第51話:一度話がしたかった

 渚と晶の仲が気になる。

 確かにそれもある。

 

 が、結衣が書道に集中出来ないのは何もそれだけじゃなかった。

 迷っていたのだ。

 

 どうしても。

 どうしても渚の前衛書が見せる表現力に勝てる術が見つからない。

 

 書道を習い始めて十数年。

 その中で次のステップとなる課題を見つけては、悉くそれを乗り越えてきた結衣。

 

 が、今回ばかりは乗り越えようにも、その足掛かりすらいまだ見つからない。

 合宿初日だから、ではない。

 春の市展から、いいや、ゴールデンウィークが終わった深夜の書道室で渚の書を見た時から、ずっとあれを乗り越えようともがいている。

 

 でも、もがけばもがくほど上手く行かない。

 そのくせ気ばかりがどうにも急ぐ。

 まるで閉じ込められた迷路で、我武者羅に走り回っているような気分だった。

 

 そしておそらくそれは曜子も同じなのだろう。

 

 大学に入ってからぷっつり表舞台から姿を消した曜子。

 彼女に何があったのかは知らない。

 でも今、曜子が求めようとしているものが自分と同じなのは分かる。

 

 同じく深夜の書道室で自分のと見比べた曜子の書。

 あの時は随分と迷走しているなと思ったものの、今なら彼女が何を成し遂げようとしているのが痛いほど分かった。

 

 そして曜子の方がきっと自分より先に行っていることも……。

 

「はぁ……」


 そんなこんなで迎えた二日目の深夜11時。

 結衣はひとり、お風呂に入っていた。

 

 まるで立派な旅館の大浴場のような大きなお風呂。

 ジェットバスとか、電気風呂とか、そういうのはないけれど、代わりに浴槽は贅沢な檜造りで木の香りが心地よい。

 リラックス効果は絶大と言えた。

 

 これをお昼前の一時間を除いて二十四時間使えるのは、お風呂好きな結衣にはありがたかった。

 実は本日だけで既に4回目の入浴だったりする。

 

「これで書道も二十四時間出来たら最高なのですが」


 でも、さすがにそうはいかない。

 昼間に書道している大部屋は、夜になると書研生たちの寝室になるからだ。

 もちろん男女を隔てる襖はその度に設置し直している。

 

「でも、この調子ではまともなのが書けそうにない、か……」


 ぶくぶくぶくと、結衣は湯船に鼻の下まで沈み込む。

 気持ち的には頭ごと沈み切っているようなものだったが、そうしないのは意地みたいなものだった。

 

「ただ、先輩の方はあまり気にしなくてもよさそう……」


 今日も今日とて晶が夕食時に訪れてきた。

 その晶を見つめる渚の目が、どうにも昨日と違うように結衣には見えた。

 

 渚と付き合って三カ月余り、そういう所にも気が付いてくる結衣さんである。

 

「やっぱり先輩にとって晶さんはお兄さんみたいなもので……。だから先輩のあの眼差しはきっと……」


 と、その時。

 不意に浴場の扉がカラカラと小気味よい音を立てて開く。

 

「あら? 入っていたのは結衣さんだったのね」


 慌てて湯船から口を出していつもの澄まし顔に戻る結衣を見て、にっこりと微笑むその女性――

 

「でも丁度良かった。結衣さんとは一度話がしたかったの」


 渚の母親・静だった。

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