第33話:僕はまだ結衣の彼氏だ
「へぇ、君って寝取られ体質なんだ?」
隣のテーブルから菱本が渚に話しかけてきた。
「まぁ、確かにそんな顔をしてるね。可愛い系でモテるだろうけど、いざ付き合ってみたら底が浅くてすぐに飽きられるタイプだ」
「なっ!?」
「ああ、怒らない怒らない。そもそも仕方がないことなんだよ。君は若すぎて、まだまだ男としての経験が足りないんだ。こればかりは場数を踏まないとどうしようもない」
挑発に珍しく怒りの表情を見せる渚に対して、菱本は余裕の笑顔を浮かべながら朗々と諭す。
「でも女の子たちにそんなのは関係ない。付き合ってみて楽しくなかったらポイさ。だから捨てられたくなかったら男を磨かないとね、君も」
「……あなたは経験豊富だと?」
「まぁ、君よりかはずっとね。神戸さんもその辺りはもう気が付いていると思うよ?」
見せつけるように。
菱本が右手を馴れ馴れしくも結衣の肩へと置いた。
結衣は別にその手を払い落とそうとしない。
顔は渚とは反対方向を向いたまま、その表情は伺い知れなかった。
「言っておくけど、彼女を責めちゃいけないよ。元はと言えば君が巻いた種だ」
「……どういう意味、ですか?」
「さっきそこの彼女が言ってたよね」
菱本がかすかに動かす顎と視線で雛子を指す。
「『前のカノジョさんとは別れたんですか?』って質問に『そんな感じ』って答えたって」
「そ、それは!」
「うん、ウソなんでしょ。でもね君、そのウソがどれだけ神戸さんを傷つけたか分かる? だって彼女は僕が『彼氏はいるの?』って訊いても上手く胡麻化してたんだよ。それはこの場の雰囲気を考えて、そしてなにより君をこれ以上裏切っちゃいけないという想いによるものだった。なのに君は簡単に彼女を裏切って、神戸さんと別れたってウソをついちゃったんだね」
「…………」
「だから彼女の心変わりを責める権利は君にはない」
冷たい言葉とは裏腹に、菱本の手は次第に熱を帯びてくる。
指が結衣の肩からうなじへ移行。
それでも結衣は拒絶しない。
そんな様子に満足げな菱本は結衣の髪を指で梳きながら、その耳元にそっと何かを囁いた。
視線をじっと渚に向けながら。
その瞳に愉悦の色を濃く滲ませて。
「結衣っ!」
とうとう渚が我慢の限界を越え、苛立った声を店内に響き渡らせた。
と同時に床を蹴り上げるように勢いよく立ち上がる。
「先輩、何をするつもりですかぁ? 気持ちは分かりますけど、喧嘩とかダメですよー」
のんびりとした口調で止めようとするのは雛子だ。
「そうそう。ただでさえさっきから騒がしくしてるのに、さらに喧嘩なんかしたら店を追い出されるよ? いや、それどころか出禁を喰らっちゃうかもなぁ。ここを出禁になったら君、今後は他の子とのデートが大変なんじゃない?」
例えばそこの君の目の前に座っている子とさ、と菱本が雛子のアシストへ応えてみせた。
が、そんなのは関係なく渚はずんずんと迫る。
どうやら争いは避けられそうにない。
ならば返り討ちだと菱本がジャケットの前ボタンを外して立ち上がろうとしたその時。
「帰るよ、結衣っ!」
渚は菱本ではなく、その隣に座る結衣の手を握りこんだ。
「え? ちょ、ちょっと、渚先輩!?」
「帰ろう、結衣。色々と話したいことがあるから」
戸惑う結衣を渚は半ば強引に立ち上がらせた。
「おいおい、まだ彼氏気取りでいるのかい、君は? 彼女、嫌がってるじゃないか!」
「彼氏気取りじゃありません。僕は結衣の彼氏です!」
「何を今さら。さっきも言ったように君は自らその権利を放棄して」
「だけど結衣は僕と別れたと言ってないんでしょう!? だったら僕はまだ結衣の彼氏だ!」
渚は財布から諭吉を二枚取り出してテーブルへと置くと、結衣の手を引いてさっさと店を出て行った。
結衣も立ち上がる時にこそ少し抵抗していたが、手を引かれる頃には素直に渚へ従って行った。
扉の向こうへ消えていったふたり。
それを見届けて健斗は「ふぅ」と息を吐く。
それは健斗だけではない。
一年生のふたりも、女の子たちも、菱本たちのテーブルの子もみんな同じで、健斗に続いて一斉に「はぁ」とか「ふへぇ」とか思い思いの感情が息となって零れる。
その中で菱本はひとり、苦笑いを浮かべていた。
こんな時でも、いやこんな時だからこそ余裕を忘れない。
すかさず「いやー、ちょっとからかいすぎちゃったかな」なんて言いながら、おかしくなってしまった場の空気の回復に努める。
おまけになんだか隣の席からチクチク視線が刺さってくるので、もうついでだとばかりに「よかったら君たちも一緒にどうだい?」と誘ってみる菱本。
余裕を演じてはいるが、あともう少しのところで獲物を掻っ攫われたことにちょっと自棄気味になっているのかもしれなかった。
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