第2話 忘れる漸近線

 


 夜の風景は濃密な原色である。私は部屋の隅に身体を引き伸ばして寝ていた。窓辺のカーテンを透かして、月の光が天井に方形の模様を形作っている。街に下れば、ネオンランプや輪になる人々の熱気で橙色に活気付いている。私の部屋の窓枠からは遠く遠くに見える。身体は電源を切り脳は冬眠の到来を待っている。物理学や哲学や其れも浅い部分や、表現技法などの抽象的な現象を脳内でグルグル移動してみる。大抵は此れでぐっすり眠れる。眠りたくはないけれど、考えの継ぎ穂は惑星の運行に畳み込まれて行く。流星の興亡と共に日々の架橋も再構築される。私は枕元のランプの摘まみを捻ったり戻したりした。光が眩し過ぎて目を瞑る。音も鳴らさずに指は稼働する。目蓋の上が涼しい。対照的な暗い世界。まず壁の凹凸を思い浮かべる。壁に刻まれた最小単位の傷を無数に拡大する。次に、街路を雨に濡れた道路を。砂礫や雨滴や鼓動や(其れは結局生命に関連してしまっているけれど)黒炭についてそぞろに考える。見落としてコロコロと自由落下する立方体の内に、生鮮で私の目を惹いた色彩があった。矍鑠とした心臓の管だ。巻き上がる炎の火の粉。火炎は円周上を連鎖して、蛾の鱗粉と同等に優美に変わる。ガス灯の下に止まる君。燻る燠が膨れ上がり、私は岩石の恐怖を覚えた。確実に天文学が重なり合わない二種の軌道を擦れ違わせる。暴風雨によって浸水する今夜、世界の真層は玉葱の層状に脅かされる。木綿に押し詰めた指の天頂で私はタップダンスのリズムを弾く。無意識下に行われた此の出力は、内壁の錯覚に過ぎない。感覚のメトロノームだ。生命の隆起と沈降を胸の静流に透過させる。夢にくるまれてグンニャリと骨盤は歪曲する。剰余と不可思議が曲面を支配する。カラーキューブの赤や青が出現し四囲を跳び廻る。一箇一箇のブロックの側面には、猫の引っかき傷が縦に引かれている。震盪する軌跡に対して、私は両目で注視する。古代文字のような円弧や罫線で満たされた刻鏤。剰余で片づけるにはあまりに惜しい。栄養素が足りていないのだ。私は記された文字を読み取ろうと勤しむ。焦点を周縁に定め魂の濾紙で透析する。体液の表面をなだらかに漂泊する羅列。火花がカチッカチッと点火する。蛇の尻尾が指の腹を摩る。空漠の胸中を両手で掬い上げ、半透明なセロファンを透かして微小な体温を知覚する。知っている筈だ。遠い昔に陰って消える残像。自分の輪郭を追い駆けるようでもあり、摩訶不思議な第三者のようにも見える。あべこべであると同時に一切が明敏でもある。天空にスクっと伸びた縄文杉のDNAが私の細胞にも遺伝していた。 

 

 私は威勢よく立ち上がった。温暖な布団の幅は剥離する。


 「そうだろうね。」


 「そういう風に考えることは悪じゃない。」

 

 机の上には未だ読んでもいない本と、角には書きかけの小説を記したノートが乱暴に積まれている。役に立たない物質量の蓄積。私は机上の書籍も紙片もノートも全て構わずひとまとめにして追い払った。そして少しばかり空いた平坦なスペースに破れた用紙と鉛筆と掌を載せた。物憂そうな私の腰のラインを見よ。未だどの国でも刊行されたことのない人間的な象形文字を象っている。

 

 「うれしい」と「たのしい」という単語は違うものを指すのだろうか。右の掌をそっと握り合わせた。指の内側には無暗に空間が膨らんだ。此の気体の成分を澱んだ渦とするか、太陽のメレンゲとするか。二者択一というよりも自由記述のようで。楽しみという定義には思ったより深みがありそうだぞと私は感心した。


  思い出すのは歯並びの出鱈目な彼の笑顔。笑窪は蔓植物を熱帯林に生育させてしまう。ギザギザで三角形の葉型は狂おしく鉄板を赤く輝かす。身に染み入る銅のフラクタル。ぼんやりと止まったビデオテープの速度でぼんやりが人間味を伝える。私の心はだんだんと宇宙底に潜り込んでいった。穏やかで温い音調。四肢は変形してとてもミクロに近づく。流れと逆方向に、枝葉末節や巧拙がガラスの破片と共に輝いていた。現在の私の臓器は躍動しているし、又無限宇宙の果てにも自我が存在して哲学している。物音は私の細胞から発光した。

 

 彼が垣間見せた笑顔の壁画は、当たり前の素朴な地殻から創造せられた。もしも日常生活が数学の定理と同等に神秘だとしたら。全体が君の魂の分割と統合だとしたら。ピンと張った弦を左手で心に掴む。砂浜に埋まった下位の思想を大慌てで掘り起こす。砂も払わない儘、一心に貝殻を拾い集める。揺籃の波濤は意識によって幾重にも満ち引きを繰り返す。急げば急ぐほど。忘れるってことが恵まれた財産ならば、忘れられないってことも又呪われた病なんだ。西瓜の種飛ばしみたいに気焔だけを吐く。タンブラーが転がって見る間にシャンパングラスもトールグラスも破裂する。細波のうちに夜の暗黒の下立って、五体を水飛沫で濡らした。破砕したガラス片が水面をキラキラと跳躍して綺麗だ。微生物の心拍が寝静まるまで。惑星は飛行し原始的リズムが奏でられる。深紅な沈着の中で、目の焦点は虚空を漂い思考はするりと脳みそから逃げて行く。空間に弥漫してガスが吹き抜ける。進歩と停滞は繋がって起こるから。きっと真っ直ぐな直線がひねくれた曲線を描くことだってある。私はザラザラし表紙をひっくり返して鉛筆で数列を書き加えた。既に緑の色鉛筆で枠をはみ出た象徴が記してある。日々の栞が合間に挟まり緩和している。目の前に置かれた四角の積み木。質素に間欠泉のように湧き上がる情念。地の底を這う気泡を纏いながら。

 

 映写機のフィルムのように私たちの日々は平穏で不変で、……ただちょびっとした日差しの入射角で新鮮に移り変わるのだろう。微細な質量に眼差しを向けて、飽和した世界を正の数で定義してみる。例えば、スプーンの煌びやかな金属面。駅の階段に影を落とす窓ガラスの平行四辺形。普段の私は、自分の指の起伏と毛細血管を忘れてしまったのだろうか。消し去った雪原の足跡の上により深く抉る重量。肌を注ぎ込んで生成される淡泊な黒魔術。感覚を混迷させ壺の底から覗き込んだ朝の熱気球。もうもうと湧き上がる煙でパンを焼いた。明日のパンだ。人類が生き残るために欠くべからざるパンだ。夜の本舞台の裏で、パン種は市井の隅々まで行き渡った。生地は丸々と膨らんで、静脈血を吞み込み、衛星を呑み込み、意志を鍛える。最早単なる小麦ではない。朝日だ。

 

 ビデオデッキの内側の歯車に木の葉が詰まっている。不思議に思っていたのだ。テレビ画面は頻繁に途切れ、あらすじもストーリーも任意に繋ぎ合わされる。だから何度もビデオを叩いていた。其の度、乾燥した木の葉が上肢に降りかかる。色はアクリル絵の具の衝撃。私は親指と人差し指でつまんで一枚一枚引き伸ばした。葉脈が指紋に従い丁寧に解かれる。絨毯を席捲して放射線が散乱する。光る鉱脈は四辺を照らしあげた。此の午前3時の和室にも熱源が転がっていた。


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