第2章

第9話 後手に回る

 夏休みに入ってしばらくの間、俺は宿題に集中していた。バスケの試合の予定は入っていなかったし、クラブに行く日もそれほど多くはなかった。学校に行ったところでバスケ以外に用事はないし、友人たちもいないので少しつまらない。もちろん、クラブの用事でときどき来ていたが、ゆっくり話す時間は取れなかった。

 一度だけ、史とグラウンドで話す機会があった。木陰になったベンチに座り、暑い日にむさ苦しいが男二人で世間話をしていた。クラスメイトの誰が旅行中だとか、宿題が面倒くさいだとか、どうでもいい事を話したあと、話題は叶依のことになった。

「そういえば、あいつがグラウンド歩いてるの見たことある? 放課後」

「あったかな? 何してんのか知らんけど」

 俺がそう言うと、史は少し得意そうな顔をした。

「悩んでて行き詰まったら、よく歩いてんねんて。去年、三学期に歩いててさぁ、何してたと思う? 俺に曲作ってくれててんで! 誕生日プレゼントって! タイトルが意味わからんかったけどな……」

 嬉しそうに話す史に、俺は少し顔をひきつらせた。それは俺に自慢してるのか? と聞きたくなるのを我慢し、別の質問をした。

「何やったん? タイトル」

「フミクリ・フミクラ。わけわからんやろ」

 そう言いながらも史は嬉しそうだった。

 俺が叶依を好きだと知って、だから海帆と付き合いだして、それでも自分は叶依と仲良しだと、俺に見せつける。叶依を諦めていないのか、それとも俺を挑発しているのか。

「今年も、いつやったかな……そうや、おまえんちにJBLの会長が来た日や、あの日も歩いてたで。その時にさぁ、ここに座って──めっちゃ深刻な顔してた」

 史は──俺を怒らせるつもりは全くないらしい。

「俺はこっちにボール飛んできたから取りに来て、ちょっと話しただけやってんけどな。何を悩んでたんやろな」

「ギターのことか? スカウトがしつこいって言ってたやん」

「いや……、そんなんじゃないと思う。伸尋、おまえ聞いたれてやれ

 そもそも現場を見ていないのにどうやって、と言おうとしたが、史は立ち上がって俺の肩を叩くとそのまま行ってしまった。

 叶依が悩むことと言えば、心当たりはある。球技大会の帰り道で話した家族のことを、俺は忘れていなかった。叶依が家族以外の人間と暮らしてきたことも、子供の頃の記憶があまりないことも、もちろん忘れていない。

 クラブのメンバーが全員帰ってからも、俺は一人コートに残っていた。ボールを構えて狙いを定め──、放ったボールは予定通りネットを通過する。しかし俺の気持ちはどうも、上手く的に当たりそうにない。

 俺は荷物を片づけて、ひとりで学校を出た。時間があるので遠回りをして、あの木を見に行った。

『この樹が私を知ってるから──それで良い』

 叶依はそう言っていたが、本当にそれで良いのか。俺はそっと木に触れた──ひんやりとして気持ち良かったが、もちろん何も分かるはずはない。この木のように強くなれたら、叶依をずっと守っていけるだろうか。いや、違う。俺がいまするべきは、叶依にちゃんと気持ちを伝えることだ。

 ──人気者のくせにそんなことも言えないのか俺は、情けないな。


 叶依はZippin’ Soundsからデビューしたので忙しくなったのか、俺はもちろん、他の友人たちにもあまり連絡をしていなかったらしい。お盆の頃に史からLINEがきて、そんなことが書いてあった。本当のことを言えば連絡が欲しいし、もちろん会いたかった。しかし、叶依に迷惑をかけるのも嫌で、俺から連絡をすることはなかった。

 そして叶依には何も言えないまま、二学期になった。ようやく叶依と話せる、と心を躍らせて登校したが、教室に入った途端、気分は沈んでしまった。いつもなら友人たちと楽しくしている叶依は自分の席で、誰とも話さずに一人で座っていた。叶依には妙に明るい片瀬珠里亜という友人がいたが、彼女でさえ叶依と話すのを躊躇っていた。

 始業式にはちゃんと出て、ホームルームでの担任の話も聞いているように見えた。しかし、俺が知っている限り、叶依は本当に誰とも話さないまま、下校時刻になった。

「おまえらなぁ、先帰れ」

 叶依に声をかけるべきか悩んでいると、史がそう言った。

「伸尋、おまえも帰れ。今日はあいつと話するな。俺の勘が正しければ、あれやな」

 何? と聞く前に史は叶依に声をかけ、しばらくしてから一緒に下校した。俺はもちろん、他の友人たちも、付いていくことは許されなかった。

 夏休みの間、叶依は何をしていたのか。

 どうして誰にも連絡をしなかったのか。

 デビューして有名になったはずが、今日の叶依はまるで嫌われている人のように、人を寄せ付けなかった。史ではなく俺が事情を聞きたかったが、俺は思い当たることがなかった。叶依と話したところで、泥沼化するだけだ。もちろん、家族のことは気になるが──、それを気にしている様子ではなかった。

 そのまま家に帰る気はしなかったので、俺は一人で体育館に行った。今日はクラブは無い日だが、身体を動かしていたかった。そうでもしないと、考えすぎておかしくなりそうだった。

 学校を出てから俺は、なんとなく史の家に行った。叶依を寮に送り届けて、家にいるだろう。

 深沢家に到着すると、史は部屋にいた──しかし、そこには叶依の姿もあった。叶依は寮には戻らずに、ここで史と話していたらしい。

 叶依は少し気分が戻ったらしく、俺と話をしてくれた。

「なんでまだ制服なん? しかも、ちょっと乱れてるし」

「……バスケやっててん。一人で。もうすぐ試合あるし」

「また?」

「うん。それで俺の活躍次第で、JBLに入ってくれって言われて、OKしてもぉたし」

 あれから何度か山野と話す機会があって、次の試合で結果が良ければ契約すると約束してしまっていた。もちろん、学校を優先させたい気持ちは変わっていないし、自分の時間が無くなりそうなので不安が全くなかったわけではない。

 叶依の前にオルゴールが置かれていて、気になったので何かと聞いてみた。

「それな……、こいつのやけど」

 史が叶依に視線を送ると、叶依は頷いた。夏休みの間、叶依が誰にも連絡をしなかった理由を、史は教えてくれた。話が終わると俺は、鞄を持って史の家を飛び出していた。飛び出して、走って──自宅に戻ると階段を駆け上がり、鞄を放り投げて頭を抱えた。

 叶依は夏休みに北海道へ行って、滞在中お世話になった家庭の長男と付き合うことになった。それは、OCEAN TREEのリーダー、葉緒海輝だったらしい。

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