第26話:自慢ですか!?

 正直なところ、渚はまだ結衣の前で筆を持ちたくなかった。

 しかし、こんな深夜の書道室にわざわざやって来たのは作品意欲が湧いてきたからで、結衣も「早く見せてくださいよ」と急かす。

 

 こうなっては仕方ないと準備に取り掛かった渚、だったのだが……。


「早く見せてくださいよって言うけど、さっきから全然僕の方を見てないよね、結衣?」

「んー、そんなことないですよ。気のせいじゃないですか?」

「気のせいじゃないと思うけどなぁ」


 うん、気のせいでも何でもなく、結衣は準備する渚なんか気にせず筆を洗っていた。

 だって渚の実力はもう知っているんだもんと言わんばかりに。

 

「まぁまぁ、そういじけないでくださいよ。書くところはちゃんと見てあげますし、なんなら私がアドバイスを……あれ、バケツ?」


 紺色の毛氈が敷かれた上には3×6尺サブロクの画仙紙が広がっている。

 しかし、その横に置かれるはずの硯はなく、代わりにあるのは墨をなみなみと注がれた水色の大きなバケツ。

 その中にこれまた大きな筆が入っている。

 

「じゃあ行くよ」


 そう言って渚が筆をべちゃりと画仙紙に叩きつけた。

 結衣は苦笑を禁じ得ない。

 そんな調子ではまともな作品になるわけがない。ド素人丸出しだ。

 

「……え?」


 なのに毛先が紙面を滑るやいなや、思わず驚きの声が結衣の口から漏れ出た。


 渚の操る筆が、何の躊躇いもなく自由自在に紙面を走る。

 そこに何か特別な技術とか、操筆法があるようには見えない。


 でもかれこれ10年以上も書道と付き合ってきた結衣でさえ見たことのない線が、次々と目の前で生み出されていく。

 

 え? なんでそんな線が書けるの?

 は? 今のでどうしてそんな掠れが?

 ちょ! 全然意味わかんないんですけどっ!

 

 渚が筆を動かすたびに、結衣の目がどんどん見開いていく。

 そして。

 

「よし、完成!」


 巨大な筆がバケツに収められ、にこやかに微笑む渚の下に書き上げられた作品は――。

 

「先輩、これって……」

「うん! ライブの元になったアニメをね、東京から戻ってからずっと観てたんだ。面白いね、あれ。僕もすっごくハマっちゃってさ、それでイメージが湧いたから書いてみたんだけど、どうかな、ちゃんと分かるかな?」


 分かる。

 悔しいけれど、すごくよく分かる。

 あのアニメを知っている人ならば、絶対に分かるはずだ。


 というか、素人丸出しの操筆のくせして玄人顔負けの線を生み出すことといい、この圧倒的な表現力といい、これは間違いなく。

 

「あの大谷翔平を書いたのは先輩だったのですかっ!」

「あ……う、うん」

「どうしてあの時言わなかったんですかっ!?」

「いや、だって、結衣にあんな下手な字を見られた後に言い出しても信じてもらえないと思って」 


 しかもあの時の結衣は「こいつをぼっこぼこにすればいいんですね?」とか言い出す始末。

 到底、僕が書きましたなんて言える雰囲気じゃなかった。


「でも下手なのは本当なんだ。だからもう普通の綺麗な字は諦めて、前衛書を始めたんだよ。そうしたらなんか僕に合ってたみたいで……去年の県書展の二部で知事賞取っちゃった」

「なんですか、急に自慢ですか!?」

「自慢じゃないよ!」

「自慢じゃないですか! さっきまで情けなさそうな顔をしていたのに、いきなりドヤ顔に変わって……正直、ムカつきます」


 話を聞いた結衣は、最初のうちは呆れていた。

 が、次第にムカムカと胸の内に暗い感情がこみあげてきた。

 

 ということは何か、渚はこれといった努力も鍛錬もせずに才能だけであんな作品やこんな作品を書けるというのか!?

 書道ド素人のくせして師である庵寿すらも注目せざるを得ない存在になっているというのか!?

 

 東京で渚が記帳する字を見た時は、思わず笑ってしまった。

 本来なら字が下手な書研生なんてと軽蔑する筈なのに、何故かそんな気にはなれなかった。

 今から思えばあれは渚をライバルではなく、恋人として見ることが出来ると安堵したからかもしれない。

 が。

 

「いいでしょう、渚先輩。今日から先輩は恋人でありながら、書道のライバルです!」

「え、僕が結衣のライバルなんて務まるわけないよ。それより今書いた奴に何かアドバイスは……」

「そんなもの、あるわけないでしょう!」


 ぷいっと顔を背ける結衣の視線の先には、自分が先ほど書き上げた作品が吊るしてある。

 さっきまでは会心作に思えた。

 が、今となっては随分と色褪せて見える。

 全部、渚が書いた作品のせいだ。

 

「ふん。先輩、負けませんからねっ! 市長賞は私が貰いますから!」

「うん、頑張って」

「なんですか、それ!? 余裕ですかっ!? ますますムカつきますね! 分かりました、その余裕顔を泣き顔に変えてやりますよっ!」


 6月の市展の結果で、と結衣は言ったつもりだった。

 が、旅行で結衣とかなり親密になれたと安心していた渚は、突然の変貌ぶりにおろおろとするあまり、早くも泣きそうになっている。

 

 こうしてふたりが迎えた初めてのゴールデンウィークは終わったのだった。


 

 ――作者より――

 

 これにて第二章完結となります。

 ここまでお読みいただきありがとうございます!


 実はアニオタだった結衣さん、そして実は喧嘩が強くて(一応、男子校時代に迫ってくる男たちをばったばったと投げ飛ばしたと随分前に伏線を貼っておりましたw)、しかも書道センス抜群だった渚、どうだったでしょうか?


 面白いぞって人はよろしければ星を入れてくださいね。その期待に応えなきゃなって頑張る気持ちになりますので。


 明日から第三章『困った気分、ぷんぷん気分』が始まります。

 章タイトルにもあるように、ふたりに大きな困難が立ち塞がりますよ。

 どうかお楽しみに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る