第83話:やっぱり気付いてないのね

 思ってもいなかったその声に、驚いた渚は顔を上げて目を見開く。

 結衣も同様で、先ほどまで怒り狂っていたのがウソのように一瞬呆けてしまった。

 

「あらあら、ふたりともそんなに驚いてどうしたの? 私が来たら変だったかしら?」


 そんなふたりの視線を受けて、和服姿のその人物は穏やかな笑みを浮かべる。

 

「母さん!」

「静さん!」


 渚の母、そして宗光の永遠の想い人・穂崎静がいつのまにかそこにいた。

 

「な、なんで母さんがここに!?」

「なんでって渚がなにやらとても名誉な賞を獲ったって聞いたから。それなのにどうして知らせないのかしらね、この子は」

「だって民宿の切り盛りで忙しいと思って」


 実際はそれどころじゃなくて忘れていただけだったが、咄嗟に嘘をつく渚だった。

 

「そう思うならもうちょっと帰ってきては私を休ませてちょうだいな」

「あ、うん……」

「それに結衣さんも、私、言ったでしょう?」

「え?」


 いきなり話を振られたものの、結衣は戸惑うばかり。

 なんか言われてたっけ?

 

「もう、困った時は私を頼ってって。お風呂で言ったじゃない」

「ああ、そう言えば……」

「そう言えば、じゃありませんよ? 結衣さんは自分に自信があるのは良いことですが、もっと他人に頼ることも覚えないと。そっちの方がずっと人生は楽しくなるんですからね」


 はぁといまだ呆気に取られたままの気のない返事をすると、不意に渚が「あれ!?」と戸惑った声をあげた。

 驚いて振り返ると、渚が不思議そうに自分の身体を見下ろしている。


「なんでだろ、さっきまでの苦しさがなくなってる!?」

「本当ですか!? って、もしかして完全に女の子に……」


 結衣がじぃっと渚の股間を見つめてきた。

 はしたないよ、結衣さん。

 

「だ、大丈夫! ちゃんとある!」

「よかった……でも一体どうして?」


 女体化が止まったということは、すなわち宗光の野望にストップがかかったということ。

 あれほど痛めつけても考えを変えなかったのに一体何があった?


「……静」


 その宗光の口から、その名前が零れ落ちるのが渚たちにも聞こえた。

 見開かれた細長い目は、まるで女神に救いを求めるように見えた。

 

「宗光……」


 対して静はゆったりとした仕草で近づくと、床に倒れこむ宗光へ視線を合わせるようにしゃがみ込む。

 

「久しぶりね」

「あ、ああ……」

「でも、しばらく見ないうちにまるでアンパンマンみたいな顔になったのね、宗光」

「いや、これは……娘にやられ」

「違うでしょう?」


 たおやかな笑顔を浮かべながら、しかし有無を言わせないという意志を含んだ凛とした声で、静は宗光の言葉を遮った。

 

「だって結衣さんから渚を奪おうとしたんでしょう? だから宗光はその報いを受けただけじゃない」


 その言葉に宗光の表情が苦々しそうなものへと変わる。


「……静、君も、私の邪魔を――」

「ううん」


 やにわに目を険しくした宗光に、静はゆっくりと頭を左右に振った。

 そして

 

「私は宗光の目を覚ましに来たの」


 そう言って宗光の額を軽く指で弾いてみせた。


「私の目を、覚ます?」

「だって相変わらず自分のことが分かってないじゃない、宗光は」

「そんなことは……」

「ううん、分かってないわ。そもそも私、昔から気付いていたのよ、宗光の気持ち」

「……え?」

「私のことが好きだけど男だからなぁってずっと悩んでいたでしょ?」

「…………」

「でも宗光は隠し通せていたと思ってた。違う?」


 違わなくは、ない。

 でもだったら何故と宗光はただでさえ細い目をさらに細めて静を見つめ返した。

 

「ふんふん、『気持ちに気付いていたのなら、どうして女の子になった時に私を選ばなかった?』って言いたいのね」

「……私のことは全てお見通し、ということか……」

「そうよ。そして私が宗光を選ばなかったのは、決して宗光のことが嫌いだったからじゃない。全ては宗光に理由があった」

「……やはり、あの時のウソ、か?」

「違うの」


 静は頭を左右に振り、宗光が長年抱え込んでいた苦悩を否定した。

 

「やっぱり気付いてないのね」

「……何をだ?」

「宗光、あなたは女の子になった私なんてきっと好きになれなかったはずよ。だって――」


 静が宗光の目をじっと見つめる。

 

「あなたが恋焦がれたのは、男だった頃の私なんだから」

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