返歌のようなもの
𐌍 𓃗
♯1【タイトル:B面の思い出】
毎年正月に実家から1,640キロ離れた母の実家へ帰る儀式は記憶が正しければ私が3歳の頃から11年間続いた。
そのうち9回くらいは正月三ヶ日が過ぎてから実家へ帰るまでの何処かの日で必ず市で一番大きな近場の動物園へ家族全員で出かけた。
年々祖母は体力が落ち、勾配の急な坂道だらけの動物園を歩き回ることに疲れて
同行したりしなかったりしていたが、それでも毎年大晦日には「今年は動物園へいつ行こうか」と誰かしらかが尋ねてきた。
それはいつしか定例行事の枠を超えて、正月の儀式になっていた。
近所の格式高いわけではないが地域から慕われている小さな神社で家族親族揃って1年の無病息災の願掛けをするかのように、
毎年坂道を登って猿山の愉快なヒエラルキー眺めたり、動物資料館で画面に表示された羊と綱引きで力くらべをしたり、頂上にある魚の骨格を模した公園で無邪気に砂遊びをすることで、そして大人はそんな猿山のニホンザルよりも奔放な子供たちを眺めることで、
また長い長い365日、病める時も健やかなるときも人としてこの世で生きていく心の準備をしていたかのように思う。
小学校低学年当時、今ではほとんど忘れてしまったが私は無類の動物好きだった。ペットショップで見る生き物も嫌いではなかったが、(世話は面倒だし)
野生動物の生き生きとした自由な姿が好きで図鑑をたくさん持っていた。
そんな私を見ていた大人が動物園へ連れて行ったのが正月の儀式の始まりだったんだろう。
でも私は檻に閉じ込められて、毎日同じ生活を繰り返している動物たちと、毎日仕事で疲弊して鬱々としている両親や祖父母の姿に大した違いが見出せず、動物園の暇そうな面々をただ観察して回るのは正直退屈だった。
そんな思いがあったせいか、26年経った今、今でも近所にあるあの動物園にどんな動物がいたかはほとんど覚えていない。
唯一鮮明に覚えているのはマレーバクである。
悪夢を食べるという伝説があるその生き物は私が初めて動物園の売店で誰かに買ってもらったぬいぐるみである。
実物のマレーバクも園にはいたがあまり可愛いとはは思わなかった。
しかし、そのぬいぐるみを抱いて寝ると悪夢を食べてくれるというそのおまじないのようなストーリーは、当時真剣に魔法使いに憧れていた私に愛着を抱かせるに十分な特別な生物となった。
そして実際、そのぬいぐるみを枕元に置いてから
私は「あまり夢を見ない人間」になったのである。
※※※※※
数多のぬいぐるみが人生の経過とともに灰になった末に、今も尚、私の枕元に煩雑に置かれているマレーバクのぬいぐるみは
3年前から夢を食べなくなった。
昨日も、今日も、良い夢も悪い夢も。
早朝に虚しい存在の絶望で溶けてしまいたくなったり
真夜中に離別の苦しみで涙が止まらなくなったり
愛されたかった誰かに愛される幻想を見て
幸せになって欲しかった誰かが幸せになる虚構を見て
染まりたくないものに強制的に染められる恐怖を
結果を掴めない自分の弱さを夢が突きつけて来ても
夢の外で地獄が追いかけてきても
大人が助けてくれなくても
悪夢に魅入られても
バクはずっと知らんぷりをした。
この子、私じゃなくてきっと夜になると他所で悪夢を食べているのね。
悔しさ混じりの恨み言を呟きながら
バクが横にいる枕元で私は今日も無慈悲な夢の中に落ちていく。
ふと
頭の横で無機質に何かが振動している。
5回振動を繰り返した後
パッタリと静かになった無骨な四角形を握り締めて、ゆっくりと顔に近づけた。
六畳間のワンルーム。
壁越しに聞こえる顔すら知らない隣人のイビキと、ビールしか入っていない1人用の小さな冷蔵庫のブン、という音が耳の鼓膜のどこか遠くで鈍く響いていた。
いつ撮ったかも覚えていない、友達とのツーショットが表示されているスマートフォンには午前4時の文字。
そして知らない名前のアドレスから一通のメールが届いている。
『寝れていますか?』
光る板の中から静かに語りかける声に
身体の緊張と不安が冷たい部屋の空気に温かく溶けていくのを感じながら
脱力した指先と穏やかな心持ちで
「寝れてるよ」と矛盾した返信をしてもう一度気だるい体を枕に沈め
8文字にまんまと食べられてしまった自分の一部の喪失を感じながら
微睡の中に身を委ねた。
その日は動物園の夢を見た。
バクはどこまでも自然の中に生きているバクで青々と生い茂るただの葉っぱを
幸せそうに食べていた。
あぁ、お腹が空いていたんだなと。
少しだけ申し訳なさを感じた。
P.S
君の文章は静かな感性の中にちゃんと想像の質量があって
言葉のテンポが心地よくてとても好きでした。
またお暇な時に、返歌をお待ちしてます。
NMM
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