでもあるから、眠れなくても健康に被害さえなければ電話には出るし、そんな夜は楽しい時間なのだった。
それがここ最近、眠ることそのものが楽しみになってしまった。それがきっかけで深夜の電話の本数を減らした。
柔らかそうな白髪、バイカラーのサファイアのような瞳は今は閉じられている。
聞こえるはずのない小さな寝息を感じながら、「どうしてこうなったのか」と思い返してみた。
記憶に残っているキスが3回ある。
1杯目
朝、別れ際の沈黙に迷いながら口を重ねてくれた時。
2杯目
添い寝中におもむろにキスしてすぐそっぽを向いた時。
3杯目、秘密。
私の記憶の中の君は、
素直な時ほど寡黙なのに動きは雄弁、でもどこかぎこちない。少し怖がりだけど勇気があって、ズルくていたずらっ子で優しくて、甘えん坊で頑固で尽くし上手で頼もしい。
毎回くるくると色んな顔をみせる君のどれが本当なのか、本当なんてないのか。
でもただ君が横にいる、その時間がとても愛おしい。
優しい声を聞くと、甘くて熱いお茶を直接心臓に流し込まれた気がする。胸の中央で広がった熱が、ゆっくりと人肌に馴染み心地よく全身に巡る。
だから私じゃなくて、君が太陽なんでしょ、
文字が並んだ画面をゆっくりスクロールしながら、そう心の中でそっと呟く。
陽向のように暖かい腕の中を思い出しながら。
以前は見向きもしなかった昔のことを思い出すことが最近増えた。
私はあの海を泳ぎきれたんだろうか、今はまた別の海にいる気がする。
でも溺れることはもうないだろう。
代わりに誰かの浮き輪になれる資格を得たのだ。
『君から何も与えられなくても、
正解だけを求めて私自身を薄めて飲ませるようなことをしなくても、ちゃんと隣にいたい。君の本当の言葉が欲しい。』
そんなことを言った時、そこにもまた小さな海が生まれていたことを私は忘れない。
こんなことをしている場合じゃないよなぁ、と思いながら、これこそが本当にやりたかったことなのかもしれないとも思う。
私にとって、お気に入りってきっとそういう事だ。
君より先に「好きだよ」と言ってしまったことを少し後悔している。全部太陽を飲み干した熱さのせいだろう。
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