第4章:懐かし気分、もやもや気分

第43話:楽しみにしてるから

 梅雨が終わり、暑い夏がやって来たらすぐに大学は夏休みに入った。

 

 ほんの数か月前までは高校生だった結衣からすると、長い休みへ入る前に試験がないのは何とも不思議な気分になる。

 大学は前期・後期制で前期の試験が夏休み明けなのは知っていたが、なんだかお小遣いの前借りみたいでどうにも落ち着かない。

 

 まぁ、でも夏休みは夏休みだ。

 お嬢様らしく暑いのは苦手な結衣としては、どこか涼しい避暑地へ旅行に行きたかった。

 

 それなのに……。

 

「ううっ、面目ありません……」


 盛夏で木々たちがこれでもかと生い茂り、蝉たちが一斉にコーラスを奏でる山中にて。

 結衣は木陰にあるベンチに座って、ぐったりとしていた。

 

 どうしてこうなってしまったのか?

 本当なら今頃は夏でも涼しい北海道あたりを旅行しているはずだった。

 それが何故かS県よりもさらに南の、ぐねぐねと曲がりくねった山道を渚の軽自動車でさっきから登ったり下ったりしている。

 

 おかげですっかり結衣は車酔いしてしまった。

 

「ごめんね、結衣。渚の車がボロいせいで」


 健斗が水のペットボトルを結衣に差し出しながら、結衣のこの事態は全て渚の車のせいだと責めた。

 

「でも曜子先輩の運転もかなり荒いよね? 曜子先輩の運転にこそ問題があるんじゃないかな」


 いきなり受け渡された責任爆弾を、渚は慌てて曜子へと投げ渡す。

 

「ひどいわぁ。ふたりとも山道は苦手やっていうから、うちが運転してあげたのにぃ。というか、健斗君がやたらとおならを連発するから、結衣ちゃんがその毒ガスにやられたんとちゃうん?」

「それだ!」


 曜子の言葉に渚はすかさず賛同した。

 結衣がグロッキーで発言権を発動できない今、二対一になったら勝負は決する。

 

「昨夜食べた餃子がご迷惑をおかけして大変申し訳ございません」


 かくして健斗はベンチにぐったりと座る結衣に土下座を決めた。

 

 が、実際のところ、結衣が車酔いをしてしまったのは、車でも運転でも昨夜食べた餃子のせいでもない。

 全ては書道研究室の夏合宿が避暑地ではなく、暑い南の海辺の町で行われるせいだった。

 

 でもただの海辺の町なら暑い暑いと文句は言うだろうけれども、これほどの失態は晒さなかっただろう。

 問題はその海辺の町が……。

 

「結衣、もうちょっとだけ我慢して。僕の実家、もうほんのすぐそこだから」


 そう、よりにもよって合宿場が、渚の実家が経営する民宿ということだった。


 聞けば二年前までは大学の書道室で合宿をしていたと言う。


 それが昨年、渚の祖父が「是非にうちの民宿を使ってやってくださいな。勿論、お代なんかいりません。孫が日頃からお世話になっとるんですから」と提案してきた。

 

 そこで試しに合宿してみたら、民宿とは名ばかりの旅館も顔負けの豪華なお屋敷で、広々として快適そのもの。

 出される料理も海の幸、山の幸がどれも新鮮で大満足。

 加えて海がすぐそこだから気晴らしに泳いだり、ビーチバレーをしたり。

 夜は夜で花火大会や肝試しなどですっかり楽しんでしまった。

 

 おまけにそんな最高の環境が影響したのか、夏合宿で書いた作品が軒並み県書展で大活躍。

 渚に至ってはそれまでまともな作品が書けなかったのに、初めて挑戦した前衛書でいきなり二部の知事賞を取ってしまった。

 

 そんなわけで「今年も是非行こう!」となったわけだけれど、結衣としてはたまったものじゃなかった。


 だって渚の実家で合宿をするということは、渚の肉親たちと対面するということだ。

 

 いいところのお嬢様のくせに顔の面が厚いというか、クソ度胸が据わっているというか、心臓に毛が生えていると言うか。

 とにかくちょっとしたことでは動じることがない結衣。

 しかし、恋人の家族と会うのは、そんな結衣の鋼の防御力を貫通するほどのものらしい。

 

 数日前から言いようのない不安に苛まれ、目的地に近づくにつれて心臓がバクバク、汗がダラダラ。

 そうしてとうとう車に酔ってこのザマである。

 

「家ではみんなが結衣の来るの楽しみにしてるから。ほら、だからもうちょっとだけ頑張って」


 でも渚はそんなことにちっとも気が付かない。

 やっぱりこの人、女心がこれっぽっちも分かってないと内心で毒づく結衣だった。

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