第3話 言語について考えた
キリスト教の旧約聖書の最初の書である『創世記』の第十一章によれば、昔、人々は同じ言葉を使い、同じ発音であったと言う。そして人々は、名を上げるために、天にも届く塔を造ろうとした。しかし、主は、人々の思い上がりを見て、彼らの言語をバラバラにし、互いに言葉が通じないようにしてしまったらしい。そのため、彼らは塔を建てることができなくなり、言語ごとに散ってしまったのだと言う。これが所謂「バベルの塔」の物語であり、言語がバラバラになった所以だ。
まぁ、これはあくまで伝説、いきなり違う言語を話し始めるという感覚など、想像するのも難い。しかし、この物語が真であれ偽であれ、現実に、我々の言語は唯一なるものではない。
一説によれば、人類というものが誕生した時には、言語はただ一つであったらしいが、その後極小さなコミュニティに分かれた際、少しずつ言語が変わっていき、最終的に、全くとは言わないが、違う言語になっていったという。
また、人類が複数の場所で誕生した場合、話されていた言語も場所毎に異なっているので、最初から複数の言語が存在していたということになるらしい。
私は前者を推している。やはり、アフリカを起源とするホモ・サピエンスが世界各地に散らばったという、アフリカ単一起源説が有力だと思う。
過去を覗けば分かることだが、そんな無粋なことはしたくない。過去だろうが未来だろうが、今を流れる一瞬の美しさに敵うものなどありはしないのだ。起源の解明は、言語学者に任せた方が良いだろう。
さて、言語に対する認識を整理したところで、今私が直面している謎に立ち向かおう。というのも、私が今いるこの世界、つまり異世界にも言語があるのだが、調べたところ、この世界の言語は、信じられないことに、一つしかないらしい。勿論、日本のように、地域における方言の違いのようなものはあるが、専ら同じものである。
一体どういう歴史を辿れば、このような状況になるのだろう。
私の考察では、先ず人間は一つの場所から誕生した、単一起源であると思う。理由は簡単で、複数の場所で誕生したという状況、且つ、言語が統一されているという状況が想像できないからである。戦争による統一を考えたが、調べたところそうではないらしい。よって、単一起源の方が自然であると考えたのだ。ここからは、私でも納得していないが、これしか考えられないというものである。それは、アフリカから世界各地に散らばったのと同じように、この世界でも、各地へ散らばった。ここで違うのが、各地へ移動したのが、言語が相当発展した後であるという事だ。そうすれば、多少違いがあれど、洗練された言語であれば、そう簡単に崩れる事は無いだろうからだ。だが、この状況が生まれる確率は、言うまでもなく低い。だから、あまり納得していないのだ。この世界の歴史学者に、意見を聞いてみたいものだ。いるならの話だが。
ちなみに、この世界に来る時、ハーンさんから『一週間完成 異世界語文法〜初級編〜』という参考書、というか問題集を貰った。なので、この世界の言語の文法は、最低限理解しているが、問題は、この本には簡単な単語しかなく、単語帳というものがないという事だ。英和辞典ならぬ、異和辞典なぞがあれば良いのだが、広辞苑のように、異世界言葉を異世界言語で説明しているので、この世界の辞書が役に立たない。なので図が描いてある文献が、涙腺が崩壊してしまうほど、ありがたい。
文法が分かると言ったが、今の私の能力は、「読む」「書く」のみで、「聞く」「話す」は、完璧とは言えない。だが、それは最もな事で、これは日本の英語教育にも言える事だが、そもそも習う順番がおかしいのである。大抵の場合、英語の教育は「書く」から始まる。あの永遠にアルファベットを書かされる、あれである。そしてその後、教科書に書いてある文章を「読む」ことが始まる。そして大学受験にあるリスニングの試験を突破するため、「聞く」ことを練習する。最後に、社会に出て、必要があれば、「話す」ことを練習する。これが今の日本の英語教育の実態である。要約すれば、日本の英語教育は「書く」→「読む」→「聞く」→「話す」の順番で教育を行なっている。だが考えて欲しい。先ず我々は、母親から生まれ、誰かに話しかけられ、その言葉に反応することから学ぶ。これはすなわち「聞く」である。その後言葉を学び、発音を習得する。所謂「話す」である。そして義務教育がスタートし、教科書を読み、文字を書くことの教育をなされる。つまり、「読む」「書く」である。これが、我々が日本語を学んだプロセスである。何が言いたいかは、ここまで来れば自明だろうが、要するに、日本の英語教育は順番が違うのである。だから、読めはするけど話せない人が続出するのである。例として、他国の異国語教育は「聞く」から始まっている。まぁ、翻訳技術が発達しているので、深く考える必要は無いのかもしれないが。
日本の教育について語るとともに、私は人間の街を歩いている。固有名詞を読むことができるほど、まだ言語を理解していないので、街の名前は知らない。食事処を探しているのだが、あまり見つからない。陽が南中しているから、人の流れに乗ればどこかしらに辿り着けるだろうと思っていたが、見誤ったようだ。
言語が話せないのに、どう注文するのかという疑問が出るだろう。ここで役に立つのが、ノンヴァーバルコミュニケーションである。つまり、言語を介さないコミュニケーションだ。実際にどうするのかというと、注文に来た店員に対し、メニューの名前に指を置き、「これが欲しい」という空気を作り出すのだ。これで話さずとも、意思疎通ができる。
さて、さっきから路地裏を通っているのだが、何か声がする。何を言っているのか分からないがちょうど良い。案内して貰おう。
できれば、奢らせよう!…いや…あの、勿論返すよ…手元にお金ができたらね…。
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